ねむるあいだにいなくなってね


ねむるあいだにいなくなってね。
すべてが混沌としてあやふやになった頭の中で祈る。それはちいさなつぶやきとなって私の唇から零れ落ちた。

「ねむるあいだに、いなくなってね」

どこか俯瞰した視点からひどく舌っ足らずな自分の声を聴いた。生クリームを大量に含んだケーキのよう、甘くて、どろっとしていて、吐き気がする。

握られていた右手に、ぎゅっと力が加わった。シングルベットの端に腰掛ける縁下は何も言わない。彼は今にも眠りに落ちそうになっている私に背を向けて、ただ私の右手を握っていた。彼の瞳は、きっと窓の外に溢れかえる人工的な光を写しているんだろう。まっくろなビロードの布の上に宝石箱をひっくり返したみたいにきらきら煌めく、ゆめの夜。さみしい都会の片隅で、途方もない数の人々の発する光の中で、まっくらな部屋に居る私たちはこの世界でふたりぼっちだ。


本当はね、知ってるんだよ、私。
あなたが今ここで私の手を握っているわけを。この手のひらのぬくもりのわけを。
いつだって、電話をかければすぐに来てくれて、ぐずぐず泣きながら話をする私にうんうんって頷いてくれる。つらかったな、頑張ったなって言って背中を撫でてくれる。涙が出たら拭いてくれるし、鼻水が出たらティッシュを出してくれる。酔ったらおんぶだってしてくれて、介抱までしてくれるよね。ほら、今だってこうして、手を握っていてくれる。

縁下は私が間違ったことをしたら必ず叱って諭してくれた。
でも、あなたはひとつだけ私のまちがいを黙認しているよね。あなたはそれで、ズタズタのボロボロになるのに、私のこのまちがいをいつまでも正そうとはしなかったよね。

わかってるんだ、私。縁下が私のことを好きなことくらい、とっくに気づいてたんだ。
それでも、寄りかかって甘えて、他の男の話をして。
自分でも最低な女だなって思うよ。でもどうしてもやめられないの。あなたが優しすぎるから、どうしても寄りかかってしまうよ。

だからね、縁下。私はあなたに離れて行ってほしいんだ。
こんな女って蔑んで、もう二度と私を見つめないでほしいんだ。
ごめんね。我儘だって、残酷だって知ってるよ。
私はよわい。あまりにもよわい。自分からあなたと離れようとすることなんて、出来やしない。





眩しさを感じてまぶたを開けた。面倒でカーテンをつけていない私の目覚まし役は朝日が買って出て来てくれている。一瞬開けたまぶたをまた閉じて、すんっと鼻を鳴らした。よかった、縁下がいない。縁下がいるときはいつも彼が起こしてくれていたけど、手を伸ばしてシーツを触ってみてもそこはただ冷たいだけだ。


緩慢な動作でベットをおり、部屋を出る。ドアを開ければ、ふっとトーストの香りが鼻をぬけた。意識が一気に覚醒する。早足になってキッチンへ行くと、そこには持参したのであろう黒いエプロンをつけて朝食を作る縁下の姿があった。

「なん、で。いるの?」
「朝ごはん、一緒に食べようと思って」

縁下は答えながらこちらも見ずにサラダ用のレタスを切っている。とんとんと包丁の軽やかな音がする。

「なんで。わたしなんて、見捨てていってよ。縁下には、もっといいひとがいるはずなのに」
「そんなの、俺だってそう思うよ。だけどさ、駄目なんだ」

レタスをサラダボウルにどっさり盛って、赤に黄色にとカラフルなプチトマトを投入しながら、縁下は言った。

「なんでこんな女なんだよって、俺も思うよ。いつだってそう考えてる。でも、どうしてもお前じゃなきゃ嫌だって、思っちゃうんだよ。名字が好きだって、思うんだ」

だからどんなに離れろって言われても、俺から離れてなんかやらないよ。最後にようやく私の目をみて彼は言った。何も言えず、彼の瞳を見つめ返す。
チン、とトースターが鳴った。さっきよりも強く、芳ばしい香りがあたりに漂う。こんなときなのに、こんなにも泣きそうなのに、お腹がぐうとなってしまって。慌てて手のひらで抑えたら縁下は軽く噴き出してから「朝ごはん、一緒に食べよう」と笑った。


私は、なぜだか知らないけど、さっきの縁下の言葉をずっと待っていた気がした。どうして、私は彼をこんなにこんなに苦しめてしまうまで、気づけなかったのだろう。
呆れるほどに優しい彼が、涙でしょっぱくなったトーストを噛み締めるどこまでも馬鹿な私の頬をそっと撫でたから、また涙が零れた。