常夜灯を消さないで

 一番になりたかった。

 迎えにきた仲間を下級海賊と称したサンジは、このまま結婚するのだと言った。抗議するでもなくじっと状況を見つめていたナマエに残した言葉はこうだ。おれはお前なんかと付き合ってたつもりはない。
 踵を返したサンジをナミが呼び止め、その横っ面を容赦なく引っ叩いた。痛みを感じる音が響いて、サンジの兄弟たちはヒュウと冷やかしの口笛を吹く。
 ナマエはというと、目の前で起こった一部始終をまるで他人事のように目に映しながら、体じゅうが空洞になった気分だった。
 ゾウからホールケーキアイランドに向かう間には、サンジにぶつけてやろうと思っていた言葉がたくさんあったはずなのに、結局彼の言葉にグサリと刺され、怒るどころか泣くこともできず、ただひたすら心の傷口からダラダラと血を流すのみだった。

──やっぱり結局、こうなるんだな。

 仲間たちを必要以上に傷つけて去る“王子”の背中を眺めながら、ナマエはこれまでの自分の人生を脳裏に浮かべそう思った。


 そう、思えばずっと敗け越しの人生だった。
 元々生まれは裕福な家庭。両親は子どもを駆使して爵位を上げたかったのか、「なんでもいい、一番になりなさい」と娘達に説いた。
 しかしナマエは彼らの期待に応えられなかった。勉強、運動、いくつかの習いごと。どれも懸命に頑張ったつもりだが、テスト当日の発熱や発表会での緊張などを毎回繰り返し、手にするのはいつも決まって二番だった。
 初めこそ厳しく叱り付けていた両親だったが、次第に思い通りにならない娘を存在しないものとして扱うようになった。幸いにもナマエの姉は非常に出来が良かったこともあり、余計にナマエは家の中で透明人間になってしまった。そんな扱いを受けてもなおしばらくは世界でたった二人の両親に愛されたい一心で一番を目指し頑張ったが思うような結果は出せず、そのうち自分はきっとそういう星の元に生まれついた人間なのだと、そう思うようになった。
 そうしてだんだん家に居づらくなり、逃げるように家出をして、幸いにも偶然麦わらの一味と縁が生まれた。
 彼らの中に混じるのはとても心地良かった。 ナマエには料理の才能も航海の知識もなかったが、目と耳の良さは抜群で、生家にいた頃には役に立たなかったその特徴は航海において索敵に適していた。助けてもらわなければ生きていけないなんてあっけらかんと言い放つ太陽のような船長の元、ようやく自分の居場所が出来た気がした。
 仲間たちと旅を続けるうちに、ナマエとサンジはお互いを特別に思い合う仲になった。自分の後ろ暗い過去を詳しく話したりなどしていないのに、サンジは欲しかった言葉をくれる唯一だった。

君はおれのいちばんだよ。

 初めてそう言われたのは不寝番中の逢瀬の時だ。あの瞬間はきっと、死ぬ間際にも思い出すだろう。雷を食らう以上の衝撃だった。
 やさしく眉尻を下げて目を細める彼がナマエは大好きだったし、その言葉は胸に巣食っていた虚しさを全部取り払い、海に出てもなお澱のように残っていた「一番」への強迫観念を和らげてくれた。
それだけに、ルフィを蹴り飛ばした彼が残したセリフは実に良く効いた。
 船には戻らず、可愛くとても親切だったプリンと結婚するらしい。正直なところ、やっぱりなと思った。彼の心移りに納得したのではなく、自分の運命に対する納得と諦めであった。
 やっぱり敗け越しの人生なんだ、と。
 もちろんあの優しすぎる彼が仲間をこうも傷つけるのはおかしな話だし、あの態度が本心でないのはわかる。絶対に、そうしなければならなかった理由があるに決まっている。けれど一方で、彼がいたずらに女性を不幸にする男ではないこともよく知っていた。
 結婚という決心は、けして冗談では片付けられないはずだ。その選択肢がアリだと判断したのは紛れもなくサンジ自身なのだから。きっと、相手を幸せにしようと胸に誓っているに違いない。
 明らかに血の気の引いた顔をするナマエをナミは優しく抱きしめた。

「ごめん、あんたに殴らせるべきだった。あいつ、本当に信じらんない!」
「ううん、良いの。私の分まで怒ってくれてありがとう」
「私は私のために怒ったの。だからナマエ、あんたの分は自分で殴ってやりなさい」
「アハハ…」

 また会えるとも限らないのに。そう思うと首を縦には振れなかった。


 結局その後、紆余曲折の末サンジはルフィに根負けし、結婚式をみんなでぶち壊す計画が立てられた。ナマエとしてはサンジの優しさをバカにして踏みにじったプリンと、その隣に立つタキシード姿のサンジなど見たくなかったがそんな我儘を言える状況ではなく。
 当日は真っ白なウエディングドレスを着た美しいプリンを見て、黒いパーティドレスに袖を通した自分が惨めに思えてならなかった。しかし、それでも大切なサンジを本当の意味で取り返すべく走り回った。
 もちろん四皇の一人という強大な敵を前に全て計画通りとはいかなかったが、結果としてルフィを抱えて、サンジがサニー号に戻ってきた。
 帰ってきてくれて本当に良かった。純粋に仲間の一人として涙ぐんだナマエだったが、彼の唇の端に色移りしているピンクのリップを見て顔が強張った。
 誓いのキスは未遂に終わった。彼はプリンたちと共に別行動を取った。式の途中から、プリンのサンジに対する態度はおかしかった。そしてサンジは、とびきり優しい。総括して、導き出される答えはひとつだけ。なんて罪作りな男だろうか。
 当の本人がだらしなく顔をゆるめたりしていないあたり、彼女の能力で記憶の切り取りが行われていることまで容易に想像がついた。
 サンジはロクでもない家族に巻き込まれた被害者で、プリンは加害者であると同時に被害者でもある。個人を憎むのは違う気がするが、しかしどうしても心が苦しい。折角みんなが喜んでいるタイミングに自分の思考が水を差しているようで、余計に苦しい。深呼吸もままならないまま唇を噛み締める。
口の中に鉄の味が広がり始めたとき、轟音が響き船が揺れた。それもそのはず、ここはまだ戦場なのだ。無事に全員で生き延びるため、逃げなければ。戦わなければ。
 余計なことは考えず、まずはただひたすら、前へ。


