鐘の鳴らない午前0時

「ちょお、ごめん。先行ってて」

 小声で言い残した種ヶ島が、路地裏に消えた。三軒目の店探しに忙しない連れの酔っ払いたちを尻目に、逡巡ののち後を追った。
 少し先でしゃがみ込んでいる様子は、普段溌剌としている彼にしては珍しい。こんな姿は見られたくないかもなと分かったようなことを考えながら、丸まった背中に声を掛けた。

「種ヶ島、大丈夫?」
「……あんま大丈夫やない……かも」

 見た目通り具合の悪そうな返事だ。背中をさするか、水を渡すか。簡単な二択に迷った末、意気地なしの私は後者を選ぶ。
 バッグに入っていたペットボトルを手渡せば、彼がチラリと視線を上げた。いつも人前で表情豊かな分、据わった目は迫力があった。

「自分はえらいピンピンして……酒強いんやな」
「ううん、男性陣みたいに無茶な飲み方してないだけだよ。外で泥酔なんかしたら怖い目に遭うかもしれないし」
「せやなぁ……」

 掠れた語尾を残し、小刻みに水をあおる。やはりいまだお世辞にも元気そうとは言えず、本人は再度俯く。
 不思議と傷んで見えない豊かな白髪を見下ろし数秒。意を決し隣に同じようにしゃがみ込んだ。逞しいなとひっそり思っていた背に手を添える。

「歩けそう? ……ホテルで休んでく?」

 実は、口から心臓が飛び出そうなくらい緊張していた。頬の火照りは酒が回っていることだけが理由ではない。もし彼が流されてくれたら。
 しかし小さな期待は泡のように弾ける。

「……それ、どこで覚えたん」

 酔いの醒める、剣呑な視線に射抜かれた。不快を露わにしているようにも、怒っているようにも見える。
 やっぱりダメか、私じゃ。なんて分かり切っていたことを再確認しながら、苦笑いをたずさえ察しの悪いフリをした。

「それ?」
「ホテルで休んでく、とか……ゔ」

 彼の言葉は長く続かず、カクンと頭が落ちる。そもそもこんなに酔っている相手に騙すようなマネをするのも姑息だった。酩酊状態のまま先の誘いに頷かれたところで、お互いあとで不幸になるだけだ。
 深く反省し、うめく背を今度こそさすってやる間、室外機の音が地鳴りのように耳についた。

「吐いた方が楽になるんじゃない? 口開けてくれたら手伝うよ」
「あかん、じぶんでする」
「そう」

 自分でする、の言葉に反し残りの水を飲み干した種ヶ島は一度深呼吸をしてゆらり立ち上がった。眉間に皺を寄せ耐え忍ぶ表情だが、顔色は幾分マシになった。

「大丈夫?」
「波引いた。今のうち帰る」

 言葉少なに語り、歩き出す。音を立てて踵を引き摺る歩みが普段の彼らしくなく、どうにも危なっかしい。内心ハラハラしながら着いて行き大通りでタクシーを捕まえる。
 眠たげな表情になり始めた種ヶ島を車内に押し込み、ドアを閉めようとすれば待ったがかかった。

「なあ、この後みんなのとこ戻るん?」
「うん。次のお店の連絡も来てたし」
「こーんな酔っ払い残して?」
「だいぶ回復してるじゃん」
「してへん。せやから、家まで送って」
「送ってったって……」
「財布の中、免許証に住所……」
「あんたねえ……私が悪人だったらお金とかカードとか抜かれてるからね」
「そんなことせんやん。エエ奴やもん自分」
「エエ奴、ね」

 乗りかかった船というやつだ。ため息ついでに彼の隣に滑り込み、言われた通り身分証を頼りに運転手へ行き先を告げた。
 車に揺られるうち、再度吐き気の波に襲われたのか種ヶ島は手で口元を覆って動かなくなった。運転手がミラー越しにチラリとこちらの様子を気にする。持ち合わせていたビニール袋を隣の男に押し付けた。
 種ヶ島の意識がハッキリしだして、私の失言を思い出す前に家に着きますように。流れる車窓を見つめそう祈る私に反し、車は酔っ払いを気づかいゆっくり進んだ。

