パピー ラブ


漢字ふりがなぴゅう、口笛みたいな鳴き声をあげて木枯らしが通り過ぎた。
今日のお夕飯は何にしよう。まず、冷蔵庫に何があったかな。スーパーに行くのはちょっと面倒くさい。寒いし、一刻もはやく家に帰りたいな。

講義棟を出て、つらつら考え事をしながら歩く。やがて、周囲から聞こえる興奮を押し殺したざわめきに気がついた。
アスファルトに向けていた視線をあげて、あたりを見渡してみる。可愛らしく着飾った女子学生たちが頬をほんのり朱に染めて、ある一点にしきりに熱い視線をやっていた。

なにげなくその視線をたどっていけば…ああ。納得だ。
自分の眉間にしわが寄るのがわかったが、止める気もない。歩幅を1.5倍くらい広げて歩く。「オンナノコらしくないッスよ」と咎める彼の声が脳内で再生されて、イライラが増長した。



灰色の空でも眺めていたのだろうか。ぼんやりと宙を仰ぎながら煙草を燻らしているその姿は古い洋画からそのまま出てきたかのように優雅だ。

「涼太くん」

目が合うと、彼は咥えていたものをはずして微笑んだ。煙草を挟むその指はやたらと長くて骨っぽいのに、全然貧相に見えない。ふしぎなひとだ。

琥珀色の瞳が弓なりにきゅうっと細まって、目尻に人懐っこさを感じさせるしわが現れる。それを見て、私の心臓もきゅうっと締め付けられて、苦しくなった。

ばかやろう。
ぽこり、心に浮かんできてしまったセンチメンタリティを振り払う。痛みなんて、感じるものか。そんなものは必要ないんだ。ただ、私の敵になるだけなのだから。


「迎えに来てなんて、頼んでない」
「いーじゃないッスか。家に一人でいるのもつまんないんスよ」

不機嫌を隠そうともせずに睨む私の視線を遮るように、くしゃりと私の髪をかき混ぜる。

「だって一人でいる家って、やったら広いし」

頭上から声が降ってきた。涼太くんの声は、寂しいのに無茶に明るいトーンを作っているのがバレバレで、それがなんだか痛々しくて聞いていられない気持ちになる。
おかげで私は口をつぐむしかなくなってしまった。

「せっかくだし寄り道でもしてこっか」
「…喉が渇いた」
「ハイハイ」

からから笑いながら先に歩き出した背中を追って小走りする。
横に並んだ私を確認すると彼は「手でも繋ぐ?」と戯けてきいてきた。細いスキニーパンツに包まれた太腿のあたりで誘うように手をぴらぴら振っている。

ぶすくれた可愛くない顔のまま、黙ってその手に小指を絡ませた。出そうとしていた手袋はポケットの奥に追いやる。彼の手は氷ほどの冷たさで、ひやっとした。

ばかなひと。どれだけ私を待っていたの。こんな足元からぐんぐん熱を奪われていくような冬の日に。手袋もマフラーもしないで、煙草だけを咥えてひとりであそこに立っていたの?風邪でも引いたらどうするのよ。

いらだちながらかなり上にある彼の顔を見上げると、鳩が豆鉄砲をくらったみたいに呆けた表情をしていた。それがみるみるうちにほぐれていき、とろとろに蕩けた笑顔になる。顔じゅうに喜びが溢れた、嬉しくて堪らないって表情。
あまりにも嬉しそうだったので、拍子抜けしてしまった。

涼太くんが繋いだ手を大きく振った。ぐんと身体が前につんのめる。抗議を含んだまなざしを向けるも「手ぇ繋ぐのなんて、ひっさしぶりッスね」と笑うだけだ。

鼻歌を歌いながら涼太くんはずんずん歩いていく。私もリーチの長い涼太くんに引きずられるようにして歩き出した。
今の彼は、さながら尻尾をふりふり散歩に出るわんこだ。私はリードを引かれて歩く飼い主ってところかな。

こっそり彼の顔を見上げると、目があった。にっこり。極上の笑顔で私を見つめる、彼の笑顔はなんてまぶしいんだろう。目が潰れてしまいそうだ。太陽だって、この輝きに勝てはしない。ほら、負けを悟って雲に隠れてしまっているではないか。涼太くんの笑顔は、それくらい素敵だ。


