二限目



いま、オレは走っている。


人ごみのなかを、みっともなく汗を浮かべながら、必死こいて走っている。

キャンプファイヤーが始まった。遠くから歓声が聞こえる。

夕日が傾いて、空が徐々に藍色に染まっていく。遠くに一番星がちらりと見えた。

でも、まだ間に合うはずだ。
あの人のところまで、もうあと三分。



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少し息を整えてから、面談室の扉を開けた。

からっぽの空間に、名前さんはいた。

事務机と、パイプ椅子。それしかない。名前さんは机にちょこんと腰掛けて脚をゆぅらりゆぅらり、眠たくなるようなリズムで揺らしている。



白い壁にキャンプファイヤーの炎が反射して、赤くなっていた。名前さんのシルエットも、淡いオレンジで縁取られている。


バタンと意図的に大きな音を立ててドアを閉めると、名前さんはやっとオレの存在に気がついた。


「あら、見つかっちゃった」

こちらに顔を向けて、悪戯がばれた子供みたいにクスクス笑う。


この人の、こういうところが本当にずるいと思う。
無邪気で甘ったるい、もはや小さな毒みたいな秘密を匂わせるこの笑顔が、一番苦手だ。


「何してたんですか、こんなところで」
「キャンプファイヤーを見てたのよ。私は踊るのが下手だから、いつもここで眺めてるの」
「高校最後の後夜祭に、ひとりぼっちですか」
「いいのよそれで!でも今年は違うわ。国見ちゃんに見つかっちゃったもの」

名前さんが、わざとらしく拗ねたふりをする。

「お詫びに、ダンスのお相手にでもなりましょうか」

名前さんの右手を取って、床に下ろす。そのまま左手も取って、ステップを踏んだ。

「ち、ちょっと待って!私は踊れないんだって」
「踊れますよ。社交ダンスってのは男のリードに任せてれば踊れるもんなんです」

主導権は握った。名前さんは焦りながらも、なんとかリードに合わせてぎこちなく踊っている。
やっぱり、可愛い。





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「名前さんが好きか」と問うと、及川さんはあっさりと「好きだよ。とっても」と答えた。あっけらかんとした様子に面食らった。

「好きなのに、オレにアドバイスなんかしちゃっていいんですか?」
「別にいいよ」


おそらく、その日一番の笑顔で及川さんは言った。


オレは、見返りなんてそんなもの要らないから。ただ、名前ちゃんのことを好きで、見守っているだけでいいんだ。

オレのこの感情は"恋"じゃないよ。
でも、世界で一番の尊い愛だ。そう思わない?



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曲が終わった。

慣れないことをしたからだろうか、名前さんの息がほんの少し上がっている。

ふうっと深呼吸をすると、名前さんはオレの顔を覗き込んだ。キラッキラした瞳で。

「楽しかった!ダンスって、踊れると楽しいものなのね。ありがとう、国見ちゃん」

満面の笑みで、見つめられる。
手は、握ったまま。あと数センチで、身体が触れる距離。

ああ、たまったもんじゃない。


「名前さん、ダンス以外でも教えたいことがあるんです」
「次は何をするの?」

口の中が渇いている。心臓がいままでにない速さでビートを刻んでいる。いまにも飛び出しそうだ。

「恋をしましょう。オレと、あなたで」

舌がもつれそうになる。
でも、なんとか伝えなければ。

事態が把握できていないのだろう。赤子みたいな瞳を見つめて告げる。

「名前さんが好きです」