「なァおい…メシ…作っていいか?」

 ジンベエたちにしんがりを任せ、わたあめ雪の降る海域を抜けた頃。おずおずと切り出したサンジの言葉に、仲間たちは諸手をあげて喜んだ。ナマエももちろん嬉しかった。
 それと同時に、再び彼の特別になろうとするのはやめると心に決めた。自分のクソみたいな運命にこんなにやさしいサンジを巻き込むのは懲り懲りだったし、何よりもう傷付きたくない。何かを望むからいけないのだ。とにかく楽になりたかった。
 腹を満たした後も、気を利かせて見張りを買って出た最年長のブルックとそれについて行ったキャロットを除いたみんなが、何となくダイニングに残っている。特に、普段なら真っ先に外に出て行くルフィは、めちゃくちゃになったキッチンを片付けるサンジの背中に話しかけ続けていた。
 チョッパーは仲間たち、主にルフィの怪我の様子をもう少し詳しく診たいようでソワソワしているが、当の本人はしばらく動きそうになかった。少し時間を置く必要がありそうだ。

「チョッパー、悪いんだけど私の包帯を新しく取り替えてくれない?」
「! あァ、良いぞ。じゃあ医薬室へ」
「ルフィ、次はあんただから順番守ってよね」
「おう、分かった!」

 元気良く返事したルフィ越しにサンジがこちらを見た。視線を逸らすのも感じが悪い気がして、なんとか頑張って、かつてよくそうしていたようにニコリと表情を作れば、彼は眉を下げた。

「傷、痛むか?」

 ツンとした薬草の匂いがする部屋の中、小さな手を器用に使ってチョッパーは包帯を新しくしてくれた。香水はダメでも、この匂いは大丈夫なのだなあと今更ながら鼻をヒクヒクさせていたナマエは我に返る。

「ううん、平気。ルフィやサンジに比べたら大したことないし」

 数多の切り傷擦り傷打撲以外の大きな怪我といえば、手のひらに空いた穴くらいのものだった。これは、サンジとルフィの大喧嘩の後ビッグマムの部下に捕えられた時にできた、ルフィともナミともお揃いのものだ。
 両手にドーナツのような空洞が残ってしまうと思っていたが、チョッパーの処置が的確だったのか、相手の能力の効果が切れたからか、穴は塞がり始め、目の前にかざしてみても向こう側はもう見通せない。もちろん、痛いか痛くないかで言えば痛いし、皮膚が引き攣るような違和感もある。でもやはり、今回最後の最後まで戦場に残った二人に比べると、ちっぽけな痛みだ。
 肩をすくめてナマエは笑ったが、チョッパーは笑わなかった。

「痛みやつらさは人と比べるものじゃないから、ナマエが痛いとかつらいと思うならそう言っていいんだぞ」

 真新しい包帯越しに、チョッパーの硬い蹄の感覚がした。

「……うん、ありがとう。手は、少しだけ痛い」

 ぼんやり熱くなる目頭を押さえている間に、優しいドクターは専用に調合した痛み止めを渡してくれた。礼を言って医薬室を後にする。
 本当は、手よりも心の方が痛んでいた。これにも痛み止めがあれば良かったのに。


 ダイニングに戻り名前を呼ぶとルフィはすんなり言うことを聞いて、大人しくチョッパーの元へ向かった。しばらくサンジに相手をしてもらって気が済んだらしい。
 カウンターキッチンでは今だに彼が忙しなく動いている。その綺麗な金髪が目に入ると、緊張で身体が強張った。咄嗟に処方された痛み止めを目一杯握りしめてしまい、おかげで突き抜けるような痛みが走った。もしかしたらまた後でチョッパーに診てもらう必要があるかもしれない。
 もう少しスマートに、今まで通り振る舞えると思っていたのに彼を目の前にするとどうにもうまく出来ない。その事実が、ナマエがまだサンジを完全には諦め切れていないことを如実に表していた。

「傷は大丈夫そう?」

 いたわるように肩を叩いたナミが、硬く握られたナマエの手をひらいた。彼女だって同じ傷があったのに、気を使わせてしまったようだ。

「ごめん、大丈夫だよ」

 苦笑いをこぼせば、天候だけでなく空気も上手に読む航海士はウインクを飛ばす。

「一度部屋に戻りましょ。いい加減着替えたいわ」
「そうだね。……サンジ、診察はルフィの次だって」
「あ、あァ……」

 そのまま黙ってダイニングを去るのも気が引けて、ついつい必要のないひと言を添えてしまった。返ったのは歯切れの悪い返事。自分は上手に取り繕えなかっただろうか。内心不安がっているナマエの背を押すナミが、小さな声で「バカね」と呟いた。
 部屋に戻るなり、彼女は自分の傷が痛むのも厭わず、ナマエに拳骨を落とした。ゴムのルフィにもなぜか効く愛のある拳はもちろん彼以外にも有効だ。

