ハグしないと出られない部屋

 なんでこんなところにいるんだっけ?
 うんうん唸って考えてみてもここに至るまでの過程をひとつも思い出せない。攻撃を受けているのだろうかと不安になってあたりを見渡すと、壁には“ハグしないと出られない部屋”の文字。
 ハグ、はぐ、hagu…
 冗談でしょ。声を出すことすらままならない私をよそに、なぜか一緒に閉じ込められている生駒さんは私たちに突き付けられた宣告を読み上げた。

「ハグしないと出られない部屋、やて」
「はぐ…」
「……取り敢えず書いてあるみたいに、ハグしてみーひん?」
「へ?」
「言われた通りにしたら簡単に出られるかもわからんし」

 音になると途端にこの状況が生々しくなってきた。生駒さんと、私が、ハグ? いやいや、それはちょっと、厳しいっていうか。
 脳内は上を下への大騒ぎだ。誰にも届かないエマージェンシーコールを繰り返しいよいよ追い詰められた時、ようやく自分の格好がトリオン体であることに気づいた。

「べ、ベイルアウトは出来ないんですかね」
「確かに。試してみよか」

 両の手をポンと打ち、生駒さんは頷いた。助かった。これでハグは回避できる。そう思ったのも束の間、せーの、で緊急脱出を口にしてみたが身体がボーダー本部のマットレスに落ちることはついぞなかった。目の前には今までと寸分も違わない、真っ白い部屋の壁がある。約10m四方の立方体の内側のようだ。
 一縷の望みを砕かれた私は、膝から崩れ落ちそうになるのを必死で堪える。

「できひんな」

 言いながら生駒さんは壁に向かって彼の代名詞とも言える旋空弧月を放ったが、手応えはなさそうだった。まるで訓練室だ。ボーダー屈指の実力者の攻撃が通らないとなると、もう私に出来ることもないだろう。
 弧月を鞘におさめた生駒さんはぐるりとこちらを向いた。そして両手を大きく広げ、いつも通りの真顔で私の名前を呼んだ。

「ほな、ナマエちゃんのタイミングでええから。ハグ」
「えっ!? 私から行くんですか?」
「せやかて、俺は女の子に抱き付いたりしたらアカン顔やろ」
「そんな顔あります?」
「ここにあります」
「絶対考えすぎですよぉ…」

 いくら言葉を積み重ねてみても、生駒さんは頑なに動こうとしなかった。彼女でもない異性に自分から触れないという固い意志は紳士と呼ぶに値すると思う一方で、大役を押し付けられた気分の私は生駒さんの意気地なし! と失礼なパニックを起こしそうになっている。
 生駒さんは、ボーダーのアタッカーランク上位の実力者であり、私にとっては同級生の水上の隊長という立ち位置でもある。水上を通じて知り合った彼は、ひとつ年上の大学生であるからして、同級生の隊員に比べれば接点は少ない。
 けれども、会えば挨拶をするし、お互いに急いでいなければ「最近のすべらない話」を披露してくれるし、帰りが遅くなると「女の子1人なんて危ないやろ」と家の近くまで送ってくれる。そんな微妙な距離感を保っている。有り体に言うと、良い雰囲気の相手、といったところか。
 私自身、たくさん笑わせてくれる面白い人は好きだ。だからけして、目の前の生駒さんとのハグが嫌なわけではない。むしろその逆で、状況はラッキーと言って良い。けれども私ときたら、腕を広げる相手のどこに自分の両手を置けばいいのかすら分からない程、こういう男女間の事には疎いのだ。トリオン体のはずなのに左胸のあたりがバクバク鳴っている気がして、生駒さんの顔がまともに見れない。
 腰回りに抱き付くようにすれば良いのか、少し背伸びをして首に腕を回せば良いのか。ぐるぐる考えて正解を探す私はかなり険しい顔をしていたようで、生駒さんが再び私の名前を呼んだ。話をするときは人の目を見なさいという母親の教えが染み付いている私は、弾かれたように顔を上げる。

「やっぱり、付きおうてへん男女がハグっちゅーのはアカンよな。スマン」

 いつの間にかゴーグルを引き下げていた生駒さんが広げていた両腕を畳もうとした。変わらない表情の代わりに、瞳の奥が申し訳なさそうに揺れている。勘違いかもしれないが、一直線に結ばれた口が何だか寂しそうでいたたまれない。

──ええい!こうなりゃヤケだ!

 ドン、と鈍い音がした。意を決し結構な勢いでハグをお見舞いしたのに、生駒さんはびくともしなかった。筋肉質だなとは日頃から思っていたが、初めて知った身体の厚みにどぎまぎしてしまう。
 しばらく宙を彷徨っていた生駒さんの手が背中に回った。トリオン体なのに、口から心臓が飛び出そうだった。

「折角のハグやのに、トリオン体なのが惜しまれるわ〜。……あ、これってセクハラ?」
「えっ? あ、イエ、私は別に大丈夫です…」
「ほんま? 良かった。俺ナマエちゃんに嫌われるのは嫌やから」

 それってどういう意味ですか。
 追及する間もなく、視界がぐにゃりと曲がった。ベイルアウトとはまた違った感覚だが、私はなぜか「戻れる」ことを確信した。


§


 ハッと目を覚ますと、身体はボーダー内仮眠室のベッドの上にあった。夜の防衛任務に備えて仮眠を取っていたことを思い出した私は、先ほどの“ハグしないと出られない部屋”を思い出して頭を抱えた。あの生々しい出来事が、夢?

