あの丘に悠久を置いてきた


遠くから聞こえる誰かの話し声で目が覚めた。まだぼんやりとしている意識のなか窓の方を見ると、カーテンが風に揺れ部屋の中に少しだけ光が差し込んできていた。光と共に部屋に入って来る風も暑すぎず寒すぎず。今日は丁度よく過ごせる日だと感じた。
図鑑所有者。そんな肩書きを貰えるこんなにも素敵な日の朝、俺はというと___



「本当に!本当にすみません!まったくあの子ったら…。」
「いえ、いいですよ。僕もウツギ博士も気にしませんって。」


完全に寝坊していた。
目が覚めたのがつい先ほど。時計を見て短い針がもうすぐ10の文字を指しそうになっているのを確認した。確か昨日お母さんに言われていた時間は9時…何分までは覚えていないがこれは非常にまずい。やばい怒られると頭の中に警告音が鳴り響く。着替えながら階段を下りていくとお母さんの焦った声と大人の男にしては少し高めの声が聞こえた。うーん誰だっけ、聞き覚えはあるんだけれど。遅れたこととお母さんを謝らせてしまったことに対する気まずさから物音を立てずに声がする玄関の方へ少しずつそろしそろりと足を進めて行く。
すると玄関の方からおーいと声をかけられた。声的にこれは訪問してきた人…のはずだけれど。「下りてきたんでしょう?分かってるから早くおいで。」ギギギとブリキのおもちゃを無理やり動かすようなぎこちなさで顔を出して玄関の方を見る。そこにあったのは普段見慣れない、しかし見覚えのある紫色の髪をした大人で__。


「ネープルくんおいで。怒っている人なんて誰もいないから。」
「つ、ツクシさん!」


そう言って笑顔を浮かべて俺を手招きしてるのは、ウツギ博士のポケモン研究所で助手として働いているツクシさんだった。ツクシさんはお父さんの昔からの知り合いらしく、何気に世話になっている…らしい。元はジムリーダーだったとお父さんは言っていたけれど、あいにく俺は研究者としてのツクシさんしか知らない。強かったのかな、戦うところ見てみたいな。
お久しぶりですと挨拶をしているととがさりと植物をかき分けて歩くような音がかすかに聞こえた。その音はどんどんこの家に近づいてくる。お母さんもツクシさんも話に夢中なのかこの音に気づいていない。一体誰なのだろうとすこし不安になっていると件の人物がみんながいるこの玄関に堂々と姿を現したのだった。
「間に合った…か?」
息を荒くしてそう言う黒髪の人物。そう、俺のお父さんが家に返ってきたのだった。おはよーさんと少し気だるげに声をかけてくるお父さんに対ししっかりしなさいと呆れたようにお母さんが返す。だらしない父親に見えるかもしれないけれどこれでも昔はこのジョウトを救ったとされる図鑑所有者の一人なのだ。
…でも間に合ったって何に?
そんな謎の言葉を言ったお父さんは、俺たちの近くに来るとツクシさんに向かって「よっ」と軽い雰囲気で話しかけた。


「久々、ツクシ博士。遺跡調査とアンノーンの研究は進んでるか?」
「あまり進歩はないなあ…って、僕はまだ助手なんだけどね!まあきみにそういわれると悪い気はしないから、きみだけは博士って呼び続けてもいいんだよ?」
「調子乗る奴〜。つかゴロウは?あいつが来ると思ってた。」
「ああ、ゴロウくんなら昨日丁度ホウエンに__」


にこやかに会話をする二人。ツクシさんとお父さんの立ち話が始まってしまった。本当にこの父親は何のためにここに来たのだろう。俺の見送りのためとかだったら嬉しいけれどツクシさんと話すためとか言ったら泣くぞ。泣かないけれど。
少しの間そう考えていると誰かに右肩をトントンと叩かれた。ツクシさんでもないし両親でもない存在。少し不気味に思いながら誰だろうと視線を横にずらすと、この辺りではまず見ることのない真っ赤な髪の毛が目に入った。それは俺の名前を呼ぶと少し間を置いてから久しぶりと言った。懐かしい声。何ら変わりのないそれに少し安心し、俺も言葉を返す。