「いったァ〜!」
「あんたは優しすぎんのよ」
「優しいのはサンジだと思うけど……」

 頭をさすりながら条件反射のように口答えしてしまうと、ナミは潮風にさらされても傷み知らずの長い髪を揺らした。

「そうだとしても! あんたには怒る権利があるの!」
「サンジだって被害者なのに……」
「同時にあんたのことを傷付けたんだから。怒って困らせてやんなさい」

 とても難しい話だ。
 そもそもナマエからすると、自分にまとわり付く“一番になれない呪い”がサンジを巻き込んだような気がしてならない。彼の言葉に傷ついたことは事実だが、彼だけを責めるのはお門違いな気がする。
それに、誰かに指摘されずともサンジはおそらく仲間たちみんなを傷付けたと思っているだろうし、そのことで自分自身を責めていてもおかしくない。そんな彼を責めてもナマエの気は晴れないし、誰も幸せになれないことだと思った。
 ナミが怒るのも尤もだが、やるせない気分だった。だからつい、これまで秘密にしていた身の上話が口をついて出た。否、本当はずっと誰かに聞いて欲しかったのかもしれない。

「……私、これまで何かで一番になれたことがないんだよね。そういう星の元に生まれついているんだと思う。敗け越しの星。サンジが私のことをいちばんだって言ってくれていたから舞い上がっていたけど、結局私じゃない相手と結婚するって言い出すし。きっと、私の運命にサンジを巻き込んだんだと思う」
「呆れた、そんなことあるわけないじゃない。……じゃあ、百歩譲ってアンタの言う通りだとして、サンジくんとのこれからはどうするつもり?」

 忖度なしにナミはナマエの考えを切り捨てたが、同時にこちらの選択を尋ね尊重してくれた。こういう居心地の良さが、ナマエの心をあたたかくする。
 四皇二人に目を付けられている状況はお世辞にも良いとは言いがたいが、それでも、この仲間たちと一緒にいられるのは本当にさいわいだった。だから、こうして自分をじくじくと苛み続けるサンジのセリフだってなんとか復唱できるのだ。

「……彼の言ってくれた「君がいちばんだよ」って言葉を支えにしてきたから、あの時の「お前なんかと付き合ってたつもりはない」は、私にはよく効いたよ」

 今でも、目を瞑ればあの瞬間を鮮明に思い出せた。
 サンジの、相手を拒絶する鋭い眼差し。自分の心臓の音。外野が息を飲んだり口笛を吹いたりしたこと。全部覚えていた。
 その上でやはり、あの時のような寒々とした気持ちになるのは耐えきれそうになかった。
 せめて、嫌いになったと言われたのなら、サンジと過ごしたおだやかな記憶を大事に抱えて耐えられたかもしれないのに。よりにもよって、「付き合ってたつもりはない」なんて。きみがいちばんだと甘く囁いてくれた、ナマエにとって世界一大切な記憶すらも嘘にしてしまうなんて。心の一番柔らかい部分をピンポイントで突かれてしまい、気持ちが完全に折れてしまっていた。

「もう傷付きたくないし、サンジを好きでいるのをやめようと思うんだ。私ってやつは結局、どうしたって一番にはなれないみたいだしね。こんな運命にサンジを巻き込むくらいなら、はなから、彼の特別になれるなんて、思うんじゃ、なかっ、た」

 やけに喋りづらいと思ったら、自分の目からはとめどなく雫が落ちていて驚いた。サンジにキツいことを言われた時ですら涙は出なかったのに、全部全部今更だった。

「ごめん、こんなつもりじゃ……。もっと上手く前に進もうって私、」
「無理しなくていいわ」

 ふわりと抱きしめられ、やさしくオレンジが香る。彼女が常に味方でいてくれることは心強く、余計に涙を誘った。

「ナミ、ナマエ、いる?このあとの見張りの順番なんだけどね」

 ふと、ノックもそこそこにキャロットが顔を覗かせた。彼女はホロホロと涙を流すナマエを見て耳をピンと立てて慌てふためいた。

「ど、どうしたの?! 傷が痛む??」
「ううん、違うの。怪我じゃなくってね、失恋」
「しつれん?」
「そう。サンジとお付き合いしてたけど、それを辞めたの」
「ええっ? どうして?サンジはナマエのことが好きだよ?」

 キャロットが首を傾げれば、長く白い耳も一緒に揺れた。ひたすら素直なミンク族の彼女は仲間たちに嘘などつかない。純真無垢な問い掛けを受け、少しだけ面食らった。
 そう、確かに。今でもナマエを気にするサンジの視線は申し訳なさそうであると同時に、特別な熱っぽさをはらんでいた。自分でも、彼に嫌われているとはつゆほども感じない。
 キャロットからしてみれば、想い合う仲なのに失恋なんておかしな話だろう。けれど、もう決めたことだった。

「それでも、失恋」
「好きって言ったら良いのに」
「複雑なのよ」

 正論を返すキャロットの言葉を遮り、ナミが加勢をしてくれた。「むずかしい」と正直に呟いた少女は、納得はしていなさそうながら、目を赤くしたナマエの頭をやさしくやさしく撫でた。

「泣かないで。みんな、ナマエのことが大好きだよ」

 爪の隠された、ヒトとはまた違うふわふわとした手のひらを甘んじて受け入れながら、「私も」と返そうとしたが、それを口に出すとサンジへの想いが振り切れなくなりそうで怖かった。


§


「サンジ、コーヒーもらっても良い?」
「えっ」

 目を丸くしたサンジがココアじゃなくて? と聞き返した。
 深夜の不寝番をナマエが担当するときは、サンジにココアをリクエストし、彼がそれを後で展望室まで届けてくれるのが常だった。それは言わば、逢瀬のお誘いのようなものであった。

「うん。ちょうど今淹れてくれてるやつ、貰って行っても構わないかな?」
「……後でおれが持っていくよ」
「ううん、大丈夫」

 キッパリ答えると、夜の海の色をした瞳が揺らいだ。喧嘩したときですら、彼の優しさを拒絶したことはなかったからだろう。
 やはり、何もかも元通りこれまで通りとはいかない。サンジもそう感じ取ったらしく、喉仏が小さく上下する。けれど結局は何も言わず、まだ温かいコーヒーをマグカップへ注ぎ渡してくれた。