輝く笑みの彼の顔には、目尻にも口元にも細かいしわがある。
昔のスターは、月日を経るごとに少しずつ少しずつ朽ちていったけれど、それでも今なお輝きを忘れてはいない。彼のうちに眠る光はいつだって煌めいていることを私は知っている。
他の誰が知っていなくても、私が知っている。それだけで充分だ。




まっしろな湯気がもくもく立ち昇って、目の前をたちまち白に染めていく。たまたま入ったカフェは盛況なようで、あいにくテラス席しか空きがなかった。いまは仕方なくそこに陣取り、震えながらココアを啜っているところである。

口元にココアを近づけるたび、目の前の彼の姿が白くけぶる。涼太くんは頬杖をついて、死んだように静寂を保っている街路樹のイルミネーションをぼんやり見ている。たまに思い出したように右手に持っているブラックコーヒーに口をつけた。
涼太くんの目はどこか虚ろだったから、街路樹を通して何か別のものを見ているんだろうなと私は勝手に推測した。彼が見ているものはなんだろう。

必死に追い続けた背中だろうか。若かりし日の栄光だろうか。華やかで不健康な芸能生活だろうか。それとも、今はいない愛した女のことだろうか。わからない。

眼前にさらされている涼太くんの左の耳朶に空いたピアスホール。そこに煌めくものがはまっていた頃の彼を、私は知らない。



ココアで温めていた右手を、テーブルの上に無防備に置かれた涼太くんの左手に重ねる。パッと彼の意識が正常に戻った。

突き刺さりそうな冷たさの薬指の金属が、私の手のひらの熱を奪っていく。視線を感じながら、私は黙ってココアを飲んだ。涼太くんが泣き笑いみたいな、情けない顔でそこにいるのがわかってしまったから。

彼の手はかさかさに乾いていて、それは涼太くん自身の心をうつしているのかなと私はぼんやり思った。あのひとが居なくなってから、潤うことのなくなったこの手は、これからもずっと乾いたままで、こうして死んでいくんだろうか。
それは悲しいことだけど、私にはなぜだかとてもうつくしく感じられた。

「ねえ、パパ」
「なーに」
「おうちに帰ろう」
「うん、そうッスね。帰ろう」


店の外に出て、どちらからともなく手を繋いだ。なんとなく、繋いでいたい気分だったのだ。たぶん、二人とも。

「今年のクリスマスはどうしようか」
「いつのまにやら大学生なんスよねー。もうパパなんて置いてって遊びまわっちゃうんだろうなぁ」

今年はひとりぼっちのクリスマスかぁ、と歌うように呟いた涼太くんに言葉をかけようとして、息を飲んだ。
いちめん、真っ青な光に包まれていたのだ。
街路樹が次々に青く染まっていく。恋人達は立ち止まって歓声をあげていた。
私たちも自然と足を止め、青く染まる見慣れた景色を見つめた。

「私はどこにも行かないよ。今年も家で過ごす」
「いいんスか?きっとたくさん誘われるッスよ」
「全部断る。だって、ひとりぼっちでクリスマスケーキ食べたりしたら、パパ泣いちゃいそうだもん」
「そんなヤワじゃないッスよ」
「いーや、泣くね」

彼は納得いかない顔をしているけれど、もしそうなったら絶対に泣く。涼太くんがママの居ないクリスマスに耐えられるわけがない。

「だから、私が一緒にいてあげるよ」
「…ありがと」

涼太くんの肩にもたれかかる。涼太くんも首を傾けて私の頭に自分の頭をごつん、と当てた。やわらかくかかる彼の重さを、私は何よりも幸せに感じる。


いま、この通りにいる人のなかで、どれくらいの人が私たちが親子であることを見分けられるだろうか。顔も、性格も、血も、なにもかも違くて、ちぐはぐな私たちを。それでも分かるという人は果たしているんだろうか。

私は、この通りにいる人のなかで、たった一人でもいい、たった一人でもいいから、私たちを『恋人同士』だと勘違いしてくれる人が居ないかなと願ってしまうのだった。
繋いだ手に、ほんの少し力を入れる。
もしそんな人がいたら、最後の一線なんて軽々とジャンプして越えてみせよう。そして、伝えるのだ。
私だってあなたのことを愛してるんだと。