「ベリー久しぶり。…え、さっきまでどこいたの?」
「……ツクシさんの後ろ。ワカバ久しぶりだから、ネープル待ってるときに知らない人に会うの、嫌だったから、隠れてた。」


そう言って俺の服の裾をぎゅっと掴むのは幼馴染のベリー。こいつは恥ずかしがりやの人見知りで、昔から初めての場所に行くときや初対面の人間に会う時はこうして俺にべったりくっ付いて離れなかった。
べリーと会うのは丁度1年ぶりだ。1年前に会った時には『お父さんみたいなジムリーダーになる』と自信満々に宣言していたから対人への対応の仕方が少しくらい良くなっているだろうかと思ったんだが…。
成長、してねえなあ。
何故だか無性に虚しくなってきた。俺の気が少し抜けたようになるにつれ、ベリーが俺を掴む力を強めていくのを感じた。最初は服の裾程度だったものがいつの間にか片腕にしがみつくようになっていた。「ベリー、ちょっと動きづらいんだけど」困った顔をして言うとベリーも困ったような顔をして「だってぇ…」と対抗してきた。だってじゃなくてさと言うとしぶしぶといった様子でベリーは俺の片腕を解放してくれた。一応ありがとうと声をかけると小さな声で相槌を打たれた。こいつは案外素直だ。

「ネープルくんはベリーちゃんの信頼を得ているんだね。」

俺たちのこのやり取りを見ていたのであろうツクシさんは微笑みながらそう言った。ここに来るまで一言も話さなかったし隠れてたから僕嫌われているのかと思ったよとツクシさんが話したので首を大きく横に振って否定した。違いますこいつはただの人見知りです。信頼というよりも、俺はもはや家族みたいなものなので互いに遠慮も距離感もないだけなのです。
俺の微妙な表情を見たツクシさんは苦笑しながらそうなんだと相槌を打った。それから俺たちに向き直り、両手を広げ、まるで歓迎しているかのようなポーズをとった。

「おいでネープルくん、ベリーちゃん。先にウツギ博士ともう一人の子がポケモンと図鑑を持って待ってるよ。」
「いってらっしゃいネープル、ベリーちゃん。危険はないだろうけれど気を付けるのよ。」
「行ってこい。いい相棒貰ってこいよ!」

「…うん!」

ツクシさんが俺たちにそう言うとその言葉に続いてお父さんとお母さんも俺たちに声をかけてきた。
お父さんとお母さんに行ってきますと言い、背を向けて二人が待っているところへ足を進める。ツクシさんは俺たちを先導するようにゆっくり歩み始めた。俺もベリーもその背中を見て足を踏み出す。

ワカバタウン、それは始まりを告げる風が吹く町。…なんて言われているけれど地元民の俺からすればそんなものただの風だ。何も変わりはしない。どうせこの言葉も詩人気取りのどこかの誰かが心情に訴えかけるるためだけに勝手に名付けたに違いない。
そう思っていたのは昨日までの俺。
こうして新たな一歩を踏み出してみてからその言葉のことを考えてみると、中々に洒落ていて、そして胸に刺さるものだと感じた。立ち止りふと家の方を振り返って見た瞬間に丁度良くいい風が吹いて来たので笑ってしまった。タイミング良すぎだろ。あの言葉通りかよと。
こうして自分の家を改めて見る。どんどん遠ざかる家、まだ玄関前に立って俺たちを見守っている両親。なんだか心に沁み込んでくる様な何かを感じて少し胸が苦しくなった。
そうだ、もう『ただの子供の俺』は終わり。今日からは『図鑑所有者として認められた子供』という目で見られるのだ。


「__行ってきます。」


近くにいるツクシさんやベリーにも、誰にも聞こえないくらいの声でもう一度そう呟く。行ってきます。帰って来てもすぐに何か変わることはないだろうけれど、これから今までの俺より少しずつ大人になっていければいいな。
そう思ってから、少し前を歩いている二人に追いつくために駆け出して行った。
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