「ありがとう」
「どういたしまして。いつでも、お安いご用さ」

 優しい声を聞くと、これまで何度も繰り返した逢瀬が思い出された。けれどナマエはそんな彼に背を向けた。
 振り返らない。期待しない。大丈夫。この痛みはいつか時間が解決してくれる。
 ジンベエたちはどうなっただろうか。来た方向を望遠鏡で覗いてみても、見えるのは真っ暗の水平線だけで他の追手の気配はない。波はたまになだらかな坂を作るが、ナミが部屋から飛び出してくる訳でもないのでしばらく航路にも問題はなさそうだった。
 みんな無事だと良い。海賊にしてはいささか甘ったれな祈りを浮かべていると、ふと、下の方から気配がした。
 身構えるより先に、文字通りひと跳びでやってきた彼の足音が入り口の方から聞こえる。否、聞こえるのは足音だけではない。

「ナマエちゃん」

 ナマエのことをそう呼ぶのは一人だけだ。
 展望台にやってきた彼は緊張の面持ちであった。
これまでサンジと二人きりになるのはずっと避けていた。彼もそのことに気が付いていて、不寝番という絶好のタイミングを待っていたわけだ。とうとう捕まったなァ。ナマエはお腹にグッと力を入れた。
 平常心、平常心。自分にそう言い聞かせている時点で平常心とは程遠いが、とぼけて応える。

「どうしたの?」
「ナマエちゃん、」

 いつかのように眉尻を下げたサンジは、しかし笑ってはいなかった。好きな人が傷付いている様を見るのは、あまり嬉しいことではない。「謝って済む話ではねェのは百も承知だけど、酷いこと言って、本当にごめん」と項垂れる彼の肩を叩いた。

「傷付けたし、怒ってるだろ?」
「まさか。サンジは巻き込まれただけでしょ。顔を上げてよ」

 怒っていないのは本当。ただし、サンジを直視するのはまだつらかった。白いタキシード姿が幻のようにチラつくからだ。隣に寄り添う花嫁のドレスに合わせた衣装を着ている姿は、まさに王子様だった。
 私が、隣に立ちたかったのに。

「大丈夫かい?」

 一点を見つめ完全に表情を失くしていたナマエはハッと我に返った。考えても仕方のない、馬鹿なことを。

「ごめん、一瞬ボーッとしてた。さすがに疲れたのかも。結婚式に乱入したのって初めてだし」

 中途半端な笑い声が深い夜に虚しく響いた。対する彼は、さっき見た幻覚とは対照的な黒いシャツ姿で気まずそうにしている。
 風もない穏やかな気候の中、船体に打ちつける波の音だけが遠くからかすかに聞こえていた。呼吸の音にすら気を使うような静寂を、大好きな声が破る。

「……虫の良い話って思われるだろうけど、あの時の言葉は本心じゃねェんだ」
「何か理由があることくらい分かってたよ」
「おれ、まだナマエちゃんのこと好きでいても良いかな?」

 弱々しく、自信なさげに請われナマエの決心がぐらり揺らいだ。相手のことを世界でいちばんだと思っていたのは、ナマエの方も同じなのだ。その彼が望んでくれるのであれば全力で応えたくもなる。
 けれど。目を閉じ再度ホールケーキアイランドでの出来事を思い出して、やっぱりもう、あんな思いは二度とごめんだと再確認する。傷付きたくない。期待をしたくない。自分の運命に彼を巻き込みたくない。怖い。だから。

「ごめん。気持ちは嬉しいけど、でも私の決心が鈍るからそういうのは無しにして欲しい」
「決心」

 彼の特徴的な眉毛がひそめられる。
 これを機に自分を取り巻く一番の呪いについて話してしまおうと思った。

「私ね、」

 そう切り出すと、サンジは真剣な眼差しでナマエの話に耳を傾ける。ベビースモーカーなのに、ここまでのやり取りの間たばこの一本を取り出すこともなかった。それほど真摯に向き合ってくれているのが手に取るように分かる。
 そこでようやく思い至る。話を聞けば、優しくて繊細な心配りができる彼は自分の発言が、元々あったナマエの心の傷をさらに深く刺したことに気付いてしまうだろう。今よりもっとずっと、自分自身を責めるかもしれない。

「いや、やっぱりなんでもない。とにかく、元通りってのは私には難しい」
「……そっか、分かった。ごめんな、無理言って。それじゃ、また明日」

 思った通り、彼はナマエの気持ちを優先してそれ以上の追求はしなかった。くるりと踵を返すと、展望台から甲板へ軽々と戻ってゆく。
 質量を感じさせないしなやかな着地音を聞き届け、ナマエはサンジの去り際のひとことを口の中で転がした。これまで不寝番の時は、二人は交代の時間まで一緒にいることがほとんどで、別れ際の挨拶は決まって「おやすみ」だった。それが、変わった。