***

 景色が止まり、サイドブレーキが引かれた。目を閉じたままの種ヶ島の肩を叩くとわずかにだが反応があった。
 支払いを済ませて彼を引っ張り出し、タクシーのテールランプを見送ることなくさっき確認した彼の部屋番号を目指す。肩は貸さずとも何とかなっているが、放っておくと途端に立ち止まってしまうため、手を引かなければならなかった。
 しばらくすれば酔いも冷め、元気になるだろうと思っていたのに。まさかここまでダメダメくんになってしまうとは。彼の背をさすっている時点ですら思い至らなかった。
 果たして、過去にもこうして誰かに手を引かれて帰宅したことがあるのだろうか。そもそも、寝て起きたとして、今夜のことを思い出せるのだろうか。
 いくつも疑問が浮かんだが答えを知る当人はご覧の通りへべれけなのだから、私には知る由もない。
 はあ、と漏れ出たため息は種ヶ島への嫌味ではなく、こんな姿を見せられてなお幻滅するどころか、かわいいところもあるじゃんなどと思ってしまっている自分への呆れだった。
 ため息を二、三繰り返すうちに、ようやく最終目的地へ辿り着いた。いやはや、無事に送り届けられて良かったと額に滲む汗を拭う私をよそに、家主は鍵を鍵穴に入れられず苦戦している。
 絵に描いたようなポンコツっぷりには最早笑うしかない。「もう、しっかりしなよ」と声を掛けながら、代わりに解錠してやった。
 自分自身は室内への敷居を跨ぐことなく、種ヶ島を中へ促した。きちんと整頓された玄関が垣間見えたが、ジロジロ見るのも行儀が悪いのでパッと目を逸らした。

「それじゃ、私は帰るから」

 これで今度こそミッションコンプリートだ。今夜はどっと疲れた。すぐにでも眠りたい。
俯きがちで表情の読めない種ヶ島に断りを入れれば、寂しがりが返事をする。

「なあ、行かんといて」
「はいはい、そういうのは好きな子だけに言いなよね。玄関の鍵ちゃんと閉めて、もう少しお水飲んですぐ寝た方がいいよ」
「行かんといて」

 正直言って、寂しがりの種ヶ島がこうして甘えてきている事実に、心は浮き足立つ。けれど、どこまで意識があるのか分からない相手に真面目に取り合ってはいけない。そもそも彼が目の前にいる相手を私だと認識できているのかすら定かではないのだから。

「はい、おやすみ〜」

 うん、と頷きそうになるのを堪えて扉を閉めた。
 いやはや本当に、酔った勢いに任せて……なんて邪な心で放った私の誘いが受け入れられなくて良かった。そう自分の暴挙を改めて反省しつつ、ホッと息をついて踵を返した瞬間だった。

ーードン

 今し方閉じた扉の向こうで大きな音がした。何かが落ちたような、ともすれば、倒れたような。
 私の気のせいの可能性だってある。でも、これを無視できるくらいなら、私ははなからここまで来ていない。

「ねえちょっと……種ヶ島、大丈夫?」

 声を掛けながら恐る恐るドアを引く。当然施錠はされておらず、それなりの重さをもってゆっくり開いた。酔っ払いが床に臥しているかもしれないと、視線は下げたまま室内を覗いたのだが、中から伸びてきた手が私の前腕を捕らえた。
 ぐん、と中へ引き込まれる。気付けば先ほど自分で引いた一線、つまり敷居をすっかり跨いでいた。そして目の前には、両足でしっかり立つ種ヶ島。
 状況が読み込めずモタモタしているうちに背後で玄関の扉が閉まった。ガチャンという音がいやに響き、私の置かれた状況を際立たす。

「あかんで、ナマエ。こーんな酔っ払い男の部屋に上がり込んだら」

 私の両肩に手を添えた彼が、そう耳に吹き込んだ。身の危険に血の気が引いて然るべきなのに、こともあろうに愚かな私の体温は跳ね上がっていた。


title by 白鉛筆

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