2話 «sins»

2話 «sins»


雅さんの提案があったのは水曜日。
路上ライブの日まで僕の日常はいつも通りだった。

毎日毎日嫌がらせを受け嫌々ながらも一日を終わらせてバイトに勤しむ。そんなつまらない日々。
くだらない平和を無駄に過ごすだけ。

約束の土曜日。
雅さんは朝から予定があるらしく僕たちはライブが行われる隣町の駅前で待ち合わせをしていた。

周りはカップルだのなんだので溢れかえっていて独り者の僕はその場所から消えてしまいたかった。今年は平年より気温が高いらしい。まだ五月上旬なのに夏日で汗ばんで肌に絡むシャツと周りのご機嫌な笑い声が不愉快極まりない。

「はぁ……」

約束の時間から十五分経過。従兄弟は時間にルーズな方ではないはずなのだが。
もう待ってやるのは面倒くさい。提案したのは向こうだし僕はもう此処にいてやる義務はないのだから帰ってやろうとした、その時に周囲の女子が恍惚の溜息を吐く。

やっと来たか。そう思って振り返るとやたら顔のいい青年が此方に向かって来るところだった。僕と並ぶと際立つこの男の色香が僕は嫌いだ。ほら、周りが僕を嗤っている。

「遅くなってごめん!」

駆け寄ってきた従兄弟の異変に僕は気付いた。左の首筋と鎖骨に真っ赤な所有印。

「……僕と会う時間があるなら他のことに使えば?」

「え?」

「なんでもないよ」

僕なんかとライブを観に行く暇があるのなら恋人といちゃついてれば良いのに。貴重な時間を割いてくれてどうもありがとうございます。と心の中で悪態。

「……ライブは何処でやるの?」

「こっちだよ」

嬉しそうなこの色男の笑顔に何人の女性が打ち落とされただろう。僕はただ眉間に皺を寄せるだけ。
雅さんがこっちだと誘うので駅の近くの広場に移動した僕達。その直後。

―ギュィィィィィィン!

「?!」

広場にドラムやマイクがセッティングされていて、ザ・バンドマンというような派手な外見の人達が居た。
だけど、まさかこんな急に激しい音が鳴るなんて思っていなかったからただ驚きしかなかった。

「ライブ、始まるよ」

雅さんが自慢げに微笑む。

長い金髪でスレンダーなドラマー、最年少だろうインテリ風なベーシスト、独特なヘアスタイルで冷ややかな瞳のギタリスト、そして、ギタリストとよく似た容姿のボーカリスト。

紅一点ドラマーがスティックでカウントをする。
始まった前奏。響き渡る音楽。

風なんて吹いていないのに突風に吹き飛ばされたような衝撃が僕を襲った。

惹きこまれる。それしか言えない。
僕はあまり音楽は聴かないから詳しくないけれど前奏だけでこんなに周囲を惹きこんでいるこのカリスマ性はなかなか無いのではないかと、思う。

老いも若きも、女も男も、人間も動物も植物も……なにもかも関係なくこの駅前に存在していた生物全てをこのバンドは惹きこんだ。

瞳を閉じて音楽に乗りやや俯いていたボーカリストが、ギタリストとよく似た冷ややかな切れ長の色素の薄い瞳をゆっくり開く。
いや、その動作は一瞬であったのかもしれない。だけど、僕はその動作が恐ろしく遅いスローモーションに感じた。
そして、ボーカリストの、絶叫。

「うあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」

―憎い憎い憎い
自分が心底嫌いで憎い
この醜悪を消し去りたい

何度、自分を傷つけただろう
何度、他人を傷つけただろう
何度、モノを傷つけただろう
何度、この世を憎んだだろう

何度、この世から消え去ろうとしただろう

もう、朝なんて来なくて良い
もう、なにも感じたくない

痛みも、苦しみも、悲しみも
全部全部消えてしまえ

全部全部、塵となれ

嗚呼、終わる僕の世界
塵となる、僕の身体

嗚呼、温かい光に包まれて、
僕は塵になる―

激しく悲しい旋律に合わせて、その厳つく近寄りがたい外見からは想像出来ないような儚い声でボーカリストが言霊を吐く。
この旋律が雅さんが作ったものなんて信じられない。もっと優しく穏やかなつまらない音をつらつらと書いているのかと思っていた。

まるで僕の心を代弁しているかのようなそのストレートで切ない曲に僕は金縛りにでもなっているのかと思った。

視界には、儚い声のボーカリストを中心にそのバンド《sins》の面々だけ。

周りの喧噪も人も何もかもその路上ライブのたった数分の間は僕の世界には儚い曲しか存在しなかった。

激しく悲しい現実から始まり、ねっとりと絡みつくような嫉妬、愁いを帯びた儚い恋、そして一曲目とは少々異なる激しく苦しい反逆。

時折、色素の薄い瞳が此方を見つめているような気がした。そんなのはただの自意識過剰なのは分かっている。だけど、目が、離せられない。
誰彼構わず魅了するこのバンドマン達はまだアマチュアなのか、そして、隣に居るこの男もまだ只の学生なのか。疑問。