「また明日、ね」

 ひと口啜ったコーヒーは苦く、慣れない舌がひど痺れた。


 見張の交代とともに微睡む間もなく朝方眠りにつき、自然に目覚めた頃にはとっぷり日が暮れていた。よく眠たというよりは、眠りすぎて逆に疲れたような気もする。
 床の木目をやさしく照らす月明かりを頼りにベッドから降り、隣で寝息をたてているナミを起こさないよう忍び足で部屋を出た。
 気候は依然として穏やかだが、近くの島の海域にでも入ったのか昨夜と比べると頬を撫でる風はいくらか冷えていた。そんな澄んだ空気を伝って、品のあるバイオリンの音が夜空に溶けていく。
 導かれるようにマストを登り展望台へ顔を出せば、ブルックは手を止めずに「おはようございますナマエさん、良い夜ですね」と言ってナマエを招き入れた。今日の不寝番は彼のようだ。
 ベンチへ腰を下ろすと、夜を彩るばかりだった音楽は一人のためのリサイタルへ様変わりする。
 ナマエもかつてはバイオリンやピアノを少しかじっていたが、一体どれほど楽器と向き合えばこんな演奏ができるのか想像も付かない。結局のところ、上には上がいるものだ。もちろんそのことで虚しくなったり傷付いたりはしないし、ブルックのバイオリンが聴けて純粋にラッキーとすら思う。
 ことサンジに関しても、このくらい堂々と開き直れる日がいつか来るのだろうか。今のところ、ちっとも想像がつかなかった。
 しばらくして贅沢な演奏が止んだ。拍手を贈るナマエにうやうやしく一礼したブルックは、長い脚を折ってベンチに座り、膝にバイオリンを乗せた。
 座りしなチラリと窓の外を見ていたが、敵船の灯りはどこにもなく代わりに空の星がチラチラするだけ。仲間が戻ったことを祝福するかのように、新世界とは思えないほど順調な航路だった。

「サンジさんが戻ってきて、ようやくぐっすり眠れたみたいですね」
「言われてみれば確かに。私、サンジが気がかりでしばらく眠りが浅かったのか……ブルックはよく気が付くね」
「他の皆さんもお気付きでしたよ。顔色も優れなかったので、チョッパーさんが気を揉んでいました」
「あらら、心配かけちゃったな」
「ええ、サンジさんもとても心配されていました」
「……」

 ナマエは思わず黙り込む。視線の先でブルックは微動だにしなかったけれど、彼に肉や皮膚が残っていたなら優しい表情を浮かべていたに違いない。そのような雰囲気を漂わせ、彼は再度カタカタ骨を鳴らす。

「出航してから、サンジさんとはお話しされたんですか?」
「ちょっとだけね」
「ヨホホ、それは良かった。少々お節介が過ぎましたね」

 含みのある回答を深追いしない気遣いは年配者ならではか。けれど、眼窩の暗闇に覗き込まれると本当のことを全て見透かされている気分になってしまうナマエは、白旗を上げて苦笑いをこぼした。

「本当はね、私が一方的に言いたいこと言っただけで、話し合いにはなってないんだ」
「ナマエさんは本当に言いたいことが言えましたか?」
「と、言うと?」
「サンジさんを気遣って言わなかったこともあるんじゃないかと思いまして」

 鋭い。ナマエは黙って肩をすくめることで返事をした。
 ブルックは硬い指で大事そうにバイオリンを撫でた。骨と木材がぶつかる小さな音すらせず、絶妙な力加減を心得ているのだろうと分かる。

「老婆心ながら。何よりまずお二人に必要なのはじっくり話し合うことかと」
「……私の事情を話すと、サンジが今よりもっと傷付いてしまうかもしれない」
「それだけ彼のことを深く考えているんですね、ナマエさんは」
「ポジティブだなあ」
「ヨホホ! 一度死んで蘇ってまでネガティブなんてもったいないじゃないですか!」
「ううむ、そりゃそうだ」

 彼に釣られ、ナマエも笑い声を上げた。ブルックはサンジだけでなくナマエのことも優しいと評価してくれているが、ナマエからしてみれば自分なんかより、こうして張り詰めかけた空気にふっと余裕を持たせてくれる彼の方が繊細で優しい。

「もちろんナマエさんのようにじっくり考えることも重要です。ですが我々、明日の朝日を拝める保証などない稼業ですから。悩む段階なんてすっ飛ばして思っていることを全部相手にぶつけたって、性急すぎることはないはずだ」
「思っていることをまとめるだけでも結構時間がかかるよ」
「まとめなくても、思っているままで十分です。だってサンジさんはナマエさんの話なら何でも、いつまでも聞いてくれると思いますよ。もちろん、逆も然りでしょう」
「うん」

 自分でも笑ってしまうほど、迷いなく即答できた。
 離れ離れになる前、ナマエは何よりサンジとお喋りをするのが好きだった。自分の話をしたり、相手の話を聞いたり。それで、相手の知らない一面をひとつまたひとつと見つけていくのが好きだった。当時の表情を思えば、きっとサンジも同じ気持ちだ。
 とはいえ、アドバイスを「はいそうですか」と全て鵜呑みにできるほど自分の気持ちの整理は付かないでいた。自分たちはどうして行くのがベストなのか。
 難しい問題に渋い顔をしていると、ブルックはバイオリンを抱え立ち上がった。

「ヨホホ、喋りすぎました。今のは私の考えですから、それに従う必要はなくてナマエさんはナマエさんの思うようにして良いんです。相手の気持ちや状況なんかも全部忘れて、ただあなたがどうしたいか、それに従えば良いんです。海賊は自由なんですから!……さあ、難しい話はこれくらいにして。穏やかな良い夜ですからね」

 そう言って彼が相棒を構える。紡がれたのは、サンジが好きな曲だった。

 ブルックにおやすみの挨拶をして再びベッドへ潜り込み目を閉じたが、前日ほぼ一日寝ていただけあって再度熟睡することは叶わず、少しだけうつらうつらしたのち朝早くに目が覚めた。
 遮るもののない遠くの水平線から太陽が頭を出して水面をキラキラと眩しくさせるまでは、まだもう少しだけ時間がかかりそう。海鳥の影すらない薄紫の空の下、芝生の生い茂る甲板まで出てうんと伸びをしていると、船縁には早朝にしては珍しい人影があった。

