首筋にルージュ


けたたましく鳴る目覚まし時計を反射的に叩くと、ぼんやり意識が覚醒した。
目をこすりつつ上半身を起こす。それから私の腰に置かれた太い腕をどかした。なるほど、昨晩の寝苦しさの原因はこいつか。

布団から出てきてみると、朝の冷気に体が震えた。春だ春だと思っていても、朝はまだ冷えるのだ。

近くの椅子にかけてあったカーディガンに袖を通す。これは鉄平が中学生の時に着ていたものらしいが、私には大分袖が余ってしまう。当時から鉄平は大きかったのかな、と見たことのない彼の中学時代の想像が頭を巡る。


余った袖を見つめて暫し感慨に耽っていると、後ろから声をかけられた。
「名前、おはよう」
「おはよ、鉄平。………なんでそんなにニヤついてるの?」

振り向くとそこには緩みきった顔で私を見つめる鉄平の姿があった。

「なに、私の髪に寝癖でもついてる?」

頭をおさえて見せると、彼はおかしそうに笑った。

「いーや、なんでもないさ。なんでもないけど、いいもんだなぁと思ってな」
「……ふーん」

なんだかよくわからないな、と思っていると、わかってないだろと鉄平にまた笑われた。


「いいじゃない、別に。そんなことより、ご飯にしよう。お味噌汁の具は何にする?」

なんでもいいはナシね、と釘を指す。
困るなと言いつつ笑う顔を見て、なるほどこういうことかと理解した。

ーーーーーーーーーー

付き合い始めた頃、たぶん私は鉄平のことをそこまで本気で好きなわけじゃなかった。

一線を越えてしまったし、流れがそうさせたというか、そんな曖昧な気持ちで付き合い始めた。

鉄平はいつでも優しかった。
華奢な硝子細工を扱うみたく、繊細に、慈しむように私に接してくれた。

具体的に何をしてくれたとかいうのはないけど、それはいつでも彼の眼差しや手つきから痛いほどそれが伝わってきた。

私は戸惑いつつも、ただそれを甘受していた。




それが、いつからだろう。
彼が他の女の子に笑いかけるのが、嫌になった。
彼の柔らかい髪や、大きくて無骨な手に堪らなく触れたくなった。
美味しいものを食べたとき、彼と一緒に食べたいと願った。
彼の一番は、私じゃなくちゃ嫌だと思った。


いつの間にこんなに嵌まってしまったのか。
鉄平、 あなたのせいなんだから責任をとってよね。



二人で朝ごはんを食べ終わって、食器もすべて洗い終えた。
まだ出勤時間には早いが、鉄平はすでにスーツを着込んで会社に行こうとしている。

私はいそいそとドレッサーに向かって、一番お気に入りの口紅をひいた。まだあのパジャマにお下がりカーディガンという出で立ちだからおかしいことこの上ない。でもいいのだ。


居間へ戻ると、鉄平はちょうど身支度をし終えたところだった。私の姿に気付くと、不思議そうな顔をする。

そんなことには構わず、私は真っ直ぐに鉄平の元に歩いて行った。そして、ぐっと彼のネクタイを引っ張る。なんだ、と尋ねる彼の声には耳も傾けず、そのまま首に抱きついた。

「はは、珍しく可愛いことするな。どうしたんだ、名前?」

軽くジャンプまでしたのだからそれなりに勢いはあったはずなのに、鉄平はぐらつきもせずしっかり私を抱え込んだ。私は子供が父親にしてもらうみたいにして鉄平に抱かれている。


「珍しくは余計よ。でも、私が可愛くないからって他の女の子になびいたら容赦しないんだからね」


そう言ってすぐに彼の首筋に唇を押し付けた。印をつけるようにして。

鉄平が会社に行けば、たくさんの人がいて、もちろん女の人だっている。そこは私の知らない、立ち入ることのできない世界だ。鉄平がそこで女の人と何かあっても、私は知ることができない。私に出来るのは、彼が帰ってくることを信じて待つだけだ。

もし、仮に鉄平が浮気していたとしても。
それでも、最後に彼が帰ってくるのは絶対に私のところだ。

唇を離して、今度は耳にそれを寄せる。

「私はもう鉄平のものなのよ。だから、あなたも私のものなの。好きにさせたのはあなたなんだから、責任くらいとってよね」

もっと素直に言いたかったのに、また可愛げのないのことを言ってしまった。少しの後悔を振り切って顔を離す。降ろして、と小さく言うと、無言で地上に戻された。

「それじゃ、いってらっしゃい」

慣れないことをして恥ずかしくてしょうがなかったから、私はさっさと背を向けて去ろうとした。だがしかし、それは叶わなかった。カーディガンの裾を掴まれていたからだ。

鉄平は、呆然とした顔におのれの手を当てて押し黙っている。ふわふわの茶髪から覗く耳まで赤く染まっていた。そんな状態なのに、カーディガンを掴む手の力は強い。

「………あーーー、なんていうかさ。本当、ずるいよな、名前は」

やっとこさ出した声は掠れていた。カーディガンを掴んでいた手を離して、あの時のように髪がぐしゃぐしゃになるまで私の頭を撫でる。
眉間に少し皺を寄せて凄んでるけど、照れ隠しの強がりだということが透けて見える。


やがて、観念したように微笑むと鉄平は先程のように私を軽々と抱き上げた。
こつんと額を合わせる。
間近で見る彼の落ち着いた朽葉色の瞳は柔らかく和んでいた。

「俺がお前以外の女のところに行くなんてことはないよ。だって、俺はもうお前以外の髪の香りも、声も、肌も、知る気はない。知りたくもない。まったく、責任を取って欲しいのはこっちだぞ」

頬に軽くキスをして、鉄平は私の身体を降ろした。いつものへらへらした笑顔で言う。

「もう、他の女には満足できなさうだ」
「そうじゃなくちゃ、困るわよ」

私も、あなたじゃなくちゃ嫌だもの。そう付け加えると、本当に今日の名前は素直だと笑った。



その後、玄関で鉄平を見送るとき、「そういえば、口には何もしてくれないのか?」と言ってきた鉄平を思い切り叩いてあげた。





これからも、ずっと、同じ家に帰ってきて、一緒に朝を迎えよう。
たまに気が向いたら、いってらっしゃいのキスも、おかえりのキスだってしてあげる。
だから、どうかずっと側にいてほしい。

なかなか口には出せないけれど、それが私の願いです。