tear drop


顔を下に向けると、こめかみから首筋にツゥと汗が伝った。五月の日差しは真夏のそれほど強くはないけれど、しかしじりじりと追い詰めるように水分を奪い取ってゆく。


疲れないから障害走を選んだ。でも今はそれを後悔している。

自分の手にあるカード、そこに書かれている言葉を見てよぎった顔に、瞬時によりにもよってそのひとを思い浮かべてしまった自分に、絶望した。


「国見ちゃーーん!」

聞き慣れた声がする。たくさんの声援の中から、その声は確かに俺の耳に届いた。振り向いて応援席を見れば、先輩が興奮した様子で前に乗り出している。


「国見ちゃん、お題なに出た?!うちにはホラ、なんでも勢ぞろいしてるけど!」
「名前さん、来てください」
「え。わ、わたしなの?」
「あなたじゃなくちゃ、嫌です」



目を丸くした名前さんの手を有無を言わさず取って走る。
徐々に加速させて、前にいたやつを二、三人抜かした。無心で背中を追いかける。

汗ばんだ手を強く握り合りあっているせいで、お互いの汗が混ざり合っている。唯一繋がった右手の感触だけ、やけに強く感じていた。


あと一歩、いや二歩ぶんか。それくらいの僅差だった。目の前でゴールテープが切られる。結果は二着。
やっぱり、と思ってしまう自分が今ばかりは少し情けない。




「おつかれさま」
惜しかったね。笑って小突いてくる名前さんに軽く頭を下げた。

「スミマセン、急に引っ張ってって」
「いいよいいよーわたしも楽しかったし」

でもお題がなんだったのかは気になるなぁ、なんてわざとらしく言ってちらりと視線を寄越す。繋いでいた手を離した。

「女の先輩、ですよ」
「ふーん。ふふっ」
「…なんです」
「べっつにー」

口元が緩みきった笑顔で見つめられて、すこし焦って顔を背けた。

そらした視線の先に、あの人の姿が見えて、俺が声を発するより先に先輩が動いていた。髪が風に揺れて、鼻腔を甘い香りがかすめた。目を閉じた瞬間、ふわりと#マナ#さんの空気に包まれる。目を開ければ、すべては夢の霧に消えた。

「徹やーい。次なに出るの?」
「岩ちゃんと二人三脚ー。名前は俺を応援してくれるよね?」
「岩ちゃん応援する」
「ヒドッ。名前の彼氏は俺なのに」
「あはは、まあがんばりたまえよ」

日差しを受けて、髪も肌も瞳も、笑顔も、すべてがきらめいて見えた。

決して、立ち入ることのできない、その空間。

一瞬目があった及川さんに、軽く会釈をしてから背を向けた。




しばらく歩いて、誰もいない校舎裏の日影に座り込んだ。深く息を吸って、ゆっくりと吐く。右手はまだ汗ばんでいて気持ちが悪い。

「…あーあ。言えるわけないじゃないですか、ね」



お題は"好きな人"です、だなんて。
言えるわけがない。他の男の女に向かって。

本当は、適当な女子を連れて行って、ちょっとジュースでも奢って見逃してもらおうと思っていた。

それなのに、その文字を見た瞬間に思い浮かんでしまったのはあなたの姿で。掻き消そうとしても、無駄に性能の良い耳はあなたの声だけを拾ってしまった。


認めるつもりなんてなかったのに。そんないらないものは萌芽のうちに摘み取って、すべてなかったことにしたはずなのに。

「好きです」

ぽろりと口から零れた言葉が、余計に敗北を実感させた。それでも、コップの水が溢れ出すように、次々と言葉が零れてくる。

「好きです、好きです、愛しています。俺なら、きっと、及川さんより」

誰より、あなたを幸せにします。
なんて、叶えられもしないことは言えない。
最後の言葉は、嗚咽で途切れた。

誰にも、届くことのない本当の心の欠片は、校舎の影に溶けて消える。塩辛い、涙と共に。