酒飲みの夢主に釘を刺す仁王
仁王からの飲みの誘いを断ったのがつい二日前。先約がなければなぁと思いながら、同期との飲み会が行われる店へ到着すると驚くべきことに、そこには仁王の姿があった。
「え、なんでいるの」
「同じ学部の同期集めた飲み会なんじゃから、俺がおっても良かろう」
「そりゃそうだけど……」
なぜか出身地を明かさない仁王だが、仁王語などと揶揄される独特な方言の端々には呑兵衛が多いとされている地域の気配がにじむ。本当に南の方から出てきたのかは定かでないにしろ、実際彼はめっぽう酒に強かった。
しかし、数ヶ月に一度安酒飲み放題の店で開催される同期会に彼が現れたのは初めてのことだった。いつも、酒が美味くないだのなんだの言って大学生がたむろするお手軽な居酒屋を忌避していたのに今日は一体どういう風の吹き回しか。
「仁王のおめがねにかなうようなお酒、ここにあるかなぁ?」
「ない」
すげなく即答した仁王は、ふてくされた視線をよこし店内に吸い込まれていく。
「なんで来たんだ、マジで」
肩で踊る尻尾を追いかけながらぽそりこぼれ落ちたつぶやきは、店内の喧騒によって容易くかき消される。
仁王が現れるなり先にくつろいでいた同期女子たちは色めき立ち、適当に腰を落ち着けた彼を取り囲むようにして椅子取りゲームが始まる。その勢いに気圧されつつ、元々彼女たちが座っていた端席に私が陣取ると、続いてやってきた同期男子が隣にどさりと座った。
「……仁王が来るって珍しいな」
「うん。明日雨どころか槍が降るね」
ケラケラ笑うと数席離れたところから視線を感じる。こんなにご機嫌斜めな仁王は、初めてかも。チクチク刺さる不機嫌オーラは、同期会に現れたことと同じくらい物珍しい光景だった。
どこからか私のザルっぷりを聞きつけた彼に、飲みに誘われるようになったのは一年ほど前からだったか。最初の誘い文句は「おまん、うまい酒飲みたくないか」。元々中学高校時代からの知り合いで、そこそこ会話を交わす男子という距離感であったため、気後れするような仲でもない。頷いた後に参加者を確認したところ、一対一だと言われたのには面食らったが、異性への警戒心よりも美味しいお酒への興味が勝り、結局オススメのこじんまりした居酒屋までのこのこ着いて行ってしまった。事実としてお酒も美味しかったものだから、それから二人でのサシ飲みが常習化している。
とはいえ誘いを断ったのは今回が初めてというわけでもない。いったいぜんたい何が気に食わないんだか。上の空で乾杯してからしばらく経ったせいで、ビールはすっかりぬるくなっている。美味くはないそれをちびちび飲み考え込んでいると隣の同期がわけ知り顔で頷いた。
「酒飲みのお前は物足りないよな。ほら、飲め飲め」
勘違いした彼が目の前に置いたのは表面張力の主張激しく、なみなみになったお猪口。飲み放題メニューの中の銘柄も書かれていない“日本酒”の文字を思い起こす。仁王とのサシ飲みですっかり舌が肥えてしまっている私は微妙に顔を引きつらせたが、その心情など彼には伝わらなかったようだ。
まあでも、払う値段は同じわけだし、飲んだ方がお得か……。なんとも馬鹿げたどんぶり勘定の末、そっと杯に手を伸ばした。
同じことを何度繰り返しただろう。
お猪口が空になると、頼んでもいないのに再度酒が注がれる。断ってもなお、杯が満たされる。競っているつもりなのか相手もほぼ同じペースで飲み続けていた。酔いのバロメータはそこそこのご様子。
面倒なことになった。止めろときっぱり言っても酔っ払いの反応はすこぶる鈍い。相手を潰してしまえばこのばかげたわんこそば状態から解放されるかもしれないが、その場合介抱は私の仕事になるだろうか。それもまたこの上なく面倒なことだった。
そう考えている間にも、まだ中身の入っているお猪口に追加が入れられそうになる。ああ、もう……。テーブルを惨事にしないためには私が器を空にするのが手っ取り早そうだ。
渋々それに手を伸ばした。けれど、持ち上げるより先に向かいから伸びて来たてのひらが器に蓋をした。
「もうダメ」
見上げた先では仁王があきれ顔を晒している。いつ席替えしたのか気になったのに、口から滑り出たのはサシ飲み時のノリ。
「別にまだ飲めるけど……仁王も知ってるじゃん」
「それでもダメじゃ」
ぴしゃりと言い切った彼は、私の代わりに酒を飲み干し顔をしかめた。お口に合わなかったようだ。
隣の同期が何かを発そうとしたが、それを遮るように音を立てて仁王は立ち上がった。テーブルの上で行き場をなくしていた私の手首を掴むのも忘れずに。
「こいつ酔っとるから、送ってく。先に抜けるぜよ。俺の分の会費は置いとく。おまんは?」
「え? もう払ってる」
「じゃあ行くナリ」
「待っ!飲ませたの俺だから、俺が送る!」