「欲求不満…?」

 声に出すと顔に熱が集まってくる。生駒さんのことは、まだ、“ちょっと良いな”の段階だと思っていたのに、こんな夢まで見てしまったら気持ちがギュンと加速してしまう。
 任務まではまだ時間に余裕があるし、取り敢えず落ち着いて何か飲もう。そう思い立って部屋を出ると、その先にはあの真顔があった。

「い、いっ、生駒、さん」
「ナマエちゃんや」

 いつもならば出会い頭には礼儀正しく挨拶をしてくるはずの生駒さんは、それをすっ飛ばし覚束ない様子で優しく私の名を呼んだ。夢がリフレインして、気が気じゃない。
 ゴーグル越しと言えど目を合わせるのが恥ずかしくて、そして後ろめたくて、視線は下がったまま。何か言葉を続けるべきだろうかと頭を回しているうちに、見つめていた彼の靴が一歩こちらへ踏み出した。

「ナマエちゃんはカワイイなあ」

 女の子相手に発揮されるお決まりの口癖が繰り出されたかと思うと、次の瞬間にはその筋肉質な腕が私の背中に回された。ヒュ、と音を立てて空気が喉を走り抜ける。夢の続きと解釈するには、体を丸っと包み込む手の力が強すぎる。心地よい苦しさが、自分が今トリオン体ではないことを痛感させる。
 生駒さんの首筋あたりに顔を寄せる形となっている私は、接している部分の熱で爆発しそうだった。

「ワーーッ!! 生駒さんっ!」

 慌てて声を上げても、頭上からはうわの空の生返事がするばかりだった。もしかして……。がっしりした胸板を押し、開いた隙間から手を伸ばす。ちょっとすみませんと心の中で断り、彼のアイデンティティのひとつであるゴーグルを引き下ろせば、寝ぼけ眼が姿を現した。この人、まだ半分夢の中だ!
 ドキドキさせられたのにと拗ねたくなると同時に、お世辞にもかっこいいとは言い難い様子のはずなのに、家族以外見る機会のなさそうな表情を見てカワイイだなんて感想が頭をよぎる私は重症だろう。
 しかしいつまでも呆けているわけにはいかない。強めにベチベチ生駒さんの頬を叩くと、肌がほんのり赤らんできたところで凛々しい瞳がパッと開眼した。

「おはようございま、す……?」

 声に反応して顎を引いた生駒さんがこちらを見た。下手するとハグ以上のことができそうな距離に私の肩が大きく跳ねる。一方の生駒さんは、ポカンと口を開けて固まった。
 一拍置いて口をわなわな震わせた彼の顔は、みるみるうちに真っ赤に染まっていく。顔で湯が湧きそうな勢いだった。大丈夫ですか? と聞くより先に、手を挙げ降参のポーズを取った彼は猫のように俊敏な動きで後退し、壁に後頭部をしこたま打ち付けた。ゴンとかなりの音が廊下に響き渡る。

「す、すまん! 申し訳ない! 嫁入り前の女の子になんてことしてんねん俺は…。あんな、さっきまでナマエちゃんの夢見てたもんやから勘違いしてもうて、…いや、こんなん言い訳やな。ホンマ、すんません」

 表情こそ大きく変わらないものの、がっくりと肩を落としている様は、常にピンと伸びている背筋の美しさを知っている者としては、かわいそうになる程だった。
 何度も何度も謝罪を繰り返す彼に、私は慌てて首を振った。私は別に、取り立てて嫌な気持ちにはなっていない。むしろ、むくむくと芽を出した痺れるような感情に心は踊っているのだから。そして何より、萎れた姿は生駒さんには似合わない。

「いえ、そんなに気に病まないでください。…私、生駒さんにならハグされても嫌ではないので」
「えっ」
「えっ」

 だから思わず、余計なことまで口に出た。自分が放ったセリフを反復し、私は顔を赤くすれば良いのか青くすれば良いのか分からない。
 さっきから、ドキドキ、ハラハラ、ソワソワすることばかりだった。これ以上生駒さんの顔を見ていると、おかしくなってしまう! いや、もう十分頭は沸騰しちゃって、おかしいんだけども!

「ほ、ほな!」

 キャパシティオーバーの私は思考回路をバグらせた挙句、下手くそ極まりない似非関西弁を投げ付けて駆け出した。後ろから慌てた生駒さんの声が聞こえるが、短時間であまりにいろんなことが起こりすぎたため、立ち止まる度胸はもう残っていやしなかった。

「俺、脈ありって解釈してええの?」

 ギリギリ届いた呟きに大きく頷いたつもりだが、果たして、そのリアクションが正しく受け取られたかは定かではない。

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