繊細で力強く心地よいギターのリズムが弾け、アスファルトに響くベースの重低音が唸り、ドクドクと命を刻むドラムの音が心拍数を上げる。そして、儚く寂しく、でも何処か希望に満ちたボーカルのテノールが僕の空虚な心を満たしていく。

苦しい、痛い、つらい、悲しい、虚しい、切ない、憎い。そして、消えたい。
そんなマイナスを歌っているのに、何故か僕の心は幸福感で満たされる。

放心状態でどうやって地元の駅まで帰ってきたか分からない僕に従兄弟は満足げにウォークマンを差し出してきた。

「これ、あいつらに頼んでデータ入れてもらったんだ。今日歌わなかったのも入ってるよ」

「……え? でも、これ……」

従兄弟は優しげな笑みを浮かべる。
あれ? この人の笑顔は嫌いだったはずなのに……。

「もうすぐ、誕生日だろ? だからこれは俺からの誕生日プレゼント」

「あ、あり、がとう……」

そういえば来週は僕の十七回目の誕生日だった。
無駄に生きているだけの僕は自分の誕生日なんてすっかり忘れていた。

「まあ、誕生日プレゼントというか何というか……。押し付けみたいでごめん。また新曲が出来たら聞いてくれるかな……?」

いつもの偽善者な笑顔じゃなく、自信の無い不安そうな表情の雅さんが僕の顔色を伺う。

僕は拒絶しなかった。
僕は、どうしてもあのバンドに執着していた。
今日初めて路上ライブを観ただけで、あの苦しい曲と儚い声を忘れられないでいた。

あのバンドの曲に一耳で惚れてしまったんだ。

あの苦しくて切なくて儚い、でも何処か救いのある曲の数々。そしてあの切なく苦しく儚い歌声・・・・・・。もう僕は《sins》に、おせっかいな従兄弟が書いた旋律とあの儚い声に囚われて逃げられない。

またあのバンドに関われるならと――今回、あのバンドと関わったのかと言われたら微妙なラインだけれど――何故か僕は珍しくこの大嫌いな従兄弟と長い時間二人で出掛けた。

しかし、やはりこの無駄に色香を振りまいている男と歩いていると劣等感が否めない。
本当にこの男と僕は血縁関係にあるのか。いつも思う。

僕の母は優しくて綺麗で恋多き女だった。あの人は昔からよく人に好かれていたと、母とよく似た顔の美丈夫は寂しく言う。

もしかすると、醜い僕は父親に似ているのかもしれない。女を犯し穢して孕ませて責任を取れない男だ。というかそもそも何処の馬の骨が僕の父親かわからない。でもきっと僕に似て醜いんだ。きっと母さんはそんな僕が憎かったんだ。

今日は雅さんは自分のマンションに帰るらしく、彼とは途中で別れ帰宅し、僕は保護者に挨拶もそこそこに部屋に籠もりすぐに雅さんがくれたウォークマンを起動させた。

一曲目のタイトルは『塵』。

今日、路上ライブで一番始めに演奏していたあの曲だ。
やはり、切ない。だけどその曲に僕は救われる気がする。
一筋、頬を涙が伝う。嗚呼、僕の涙はまだ乾いていなかったのか。いや、この涙はいつも手首から流す涙とは毛色が違う。
そう、これは……。

誕生日を心から祝われたのはいつだっただろうか。
思えば僕は小学校低学年くらいから学校で孤独だった。
僕は異質だった。
思えば、両親の心中があった頃から……いや、産まれたころから僕は疫病神だったんだ。
いや、僕は疫病神ですらない。『神』なんて存在じゃない。
僕はただの『災厄』だ。

僕は音楽を聴くという事で心を癒やす術を知った。
他の様々なジャンルの音楽を聴いた。

だけど、何かが足りない。
片方は幸せ過ぎてつまらない。
もう片方は苦しすぎて息が詰まる。

あれも違う、これも違う。希望と絶望が隣り合わせのそんな曲を僕は求めているのに……。
そして、僕は《sins》に、彼らが教えてくれた彼らの音楽に溺れていることに、気付いた。
苦痛を僕はノートに書き殴り日々を過ごしていた。
増えるCD、増える言の葉、増える渇望……。

あの路上ライブを観に行った日から、僕は従兄弟と頻繁に連絡を取るようになった。僕からは書き殴った言の葉を、従兄弟からは切なしい旋律を、僕達は共有し始めた。

あの儚い声にもう一度会いたい……。
そんな欲求が僕を支配したけど、でも、僕は「会いたい」を言い出せなかった。


ーつづくー