同期は立ち上がりしなテーブルにしこたま膝を打ち付ける。いや、アンタこそ誰かに送ってもらったほうが良いんじゃない?なんて茶化そうとしたのに、仁王に割り込まれた。
「……合鍵持っとるヤツが送ったが早いき。こいつの家の場所も着替えの置き場も、おまんには分からんろう」
「……」
ぎゃあ、と卓の逆端から二、三悲鳴が上がり、それを聞き届けた同期は浮かせかけていた尻をすごすご座面に戻した。対する私は仁王が印籠のごとく掲げたカードキーに目を奪われたまま、手を引かれてその場を後にした。
§
「私の家の鍵って、カードキーじゃないんだけど」
「いまだ詐欺師は健在よ」
フフンと鼻を鳴らし、件のカードキーを自分のキーケースに収めた彼はまだまだ賑やかな飲み屋街を進む。いつもは人にぶつかりまくる私も、仁王に手を引かれていると猫のようにするすると人の間を縫って歩けた。
方角的に、本当に私の家に向かっているらしい。サシ飲みの帰りは送ってくれるので家の場所はわれている。ちなみに、部屋に上げたことはまだない。
「久々の同期との飲み会、どうだった?」
黙っているのもなんなので後ろ姿に語りかければ彼が歩みを止める。咄嗟のことで、思わず靴を蹴り付けてしまった。おろしたてと思しきスニーカーのゴムが黒く汚れた。
「うわごめん! わざとじゃなくって! 私の瞬発力が悪いだけだから許して」
むず痒かった手首の拘束から抜け出し両手で彼を拝むと、当人は大きな大きなため息を落とす。
「飲み会で楽しそうに見えたか? 俺が」
「あ、今のため息はそっちの話? でも、そんなの見てないから分かんないよ。だから聞いたんじゃん?」
「はあ……。おまんの危機感が無さすぎて、眩暈がしそうじゃった」
「はい?」
「隣に座っとったヤツ、おまんに惚れとるぞ」
「ええ? そんなばかな」
思いがけない話に声を上げて笑う。大きく響いてしまって恥ずかしかった。やっぱり少しくらいは酔っているようだ。
「こんなつまらん嘘言うか。アイツ、酔わせて“お持ち帰り”する気じゃったろうな」
言いながら彼は、汗で湿った私の額を弾いた。話が真実かはさておき、“お持ち帰り”されるほど前後不覚になる自分が想像できなかった。相手が仁王みたいなウワバミなら話は別だろうが。などと薄く笑うと、再びべちんと額を小突かれる。
「男と酒飲むときは用心しんしゃい。そのうち笑い事じゃ済まんくなるぞ」
「へぇ、仁王相手の時も?」
間抜けな音の出所をさすりながら、自分より高い位置にある顔を捉えた。かすかに揺れた瞳から目を逸らさず、答えを待つ。頭の回転が速い彼にしては珍しくレスポンスが遅かった。
視界の端で、足取りおぼつかない女性がしゃきっとした男性に支えられているのが分かった。仮に私がああなったとして、そのときの相手はひとりしかあり得ない。
けれど不思議なことに、彼は私のことが分かっていない。
「……そうじゃな。用心したがええかもしれんのう」
ほんの一瞬目を眇め捕食者のような気配を漂わせたくせに、すぐさまそれを打ち消し、フイと顔を背けた。音もなく長く長く吐き出された息は、ため息と呼ぶには弱く、深呼吸と呼ぶには細すぎた。
どうやらこれまでずっと私だけが、我慢くらべをしているつもりだったらしい。
「……ふぅん。あのさ、私は飲み足りないんだけど、仁王は? 今からうちで二次会しない?」
「おまんなぁ……! 俺の話を、」
目を三角にした仁王が、私に視線を戻した。叱りつけようとしたのは明白なのに、こちらの顔を見るや否や言葉を飲み込み後頭部をガシガシ掻く。引っかかった指のせいで、うなじ近くの結び目がぐしゃぐしゃになっていくのが見えた。
「こんな顔火照らせた酔っ払いに真面目な話をしたんがアホじゃった。おまえさん今日どんだけ飲んだ?」
「酒に酔ってるから顔が赤くなってるわけじゃないですけど! 仁王は知らないかもしれないけど、私はなんとも思ってない相手とサシ飲みなんて行かないし。ましてや真面目な話の直後に宅飲みに誘ったりも、しないよ」
「は、」
薄く開かれた唇の隙間から、吐息が漏れた。まったく、なにを驚いているんだこの男は。
確かに私の態度は常々可愛げがなくふざけ気味で、好意が伝わりにくかったかもしれないが、そもそも好きでなければ何度も何度も何度も二人きりの誘いに応じるわけがないのに。
「私、仁王がいないところでは隙見せてばかすかお酒飲んだりしないの! 意味分かる?!」
いよいよもって羞恥に耐えかね、目の前の男に勢い付けて詰め寄った。ぽとり、と髪ゴムが銀の滑り台から落ちていく。
「おまんは、俺を振り回す天才ぜよ……」
自身の口許を片手で覆った仁王は、いまだ混乱残る様子で呆然と私を見つめた。私はというと、彼の身体の横で持て余されているもう片方の腕を取った。
「着替えの置き場も教えてあげる」