「ルフィ、何してんの?」
「見張りと釣りだ」

 ウソップお手製の釣竿を片手に、我らが船長が振り向いた。どうやらブルックと交代だったようだ。

「一方向しか見張ってないじゃん」
「強ェヤツが来たら分かるぞ」
「流石の見聞色だねェ……。釣りの方の調子はどう?」

 バケツの中を覗きながら訊くと、ルフィはチラリチラリとナマエを気にし出した。言いたいことがありそうだ。隠し事が壊滅的に下手である。

「なに?」
「ナマエよォ〜、腹減らねェか?」
「勝手にキッチン漁ったらサンジに怒られるよ」
「そんくらい分かってる! でも昨日お前ずっと寝てたから、起きた時のためにって、キッチンにサンジのおにぎりが置いてあんだ」
「……なるほど」

 なるほど、なるほど。そう繰り返しながらひとまずルフィを置いてキッチンへ足を踏み入れると、話の通りテーブルの上には皿に乗ったおにぎりが二つ。それと一緒に“ナマエちゃん用 ナマエちゃん以外が食ったら蹴り飛ばす”との走り書きが残されていた。
 ああ、いつだって優しいなァ……
 日が昇りやがて沈むのと同じくらい変わりようのない事実を改めて噛み締める。だから、あのプリンも最後には虜になってしまったのだろう。可愛らしい彼女の、ピンク色の唇を思い出したナマエは首を振り慌ててそれを打ち消した。
 皿を片手に外へ出ると、いまだ釣果ゼロのルフィが待ってましたと言わんばかりに飛び付いてきた。ぐるんと勢い余ってナマエの身体を二周した腕がおにぎりに伸びる。

「食わねェならくれ!」
「ひとつだけね」

 言い終わるより先におにぎりを頬張り即完食したルフィは、巻き付けていた腕を解きそそくさと釣りに意識を戻した。嵐よりも忙しない様子に振り回されるのはもう慣れた。解放されたナマエも、ルフィの近くの芝生に腰を下ろし残ったおにぎりを手に取った。
 不寝番の日に話をしようと歩み寄ってきたサンジに対し、詳しい説明もないまま支離滅裂に拒絶を示したのは自分で、そのせいでお互いにわだかまりが残っている自覚はある。それなのに、どんな気持ちでこれを用意してくれたのか。
 またも考えても仕方のないことに思いを巡らせていたところ、釣り糸を海面に垂らしたままのルフィがこちらを覗き込み顔を顰めていた。

「お前なァ、早いとこ仲直りしろよ」
「仲直り?」
「サンジとケンカしてんだろ?」
「けんか」
「まァ確かに自分ひとりで色々勝手に決めてたのにはおれも腹立ったけどよ。でもサンジは帰ってきたんだから、もういいじゃねェか」

 釣り糸はうんともすんとも言わない。ルフィは相変わらずまっすぐナマエを見ていた。
 ナミやブルックはともかく、ルフィに嗜められるとは夢にも思わなかった。動物的勘を持つ彼からしてみると今のギクシャクした雰囲気は居心地が悪いらしい。
 隠し事をしても無駄だろうな。なにせうちの船長ときたら見聞色もパワーアップしたらしいのだから。ナマエは昨晩の音楽家の言葉も思い出しながら、試しに思ったままを口に出してみた。

「別に喧嘩はしてないんだよ。ただ、今回みたいに、サンジと他の女の子の様子見て、サンジを取られた! 敗けた〜! って思って傷つきたくないから、そもそもサンジのことを特別好きって気持ちを無くそうとしてるの。そしたら嫉妬したり、ショック受けずに済むからね」

 自嘲を溢し、ようやくおにぎりに口を付けた。中身はシャケ。当然ナマエの好きな具だ。その事実にまた胸がぎゅうっと音を立てる。
 その間、額に指を当てうんうん唸っていたルフィは最後にこてんと首を傾げた。口をへの字に曲げ、半端にズレた麦わら帽子を背中へ払いのけると身を乗り出した。

「諦めなかったらずっと勝負なんだからよ、敗けねェじゃんか。今だってサンジは戻ってきたし、おれたちとナマエの勝ちだろ」

 ごくん
 ナマエは黙って優しさのかたまりを飲み込んだ。空っぽだった胃に燃料が投下され、体が熱くなった。

「おれはサンジが居ない航海は嫌だ。またいなくなったら、また連れ戻しに行くし、絶対取り返すぞ。ナマエは敗けたって思ったら、もう行かねェのかよ」

 ルフィはこうしてたまに核心をつく。
 サンジのことを好きでいるのを辞めると自分に言い聞かせていたが、結局寝ても覚めてもサンジのことを考えているのだ。大好きな彼をスッパリ容易に諦め切れるはずはなく、そんな状態ではどうせ、彼の一挙手一投足に嫉妬したり、ショックを受けたりし続けるだろう。

「……行くに決まってんじゃん」

 噛み付くように返事をすると、ルフィはようやく昇り出した朝日に負けず劣らずの輝きでニカリと笑う。

「ししし!だいたい、諦めなかったら敗けねェしな! それに、ムズカシーこと考えなくても、サンジはナマエのことが一番好きだろ?  さっきのおにぎりの具だって、ナマエが好きなシャケだったし。……あ!」

 釣竿が弓なりに曲がったものだから、彼の意識は一気にそちらへ戻る。
 狙い澄ましたかのように投げ込まれた「一番」の単語を噛み締め、ナマエは残りのおにぎりを頬張った。
 食べ終わる頃、キッチンから小さな物音がして、やがていい匂いが漂い出す。鼻をヒクヒクさせたルフィが走り出そうとしたので、それを慌てて止めた。

