ハートに火をつけて


「今夜、飲まない?」

いつもと同じ文面のメール、それにこれまたいつもと同じように「いいぞ、じゃあ8時な」と返す。幾度も繰り返したこのやりとり。


また、男の愚痴を聞かせられるんだろうな。
酔って、泣いて、疲れ果てて眠りに落ちて。

その涙を拭うのは俺じゃない。
朝、目覚めたときに隣にいてほしいのも、俺じゃない。お前が望むのは、どこかにいる俺じゃない男の腕のなか。

何度繰り返せば気が済むんだろう。何度、傷つけば。

ため息を吐きながらも足が向かうのは彼女が待つバーで。
安いライターで煙草に火をつけた。それを咥えて唇で弄ぶ。

ああ、本当に。
馬鹿だよなあ。俺も、お前も。

果てのない洞穴のような、黒い黒い夜空に煙を吐いた。どうしようもなく目に染みる。


ーーーーーーーーーー

「ついにあの人にデートに誘われちゃった」

思わず手が滑って、グラスを落としそうになった。傾いたグラスの中で氷がからん、と乾いた音をたててまわる。
なるほど、妙に機嫌が良かったのはそのせいだったんだな。

「よかったじゃないか。どこに行くんだ?」
「横浜のホテルでディナーですって。夜景が楽しめて、地下に下りればバーもある」

ここには敵わないでしょうけど、と声を弾ませて彼女はグラスに口をつける。テーブルに戻されたそれには口紅の赤がこびりついていた。

なるほど。大方、ディナーに夜景、そしてバーで甘いカクテルでも飲ませて、最後にはホテルでいただきますって魂胆だろう。

「確か、予約してくれてたのは六月の十日だったかしら。梅雨時ねぇ、雨が降らないといいけど」

息を吐く彼女はどこか嬉しげだ。「すまん」とことわって、また煙草に火をつける。




ーーーーーーーーーー

時計の針が12をまわったころ、何人かからメールが立て続けに届いた。驚いて確認してみると、送信者は皆かつてともに戦った仲間たちだった。内容は要約すると全て同じ、「誕生日おめでとう」。

そうか、誕生日か。忘れてた。
幼いころは誕生日なんて年に一度のスペシャルイベントで、忘れるなんてありえないと思っていたけど。今では仕事に忙殺されてすっかり忘れるくらいになっていた。これが大人になるということなら、大人というのはなんて虚しい生き物なんだろう。



時計に目をやると誕生日を迎えてから十数分が経っていた。ふと、目にとまった"6/10"という数字に、自分の誕生日以外の何かがあったような気がして引っかかる。
顎に手をやって記憶を辿ってみると、コツンと小石が当たるような感覚がして、ああと思った。

今日は彼女が、名前が他の男に喰われる日だ。




何事もなく仕事を終えてさて帰ろうというところで、今日は誕生日なんだということを思い出してしまった。このまま家に一人で帰って寝るのもなんだかアレな気がする。

確か、いつもの店は誕生日の客に対して何かしらのサービスをしていたはずだ。いつもは#かおり#と二人だが、今日は一人で行ってみるか。

そう決めて足を踏み出しだそうとしたとき、携帯が鳴った。タイミング悪いな、と思いつつ表示を見れば予想外の人物で、慌てて電話に出た。

「もしもし鉄平、いまどこ?!」
「どこって、会社だ。バーに行こうとしてたところだけど」
「それならバーにいて!動かないでよ!じゃあまたね」
「おい、名前?デートはどうした、って」

ツーツーと鳴る携帯を恨めしく思い睨みつける。嵐のようだ。なんでお前はこうも俺を振り回すんだ。前髪をくしゃりとしてみても苛立ちが消えることがないのは、わかりきっていたことだけど。



