惚れみたことか

2月7日

 先日無理に差し込まれた練習試合の代わりに本日の立海テニス部の部活はオフになった。正しくは自主練習ということだが、コートの使用権は二軍以下に譲られている。
 たまには体を休めることも必要だと理解している真田は、委員会の仕事を済ませ帰路についていた。いつもよりそのスピードは速い。「弦くん、あとでウチに寄ってね」と大きく手を振っていた彼女との約束を無視するわけにはいかないのだ。


「遅いよ真田」

 ナマエの家のインターホンを鳴らして数秒待つと、家主ではなく不服そうな表情をした幸村が顔を出した。唇を尖らせて心情を表に出す様子は学校や部活で見せるそれよりもずいぶん幼い印象を与えるが、お互いの家を行き来する仲で幼馴染の真田やナマエにとっては特に珍しいものでもない。

「すまん、委員会の仕事だ」
「まぁいいや、早く入りなよ。俺はもう限界」

 奥にいるであろう彼女へ届く大きさで挨拶をし家に入ると、瞬間真田は甘い香りに身を包まれた。なぜ今日ナマエに呼ばれたのかは容易に想像がつく。やはりこの季節が来たのだなと思い眉間にしわを寄せると、それを見た幸村は苦笑いをこぼした。二人そろってパワフルな彼女には振り回されっぱなしだ。とは言え、彼女にこうして呼ばれなくなるとそれはそれで寂しく感じることだろう。何だかんだ、大事な幼馴染だ。

「あ!弦くんいらっしゃい!早く座って」

 ダイニングでにっこり笑うナマエの手元を見た真田は分かりやすく顔を引きつらせた。机に並ぶダークカラーはおそらく全て、ナマエが作った様々な種類のチョコレート菓子だろう。真田は洋菓子に詳しくないので名称などはからきしだが、見ているだけで胸焼けしそうだった。
 ナマエは毎年バレンタインの前にこうやって山のように試作品を作り、真田と幸村はそれを食べて感想を述べなければならないことになっている。二人が美味いと言ったものが当日手渡される寸法だ。ちなみに、作るものが決まるとナマエは一週間それを作り続け、毎日律儀にお裾分けをしてくるため、真田と幸村にとってバレンタインというのは最早一週間開催のイベントである。
 正直に白状すると、甘いものが特別好きというわけではないため、それらをこれでもかというほど食べなければならないのはつらいものがある。けれど、真田にしてみればまさに惚れた弱みであった。
真田が険しい顔をしながらも大人しく席についたのを見て、出会った頃と変わらない二人の力関係に幸村は小さく笑う。真田が初対面のナマエにプロポーズをかましたことはあれから十年近く経った今でも笑い話だ。

「それじゃあ俺はお暇するよ。俺はクッキーが美味しかったと思うけど、本命の意見を優先していいから」
「うーん……弦くん、全部美味しいとか言うからなぁ……」
「うわ、高度なノロケごちそうさま」
「あ、待って。このケーキ半分持って帰って。妹ちゃんにあげて」
「はいはい、ありがとう」

 手を振り合う二人を尻目に、真田はテーブルに乗せられた菓子を減らすべくもぐもぐと口を動かしていた。やはり甘い、そして美味い。
 ナマエはけして、料理やお菓子作りが下手なタイプではない。その証拠に試作品として出されるものはどれも本当に美味しいと真田は思っている。だから、こうやって毎年毎年試食会を開かずとも良いはずなのだ。この試作品を作るのもタダではないのだから。しかし、これをそのまま伝えるとナマエの機嫌は急降下するので滅多なことを口走るわけにもいかない。
 ナマエが自分のことを好いてくれているという事実が目に見えるカタチとなるバレンタインは悪いものではないが、ナマエに負担がかかっているのではないだろうかと心配にもなる。
 真田が小さく息を吐くと、それに気付いたナマエは慌てて寄ってきた。

「ど、どうしたの!?それ美味しくなかった?」
「いや、どれも美味い」
「役に立たない感想ありがとう!それじゃあさっきのため息は何!」
「それはだな……」

 返答に窮する真田の様子に、隠し事が大嫌いなナマエは口をへの字に曲げた。部屋の温度が下がったような錯覚に陥る。真田の額に冷や汗が滲んだ。
 自分が人の感情の機微に疎いこともあり、彼女と喧嘩になると十中八九、知らぬ間に拗れて長引いてしまうことを真田は身をもって知っている。折角ナマエが楽しみにしているイベントごとを前に揉めるのはごめんだった。

「なに、はっきり言ってよ」
「その……試作品も手間がかかるものだろう?お前の気持ちはとても伝わるし嬉しいが、これが負担になってしまっているのではないか?」

 歯切れの悪い言い方をし、そろりと視線をあげるとキョトンとしたナマエと目があった。今回はきちんと話が噛み合ったようで内心ホッとする。喧嘩にはならずに済みそうだ。

「弦くんそんなこと考えてたの?」
「あぁ」
「分かってないなぁ!私は好きな人にはとびきり美味しいものをあげたいし、喜んでもらいたいって思ってるの。だからそのための努力は惜しまないし、私がやりたくてやってることなんだから全然負担じゃないよ。むしろ楽しんでるくらい!」
「そうか」

 でも、気にかけてくれて嬉しいありがとう。そう言ってはにかむナマエを見て、真田はほんの少し頬を緩ませた。彼女が楽しいというのなら、自分に残る選択肢はそれに付き合うことだけだ。
 真田は黙って、ざっくりと掬ったケーキを口に運んだのだった。

§

「ところで、弦くんはどれが一番美味しいと思う?」
「この丸いチョコは特に美味かった」
「うわ〜!六時間かかった本格トリュフかぁ!死ぬほど面倒だったからもう二度と作らないと思ってたんだよね!」
「そ、そうか……別に無理に作らずとも……」
「でも弦くんには美味しいやつあげたいから頑張るね!」

 その笑顔を見ていると、口の中にこびりついてしまったチョコの甘さも気にならなくなる。惚れた弱みって厄介だよねという幸村の的を射た言葉を思い出し、真田は苦笑いを零した。

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