ハニーだなんて呼ばないで



辰也が私を選んでくれたということは、私の人生最大の幸福なんじゃないかと思う。

思うよ、ちゃんと思ってるってば。
でもね。

「ハニーって呼ぶのやめてくれないかな」

そう、これ。ずっと思ってた。
帰国子女の彼は街中でもまったくおかまいなしにぽんぽんハニーと呼ぶし、隙あらばキスしてくるし、ところかまわず全力で愛を示してくる。嬉しい反面、正直とっても恥ずかしい。スコップ持って土を掘り返して埋まってしまいたいくらいだ。

「Why?なんでだい。名前も俺のことをDarlin'って呼べばいいじゃないか」
「いっそのこと清々しいくらいに会話が噛み合わないね。そういうことじゃないんだよ」

辰也はうぅん、と唸ってソファに座るとあの『考える人』のポーズをした。本当になにしても様になるよね。うっわ、足長い。嫌味か。

「Honeyが嫌なのか?それならSweetie,baby,love,sugar………peach pieもいいな」
「ぜんっぜん良くないから!恥ずかしいから普通に名前で呼んでよ」

真面目に考えたと思ったのにこの答えですか。これだからこの人は。ちょっと期待した私が馬鹿だったよ。

「でも向こうじゃこんなの恥ずかしくともなんとも無いよ。そんなにも人目を気にするのは日本人くらいだ」
「いい?辰也。ヒアー、イズ、ジャパン、郷に入ったなら郷に従うのよ」

地面を指差し、一番ドスの効いた声を出して凄んでみせる。

「違うよ、honey。それを言うなら This is Japan だ」

彼は哀しげに私の間違いを否定する。発音いいのがさらにムカつくんだけど。私だってあなたのその価値観をどうにかしてあげたい。

「………いい。出かけてくる」

もはや気力も失せてしまって、背を向けた。

「出かけるって、どこへ?」

「パイを焼いたから、紫原くんにあげようと思って。このあいだもショートケーキをホール2個作っちゃって、そのときホール1個上げたらそのまんま噛り付いてね、口にいっぱいクリームつけて『めっちゃうまいし、名前ちん、また作ったら俺にちょうだい?』なんて首傾げて言うんだよ。大きな妖精さんだよ。食べるところ見てたら私までホールケーキに噛り付いてみたくなっちゃったけど、流石にそれはキツイじゃない?そしたら、俺のでやっていいよって言うからかじってきた。けっこう大きいんだね、アレ。顎が外れるかと思ったよ。………って辰也?」

いつもなら私の話に絶えず合いの手を入れてくるアメリカンな辰也が終始黙りこくっているなんておかしい。
準備の手を止めて振り向こうとしたちょうどその時、視界が真っ暗になった。
一瞬たって、後ろから辰也に目隠しされているのだと気づいた。

「Guess who?」
「えっ、なに。とりあえず手をどけて」

英語が苦手な私には何を話されているか分からないし、耳元で話されると息がかかってくすぐったいから嫌なのだ。早くやめてほしい。

「すまないが、答えてくれるまでどかすわけにはいかないな」
「その質問がわからないから答えようもないんだよ」
「簡単な質問だよ。名前が愛してるのは誰なんだって訊いてるだけ」

答えられるだろ、とじんわりプレッシャーをかけてくる。そういえば彼はなかなかに粘着質なタイプだったな、と頭の片隅で考えた。

「そんなこと、今更言わなくてもわかるでしょう。さあ、どかして」
「照れてるのか。そこも可愛いけど、ちゃんと言ってくれなくちゃわからないな。たまには確認しないと、俺以外の男にフラフラ会いに行っちゃうみたいだしね」

言葉は柔らかいが、言い方が刺々しい。これは、もしや。

「ねえ、私も訊きたいことがあるの」
「なんだい?」
「妬いてるでしょ、いま」

「それがなんだ」と開き直ろうとするも平静を装いきれてないのが声からもわかる、可愛いな。

「他の男との楽しい思い出を聞かされて笑ってられるほど、俺の心は広くない。悪いけど」

つい、少しだけ笑みが漏れてしまった。付け加えるように言った辰也が子供みたいに拗ねているのが目に見えてしまって。

「質問に答えてあげる。だから手を離して」

辰也は黙って手をどかした。
振り向いて目を開けると急に入ってきた光が眩しすぎて、思わず目を瞑る。
今度はゆっくり目を開けて、それから目の前の男を見上げた。

「あ、ビンゴ」小さく呟いた。
案の定、いつもは17歳とは思えない色気をダダ漏れにしている辰也が、今はふくれて小学生のように不満を全面に押し出している。やっぱり正直、可愛い。

「ねえ、ダーリン?
………こうやって呼ぶのはあなただけだよ、辰也」

だから機嫌を直しておくれ、なんて戯けて言って頭を撫でる。全力で背伸びをしないと届かないからかなりきついんだけど、それは我慢。

辰也はきまり悪そうに、首を振った。艶のある黒髪がさらさら揺れる。

「はぁ、sorry。ちょっとガキみたいだった。俺ももっと大人にならないとな」
「そりゃ、私だって心の狭い人より心のひろーい人の方が好きだけど。
別に今のままでいいよ。大人になんてならなくっても、私は辰也が好き」

それに子どもっぽい辰也が見られるなんて、ある意味ラッキーだもの。彼女の特権だ。

辰也は耳元に唇を寄せて「Thank you,honey.」と囁くと、そのまま頬にキスをした。
だからハニーって、と言おうとした言葉を飲み込んだ。多分これは治らないだろうから、諦めよう。条件は出すけどね。

「ねぇ、ダーリン。ハニーって呼んでもいいけど、どうせならずっとそう呼んでね。しわくちゃのおばあちゃんになってもだよ」
「もちろん。それまで離れる気はないよ」

それからお互い目を見て、笑った。
「プロポーズは俺からしようと思ってたんだけど」と言う辰也に「今のはカウントしないでよ。まだ待つからね」と返した。

いつになるかはわからない。
けど、その日は必ずやってくると信じてるから。なるべく早くお願いね、ダーリン。