エンゲージ


松川くんが首をにゅっと伸ばして部屋の中を覗く。

「どうします?」
「どうしますもなにも…。とりあえず、しばらくドアは開けたくないわね」
「俺もです」

ドアにもたれて、面倒なことになったな、と私はため息をつく。
焼きそばを買いに行くのに財布しか持って行かなかったので、スマホも読みかけの文庫本も図書室のなかにある。
しかし、うら若き男女が仲睦まじく戯れているところに三十路間近の年増が乗り込んでいく勇気などはない。

だいたい、なんで図書室なんて場所でそんなラブストーリーが展開されているのだ。そこは文化祭でも一緒に回る人がいない”孤高の人”のために開かれているスペースなんだから、リア充になったのならば即刻立ち去ってほしい。ほかの場所でなら好きなようにやってくれて構わないから。

なんだかいらいらしてきてしまった。でも、私よりも可哀想なのは松川くんだ。
半額以下に値下げされた焼きそばを10パック買い取った上客である私のために、わざわざ特別棟の4階なんて僻地にまで焼きそばを持ってきてくれた彼がなぜこんな気まずい状況に陥らなければならなかったのだろうか。神様とは人を虐めて楽しむ趣味があるに違いない。

しかし、ここで松川くんと立ち尽くしていても埒はあかない。
私は松川くんが持っているビニール袋の持ち手に人差し指を引っ掛けた。

「松川くん、ここでいいわ。わざわざこんなところまで運んでくれてありがとうね」
「いえ、売れ残り引き取ってもらったんで…」

なんだか歯切れの悪い返答だ。指を引っ掛けて催促しても、袋をしっかり握ったままで手放そうとしない。
松川くんが、じっと私を見ている。喉の奥に言葉がつっかえているような、もどかしそうな表情で。

しょうがないわね。
ふぅっ、とため息を吐く。ちょっぴり面倒臭い、でも、可愛い青さに乗っかってあげるのも悪くない。

「松川くん、良かったら外階段で一緒に焼きそば食べない?」

1パックまるっとあげちゃうわよ。片目をつぶって見せれば、彼は戸惑いの中に安堵の見える顔で頷いた。
わかりやすい子は、可愛くて好きだ。






重い扉を開けば、目に飛び込んでくるオレンジ。時刻は午後4時27分。あと3分で、今年の青城祭は終演を迎える。

「どう?いいでしょう、ここ。私のお気に入りスポットなの」

風に舞い上がってぶわりと広がった髪を抑えながら、彼に笑いかける。松川くんは「そうっすね」と気のない様子で答えた。

コンクリートの階段に腰掛ける。松川くんもちょっと間をあけて座った。
私は、首をぐっとあげて空を仰いだ。橙に染まる、広い空。

「先生」
「んー、なあ」

に、と続くはずの言葉は唇で塞がれた。
ゆっくりと松川くんの顔が離れていく。私は、唇の端を意識的に吊り上げて「ずいぶん唐突ね」と言った。

「そう言うわりには、全然驚いてないですよね」
「松川くんが私を好きなことくらい、気づいてたもの。伊達に歳食ってるわけじゃないのよ」
「気づいてて、二人きりになったんですか?」
「そうよ」

平然と言ってのけた私に松川くんは呆れ顏だ。

「意地の悪い人ですね」
「あら、知らなかった?」
「いいえ。知ってて好きになりました」

そう言ってまた唇を重ねる。さっきよりもながく、深く。
目を開けてまず「君はなかなかに生意気ね」と皮肉っぽく言ってやる。

「じゃあ生意気ついでにききます」

コンクリートに投げ出されていた私の左手を、松川くんは繊細な硝子細工に触れるかのように丁寧に手に取った。そして左手の薬指――そこに嵌る指輪に、口づける。

「婚約相手は、どんなひとですか」
「んー、そうね。ちょっぴりふくよかで、おぐしが寂しい感じだけど、優しくてお金持ち。そこそこ上手くいってる会社の社長なの」
「その人のことを、愛してますか」

“愛してる”だなんて、そんな台詞を恐れずに口に出せる彼は、やはり若い。あらためてそう思う。

「愛してるかはわからないわ。でも、多分好きよ。私に優しくしてくれるから」
「俺でも、愛してくれますか」

時間が、止まっているように感じる。
長い、ながい、沈黙。私たちはまっすぐ相手だけを見つめていた。松川くんの黒く濡れた瞳に、私の顔が映り込んでいる。

「…さあ、ね。どうかしら?可能性はゼロじゃないよ」
「それならば、待っていてください。きっと攫いに行きます」

松川くんは節くれだった男の子っぽい指で、冷たく光る婚約指輪を撫でた。慈しむような、惜しんでいるような手つきだ。

「先生が数ヶ月後に嵌めているであろう結婚指輪は、数年経ったときに捨てることになります」
「そのときは、代わりに今までよりも上等な指輪を用意してね」
「もちろんです」
「ふふ、楽しみ」

二人で、くすくす笑いあった。秘密を共有した、少しの興奮と不安を胸いっぱいに抱え込んで。
あまりに子供っぽい口約束。だが、信じてみるのも、きっと楽しい。
いつか訪れるかもしれない、そのときに私は何をしているだろう。少なくとも、今よりオバさんになってるはずだ。子供もいるかもしれない。それでも、彼は愛してくれるだろうか。
今はただ、二人で笑おう。
オレンジの空に、いつの間にか藍色が混じっていた。遠くで瞬いたのは、きっと。