「サンジと仲直りしたいから、ちょっとの間釣りして待ってて欲しい」
「仕方ねェなァ……。早くしろよ!」

 バチンと背中を叩かれ、その弾みでナマエは駆け出した。これまで仲間たちがかけてくれた言葉が脳内で木霊し、そのひとつひとつに勇気づけられる。出航して以降食事どき以外敬遠していたサンジの城へ、勢い良く踏み込んだ。
 おはようの挨拶もそこそこに突撃してきたナマエの姿を見て、彼は目を見開き困惑している。一瞬怯みそうになったが、皆に背中を押してもらった今、こんなところでは敗けられなかった。

「急にごめん。あのね、私の話を聞いてくれる?」
「もちろん。どうしたんだい?」

 サンジは濡れていた手をタオルで拭き、ナマエに向き合った。本当に大切に扱われていると実感する一方、ただでさえ忙しい朝の時間を奪うのが申し訳ない。
 要領の良いサンジのことだから、手を動かしながらだって耳と思考はしっかり傾けてくれるはずだ。ナマエが慌てて付け加える。

「手は動かしながらで大丈夫だよ。忙しいだろうし……」
「おれは目を見て話を聞きたいんだけど、ダメかな?」
「ううん、ダメではない……」
「良かった。今度は断られなくて」

 罪悪感に漬け込まれた気がする。微笑んだ策士に勧められるがまま椅子に座ると、サンジも隣に腰を下ろした。

「それで、話って?」
「……勢いよく来たけど実は全然、何もまとまってないんだ。ただ、私がサンジに対して今なにを考えているか聞いて欲しいっていうか……」
「そりゃ願ったり叶ったりだ。この前言いかけたこともあっただろ?実はずっと気になってたんだ」
「なるべく気を付けて話すけど、もしかしたらその話でサンジを傷付けちゃうかも……」
「きみに傷付けられるのなら、いくらでも。むしろ正直に、包み隠さずきみの話を聞かせて欲しい」

 最後の最後に尻込みしたナマエの背を、サンジがとびきり優しく押してくれた。いよいよ決心して口を開く。最初に断った通り、まとまりなく、楽しくもない話だった。
 自分の生まれのこと。何をしても一番になれなかったこと。きっとそういう運命なのだと思っていたこと。だからこそ、サンジがくれた言葉が何より救いになり、しばらく一番の呪いを忘れていられたこと。
 そこまで語り、気が付くとサンジがこの世の終わりのような表情を浮かべていた。前に想像した通りの反応だった。

「おれ、よりによってきみを一番傷つける言葉を……。あのとき、大好きでかわいいナマエちゃんを目の前にして「嫌い」なんて口が裂けても言えなくて。だからせめておれとの時間は忘れて前に進めるようにって思ってたんだが、全部裏目に出ちまったな……。ごめん、おれが楽な方に逃げたせいで、余計につらい思いさせた」

 まだじくじく痛む手のひらを握りしめながら、少しだけ思案したナマエはその言葉を否定せず、うんと頷いた。さらに言葉を続ける。
 サンジの言葉に深く傷ついたこと。もちろん本心ではないと分かっていること。むしろ、自分の運命に巻き込んで申し訳なく思っていること。
 話を静かに聞いてくれていたサンジが声を上げた。「ナマエちゃんのせいじゃない。おれがきみを巻き込んだんだ」と。ゆるゆると首を横に振り、ナマエは苦笑いを浮かべた。
 もうあんな思いはしたくないし、させたくないこと。
 だから、好きでいるのを辞めたかったこと。
 キッチンはしんと静まりかえった。カウンター席の隣に座っている彼は、もはや自分から声を掛ける権利などないと言わんばかりに萎れている。横面を張るより何倍も困らせているのは明白だった。
 そんな中、室内にたっぷり差し込む光が、うつむく彼の金糸をいっそう輝かせる。痛み知らずで綺麗に流れる髪を手で梳くのがナマエは大好きだった。そして、今もまた手を伸ばしたくてたまらなくなっている。

「あのね、サンジ」

 わずかに声を落とすと、持ち上げられた左目と視線が交わる。光を受けると深海色に近づく瞳は、今確かにナマエだけを映している。今この瞬間、ナマエは誰にも、何にも敗けていない。

「好きでいるのを辞めようとしたけど、結局気付いたらあなたのことを考えているし、好きの気持ちを押し殺すなんて到底無理だった。……私はいつかサンジのいちばんではなくなるかもしれないし、また私の運命に巻き込むかもしれないけど、私にとってのいちばんはサンジだけ。だからやっぱり、私、まだサンジのこと好きでいてもいいかな? サンジに好きでいてもらえるよう頑張ってもいい? こんなの、私に都合良い話すぎるかな?」
「まさか。むしろ、おれにとって都合が良すぎるよ。本当に良いのかい?」

 聞くが早いか、返事を待たずサンジがナマエを抱きしめる。もちろん嫌な気はしないし、自分のものではない体温を間近に感じながら、遠回りの末ようやくここに戻れたとさえ思う。しかし、ホールケーキアイランドでの一件を除き、常に紳士然とした態度を崩さない彼が、伺いを立てながら返事を待たないのには驚いた。

「まだ答えてないよ」
「ごめん。でも、ナマエちゃんの瞳を見てたら、抱きしめずにはいられなくなっちまって……」
「私の目?」
「あァ、おれの髪を撫でてくれてた時と同じ目をしてたよ」
「それは……サンジのことが大好きって目だね」

 ナマエの手が、サンジの背に回される。丁寧に皺伸ばしされた彼のシャツをくしゃくしゃにできるのが嬉しかった。ほのかにタバコと香辛料が香る。ひっそり深呼吸したつもりだったのに、ずび、と情けなく鼻が鳴った。いつの間にか泣いていたのだ。
 少しだけ離れようとしたナマエだったが、何もかもを分かっているサンジに先ほどまでより強く引き寄せられ、叶わなかった。

