ロスト ワールド


特別塔4階の奥にある、西向きの図書室は蜂蜜を流し込んだようなとろける金色に染まっていた。
たまに、女子高校生特有の高い声や、おばさま方の大きな笑い声が聞こえては、また遠くへ消えていく。それ以外は、特に何も聞こえない。聞こえるとすれば、私の呼吸と本のページをめくる乾いた音だけだ。

司書の先生は、半額以下になった焼きそばを買い求めて出て行った。だから、いまはここに誰もいない。ひとりきりだ。それでも、構わない。
夕陽に反射して、無数の埃がきらきらと宙を舞う。
ここには、幾千という数の本がある。だから、寂しくなんてない。
昔から、私の友達といえば本だけだった。
彼らは、決して私を裏切らないし、いろいろなことを教えてくれる。どきどきはらはらするような冒険に挑む勇者にも、華麗に事件を解決する名探偵にも、帰りに友達と買い食いをして帰ったりする女子高校生にも、なんにでもなれる。私は、物語の中で経験する様々なことに満足していたし、それで十分だと思っていた。




そう思っていたのに、ある日静かで素晴らしい私の世界に侵入者が現れた。土足で踏み込んできてまくしたてるように一方的に話し、時が来ると未練もなくさっさと帰って行ってしまう。そんなはた迷惑な侵入者だ。
侵入者は、私の世界に穴をあけた。
その穴は彼が侵入してくるたびにだんだんと広がっていき、私の世界には冷たい風が吹き荒れるようになってしまった。野原は枯れ、建物は倒壊し、常に砂埃が舞っている、そんな荒廃した世界になってしまった。
当然のことながら、私は彼がだいきらいだった。








ドアの音が、静寂を破った。
ぺたぺたとスリッパをだらしなく鳴らして、男子生徒が歩いてくる。私は無視して、読書を続けた。やがて古びた革張りのソファーで本を読む私の存在に気がついたようで、「あっ」とちいさな声を漏らした。それから、黙ってまっすぐこちらに近寄ってくると、私の隣に勢いよく座った。ぶわりとソファーから埃が噴き出して、宙をくるくる漂う。

「なに、お前。ここで1日過ごしてたの」
「花巻は、なぜこんなところにいるんです?お友達なら、たくさんいるでしょう」
「そりゃあまあ、いますけどね。こんな時間まで及川にこき使われてたから、探すのも面倒で」

舌打ちをして、ソファーに沈み込んだ。彼の名は花巻、侵入者である。


私は「へえ、そうでしたか」と相槌を打ってまた読書に没頭する、ふりをした。
花巻が、横目で私を観察しているのがわかる。ふうっと彼は息を吐くと、私の肩に頭を乗せてきた。固まる私の手から本を奪い取り、興味なさげな様子でぺらぺらめくってすぐに本を閉じる。彼からソースのかおりが漂ってきて、私は彼のクラスが焼きそばを売っていたことを思い出す。
花巻はずるずると肩から落ちてきて、無事私の太ももに頭を着地させた。もうなにがなんだかわからない。彼は手を伸ばして、おそらくまっかになっている私の頬に手を添えた。あたたかい。

「あぁ、いーい眺め」

私は、彼がきらいだ。

「ここなら、あんたがいるんじゃないかなと思って」

だから来た。そう言って得意げに微笑む、彼がきらいだ。

「私、中途半端はきらいです」

私は彼にはじめて意見した。

「どうせ離れるなら、最初から優しくなんかしないで。私に構わないで。優しくするなら、もうずっと離れないで。そばにいて」

彼に侵入されてからというもの、私の世界は平穏とはほど遠いものとなってしまった。
彼に話しかけられれば、心は浮きたつ。
彼が去れば、心がざらざらになって、落ち着かなくなる。
彼の一挙一動に私は踊らされ、私の視線は彼に釘づけにされたままで、ちっとも思い通りにいかなくて、もどかしくて。
彼が私の世界にあけた穴からは、さみしさだとか、恋しさだとか、切なさだとか、嬉しさだとか、私の知らないものがたくさん吹き込んできたから。
私は、私の世界を手放して、彼のもとへ行きたくなってしまったのだ。



決意を含んだ私の言葉に、花巻は満足そうに笑った。そうして上体を起こして、鳥がついばむようなキスを私にした。

「俺ね、じつは1年のころからずっとお前が好きだったの。知ってた?」
「…知らない」
「そうだろうね、あんたってば本ばっかり読んでるし、ぜんぜん殻から出てこようとしないんだもん」

かるく頭突きをされる。額と額を触れあわせたまま、彼はかみしめるようにして言った。

「やっと、引きずり出せた」


ざらざらと、私の世界が崩れ落ちていく。私はそれに未練も何も感じなかった。
もう、あの世界はいらない。必要ないのだ。
ふたりになれた、いまは。