それからバーに向かって、1時間ほどだらだらマスターがお誕生日様サービスで出してくれる酒を飲んで待った。

「誕生日に一人とはな。なかなかにいい男のくせに厄介なオンナに捕まっちまって」

ご愁傷サマ、と言うマスターをじっとり睨んで「余計なお世話だ」と返す。おかげでこちとら長らく女と遊んでいない。

青いな若人よ、と笑って店の外に消えたマスターを見届けてグラスを傾ける。いつも隣にはきゃんきゃん喚いて泣いてとうるさい彼女が居たが、いまはいない。どうもカクテルの味も薄く感じる。あきらかにこれはマスターのせいじゃないな、と思ったところでちょうど戻ってきた。

「おい、なんか雨降ってきたぞ。嫌だねぇ梅雨は」

そうぼやくマスターの声をきいて真っ先に思い浮かべてしまうのは悔しいけども名前の顔で。がたん、と音をたてて席を立つと微かにマスターが笑った気がした。




重い扉を開けて外へ出ると、細く鋭い雨がぱらぱらとまばらに降っていた。梅雨時の大雨の前兆か。
携帯を取り出して名前に電話をかける。プルルルルルルル、というコール音、雨と車の音、それら全てのなかで、確かに彼女のヒールがアスファルトを蹴る音を見つけた。

「鉄平!」

どん、と強い衝撃。小走りした勢いのまま名前は胸に飛び込んできた。抱きついてきたなんて可愛いものじゃなくて、タックルのような衝撃だったけど。

「よかった、帰ってなくて。遅れてごめんなさい」
「それはいい。雨は平気だったか?」
「ああ、それは大丈夫。それよりも、コレ」

彼女が「はい」と片手に下げていた小さな紙袋を差し出した。「お誕生日おめでと」にこり、といままでになく素直な笑顔でそう言われて目が点になる。

「ありがとう。…俺、お前に誕生日なんて言ってたか?それに、デートはどうしたんだ。ディナーは」

そう尋ねると、きまり悪そうに名前は頬をかいた。
「実は、今日さつきちゃんにあなたの誕生日のことをきいてね。お祝いしなくっちゃって、デートの約束はすっぽかして来ちゃった」
「なんで、楽しみにしてただろう」

あんなに幸福そうにため息をしていたのに。目もきらきらさせて、楽しみだったんだろう。

「私にもわかんないわよ!ただ、会って直接おめでとうって言いたかったの。なんでかわからないけど、今夜はいちばん鉄平に会いたかったの!」

そう赤い顔でまくしたてた彼女を前にして、俺の体温も上がってしまって。ああ、体が熱い。

「プレゼント、開けてもいいか?」
「ええ、どうぞ」

深い青の包装を丁寧に取り除くと、現れたのは銀に鈍く光るジッポだった。

「煙草、よく吸うでしょ。それ使って」

いたずらっ子のように微笑む彼女に、自分でも分かるほど眉を下げた情けない顔で「ありがとう、使わせてもらう」となんとか言った。

「さ、なかに入って飲もうよ」
「悪い、俺は一本吸ってくから先に入っていてくれないか?」

早速使いたくてな、と貰ったばかりのジッポをちらつかせれば彼女は嬉しそうに小さく手を振って背中を向けた。


彼女が選んだジッポで煙草に火をつける。

喫煙が癖になったのはおまえのせいだ。どうしようもないことが重なりすぎて、重なることのない唇がもどかしすぎた。赤ん坊がおしゃぶりをするように、たいして美味くもない棒をいつも咥えて弄んでいる。

今夜、はじめておまえのいちばんになった。華奢なヒールでアスファルトを蹴って、綺麗に綺麗に整えた髪を乱して走ってきてくれた。他の男を捨てて、俺のもとまで。

それが俺にとってどれだけ大きな意味を持つのか、おまえは知らないだろう。どれだけ俺を揺さぶるのか。


今はまだ、それでもいいか。はじめてそう思った。
きっとおまえを捕まえると、今夜はじめて覚悟を決めた。もう逃げはしない。

そう決めてしまえば、案外気持ちは軽くなるもので、歌でも歌いたいくらいの気持ちになった。
いつか彼女が好きだと言っていた海の向こうの歌手の曲を口ずさみながら灰皿に煙草を押しつける。



ぬるま湯にはもうそろそろ飽きるだろう。
必ずそこから引き摺り出してみせる。