まだ顔も見ぬ天使に祈りを


なんとなく、それっぽい兆候はあったわけだ。

ここのところ、やたら眠いし体は怠いし熱っぽかったし、吐き気はするし。

けど、いざ結果を目の前にするとやっぱりちょっと現実味がない。

私は母になるのか。


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最近は体調の優れない日が続いていた。鉄平もこっちが申し訳なくなる位心配して、甲斐甲斐しく世話を焼いてくれる。
それでも、もちろん毎日出勤してたし、ちょっと風邪が長引いてるのかしら、くらいに思っていた。

そして今日、さつきちゃんから呼び出しを受けてランチを共にすることになったのだ。

どうやら、私の体調を心配した鉄平がさつきちゃんに私のことを話したらしい。小学生でもあるまいし、と思ったが心配は無下に出来ない。

「名前さん、単刀直入にききますけど、妊娠したんじゃないですか?」
おしゃれなカフェテリアの喧騒には不似合いな、さつきちゃんの珍しく強張った顔に苦笑した。

「別に、体調が優れないのはただの風邪か何かだよ」
「検査薬は?試してみたんですか」
「試してないけど」

やっぱり、と呆れた顔をしてさつきちゃんは鞄を漁り出した。そして取り出した小さなビニール袋に入っていたのは。

「なにこれ、検査薬?」
「そうです。今すぐお手洗いに行ってきてください」

でも、と言いかけるとすかさずさつきちゃんは「でも、じゃないです!」と遮った。

「もし赤ちゃんができていたらどうするんですか。一大事ですよ!」

さつきちゃんの剣幕におされてお手洗いへと追いやられ、検査薬を試してみて、今に至る。

手元の検査薬の結果は陽性。
つまり、いま私のお腹には鉄平との子供の命が宿っているのかもしれないということ。



正直、そんなに子供が欲しいわけじゃなかった。
ぼんやりといつかは、って考えてる程度で。

あんまり鉄平と子供についての話もしなかったし、それで今まできていたから、とても戸惑っている。

私って、お母さんになれるの?
まだ自分は女だと、親には程遠い存在だと思っていた。


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体調不良と精神的なショックが合わさってフラフラの私にさつきちゃんは優しく笑いかけた。

「私はこれから会社に戻りますけど、木吉さんにはまだ内緒にしておきますから、家に帰ったらよぅく話してくださいね。お腹冷やしちゃダメですよ」







それから先のことはあんまり覚えていない。
フラフラのまま仕事を終えて、いつの間にか家の前にいた。

目の前の木造平屋、修理を重ねて鉄平の祖父母から受け継いだ我が家には、いつも不思議な温もりが宿っていた。窓からは柔らかな灯りが漏れている。大好きな人が、私の帰りを待っているのだ。

「ただいま」

ガラス戸を開けると、まずシチューの香りを感じた。
それから黒いエプロンに身を包んだ鉄平が台所から姿を現した。

「おかえり。ちょうどシチューができたんだ、食べてみてくれないか?」

うっすらとした蒸気の向こう側で、出会ったころから変わることのない瞳が私を見つめている。
瞼の裏が急に熱くなって、鼻の奥がつぅんとした。鉄平の笑顔がゆらゆら揺れたかと思ったら、すぐに崩れ落ちる。

私は涙を流していた。
張りつめていた糸がぷつんと切れたかのように、不安と、こそばゆいような嬉しさと、たまらない愛おしさが一気に押し寄せてきて止まらない。

「どうした?どこか痛いところでもあるのか」

ぼろぼろ涙をこぼす私に驚いて鉄平が慌てて近寄ってきた。
私に目線を合わせるようにして屈んだ彼の首に抱き付く。

「赤ちゃんが、できた、かも」

鉄平が息を飲む音が聞こえた。なにも言わずに私を抱きしめ返す。

それから鉄平は駄々っ子にするように私の靴を脱がせ、抱きかかえたまま部屋まで連れて行った。首元に顔をうずめて泣く私の涙で、鉄平のシャツがどんどん濡れていく。
ソファに私を座らせると鉄平はキッチンに消え、ココアをこしらえて戻ってきた。

手渡されたココアをちびちびと飲む。二人ならんでココアを飲んでいると、次第に心も安らいできた。



私がテーブルに空のカップを置いたことを確認すると、鉄平はようやく口を開いた。

「……えっと、まずは、妊娠おめでとう」
「…ありがとうございます」
「おそらく、これから出産まで、名前はすごくキツい思いをすると思う。代わってやりたいと思うが、それも出来ない」

「なんだかうまく言えないんだけどな」ともどかし気に言って鉄平は頭を掻く。私はゆっくり、ゆっくり言葉を紡いでいくその様子に、彼の優しさを感じて自然と顔が綻んでいた。

「でも、きっとその長いつらい期間を越えれば、可愛い俺たちの子供の顔が見れるんだ。俺は、#かおり#とその子の顔が見たい。だから」

膝に置いた私の手に、鉄平の大きな手が重ねられた。何度も触れたことのあるこの大好きな人の手は、今は少し汗ばんでいる。

「だから、お願いだ。頑張ってくれ。でも、楽しんでこうぜ。辛いかもしれないけど、そのときは俺も力になるさ」

じっと、命が宿っているだろうお腹を見つめてみた。
まだ何にも変化は見られないけど、これが風船でも詰めたかのように膨らむ日がいつか来る。

不思議だ。あんなにも不安だったのに、今はそれも薄れている。
自分が母になることを待ち遠しく思う気持ちが、我が子を愛おしく思う気持ちが芽生えはじめていた。

「どんな子になるんだろうな」
「鉄平に似て背が高くなるかもね」
「名前みたいに強情に育たないといいな」
「うるさいわよ」

「でも、名前に似るならきっと可愛い子に育つぞ」と言って、鉄平の大きくてあたたかい手が私のお腹に当てられた。
きっと、子供達も彼の手が好きになるだろうな。私と、同じように。

いまこのお腹に宿っているこの命は、どんな風に成長するのだろう。
私達は、どんな家庭を築くのだろう。

まだまだ先の見えないなかで、本当はまだ少し、怖い気持ちもある。
でも今はそれ以上に、見えない先にあるはずの、明るい未来が楽しみで仕方がなかった。

私と、鉄平と、このお腹の子。もしかしたら、もっと増えるかもしれない、家族。

いまはただ、祈っている。
私たち家族に、幸せが宿ることを。
愛しい我が子に、どうか素敵な未来が待っていることを。