「悪ィけど、もう離してあげられねェ。おれも、きみが大好きだよ。何も頑張らなくたって、今のままで十分。誰より素敵で大事な、おれのいちばんさ」
「気を、使って、私が欲しいセリフ言わ、なくても、良いんだよ……」
「ううん、おれがどうしても今言いたかったことを言っただけ。きみの言う「一番の呪い」が気のせいだって、おれが一生かけて証明してみせるよ」

 ひときわ大きく響いた、鼻をすする音だけが返事になった。

§

 大渦の先で大口を開けて待ち構える巨大イカを伸した。何食分になるのかも分からないゲソを食べる間もなく、猛吹雪に乗じて飛んでくる雪だるまを、船体にぶつかる前に壊してまわりながら大慌てで帆を畳んだ。かと思うと数分後には快晴となりワノ国方面への良い風が吹き出したので、ナミの指示に従い満帆を張った。
 ここ二、三日の航海を嘲笑うかのように慌ただしい日中を過ごし、正直なところへとへとだった。ベッドに潜り込んで目を瞑れば、きっとすぐにぐっすり寝入ってしまう自信がある。
 そう分かっているのに、ナマエの足は展望室へ向く。サンジのような脚力はないためフォアマストにかかるロープを上る必要があるが、慣れたもので、片手が塞がっていてもするすると目的地へ辿り着ける。
 こっそり忍び込んで驚かせてやるつもりだったのに、気配で気付かれたのか、見張り当番の彼が梯子の上で待ち構えていた。伸ばされた手を掴めば、展望台へと軽々引き上げられる。ついでにあたたかい毛布を譲ってくれた。

「ナマエちゃん! 来てくれたんだな。でも今日は忙しくて疲れただろ? 無理してないか?」
「好きで来てるから心配しないで。サンジこそ怪我もまだ治ってないけど、見張り疲れない?」
「おれは丈夫だから平気さ。それにナマエちゃんと仲直りできて、昨日までよりうんと元気になった」
「調子良いんだから」

 そっけなく答えながら、湯気の立ち上るマグカップをサンジに押し付けた。ここへ来る途中立ち寄ったキッチンで作ってきたココア。彼ほど美味しく淹れられたかは甚だ疑問だが、喜んでくれる確信はあったし、実際その通りのようだった。

「貰って良いの?」
「うん、そのために持ってきたの」
「ありがとう。……世界一うめェ」
「ふふふ、調子良いんだから」

 今度は穏やかに笑って、ナマエは毛布の片端をサンジの肩に回した。先ほど突入した海域は冬の空気を生んでいたが、二人分の熱がめぐる毛布の中には関係ないことだった。
 サンジに寄り添い、離れていた間のことやお互い伏せていた昔の話などあれこれ話しているうちに、窓の外で雪が降り出した。昼間のような激しさはなく、ただ月明かりを受けて空に細い線を描くばかり。白ではなく水色やピンクなどパステルカラーをしているのが不思議だった。
 可愛らしいピンクを眺めながら、ふと思い出したことがあった。

「ねえ、プリンとはきちんとお別れできたの?」

 見上げた先で彼は視線を彷徨わせる。この場で他の女性の話をしても良いものかと思案していることは明らかだった。彼の髪の毛先を梳きながら、わざと意地悪を重ねた。

「私には言えないことがあった? 心変わりとか」
「いや! いや……そりゃあ、結婚するからには大切にしようとは思ってたが、心変わりってわけじゃ……」
「ごめんごめん、冗談。最後、どんなお別れになったのかなって気になっただけだよ」
「それが、最後に一つだけお願いがあるって言われたんだが、結局彼女はそのまま走り去っちまって。プリンちゃんはおれのこと嫌ってたわけだし、最後のお願いってのもサッパリ……」
「なるほどねェ」

 概ね、予想した通りの展開を辿っていそうだ。 ナマエはサンジ用のマグカップを強奪し、勝手に飲んだ。中身はぬるくなり始めていたが味はそれなりだった。
 ココアで湿ったままの唇を尖らす。

「私は、プリンの最後のお願い、分かるよ」
「えっ、どうして」
「相手がサンジだから」

 過ぎたことを言ったって仕方がないけれど、当然面白くはない。大好きな人と他の女の子のキスシーンなんて想像したくないのに、結婚式の延長が簡単に思い浮かんでしまう。
 またも敗けた気分になり始めたナマエは慌ててかぶりを振った。この思考回路が負け犬じみていていけない。
 八つ当たりするくらい図太くなった方がマシかもしれない。そこでナミに言われた一言を思い出した。
 腰に回された逞しい腕の中で身を捩り、彼に向き直る。サンジは先ほどの返事の意味を考え込んでいるようだった。

「そう言えばナミに、サンジのことなんて殴ってやればいいって言われてたんだった」
「な、ナミさん……。でも、返す言葉もねェ……」
「一発良いかな」
「君の気が済むのなら、何発でも」

 突然言い出したことなのにナマエが拳をひらけば、サンジは目を瞑る。従順というか、なんというか。レディファーストならぬナマエちゃんファースト、なんて造語を彼が口にしたこともあったっけ。
 ぐっと惹き結ばれた従順な唇目掛けて、ナマエはキスを一つ贈る。彼の口端に残ったのは色っぽいリップではなく、甘ったるいココアで出来たヒゲ。
 うん、なかなか私らしい出来だろう。これで上書き。今回は私の勝ちだよね。

「これでチャラね」

 満足して頷けば、サンジの瞼が急いで持ち上げられる。

「……いちばんどころじゃ、きみへの気持ちは表現しきれねェよ」

 眉尻を下げたあの、ココアよりうんと甘い表情だ。どうやら記録を塗り替えたらしい。それを聞いて、ようやくナマエは、馬鹿げた運命を跳ね除けたことを理解した。

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