遠くで誰かの悲鳴が聞こえた。
声がした方向に向かって走る。見えたものは何かに向かって勢いよく飛んで行くスピアー。先ほどの悲鳴と今見えたそれから推測するにあのスピアーが向かう先にあの悲鳴の主がいるのだろう。このまま俺が放っておけば声の主はトキワの森にいるにしてはやけに強いスピアーに刺されてご臨終、といったところだろうか。
寝覚めが悪いに決まっているだろう、そんな結末。
俺が今立っている場所からスピアーが向かうであろう先は距離が開いており、ボーマンダのりゅうのいぶきやかえんほうしゃ程度のわざでは助けるのに間に合わないと判断した。生半可な威力、そして中途半端な速さではいけない。ならばこいつを出すしかない。
相棒をボールの中から出しスピアーを倒すためのわざを指示する。本来ならばここで出すべきポケモンではないしこんな場所で使うべきわざではないのだが、わざの威力と距離その他諸々を考えると全てに該当するのがお前しかいない。それに軽く周囲を確認しても今ここに俺以外に人間はいない。ということは堂々とこいつを使えるというわけだ。
圧縮された高密度のエネルギーがスピアーへと一直線に放たれる。が、直撃する寸でのところで気が付きわざを避けたのだろう。わざの影響で発生した土煙が消えた後に見えたものはよろめくような足取りで森の奥の方へと逃げていくスピアーだった。直撃していたら瀕死だっただろう。よく気が付いたとスピアーを褒めるべきか、それとも命中させることができなかった自分の指示の甘さに怒るべきか。まあそんなことはどうだっていい。悲鳴の主にとっての脅威は消えたのだから。
一応声の主が無事なのか確認するために足を進める。小さな子供だったらトキワシティまで連れてってやるかと考えていたがそこにいたのは俺が想像しているような小さい子供ではなく、俺と同年代もしくは何歳か年下だろうと思われる年代の人間だった。
「アルゴ、さん…?」
震える声で俺の名前を呼んだ赤髪の女。最初はここらに住んでいる人物なのかと思っていたが、そいつの周りに散乱している荷物を見るにこいつは…図鑑所有者なのだろう。ポケモン図鑑はまだジョウト地方のものしか配布されていないと聞いた。つまりそこに落ちているポケモン図鑑の持ち主であろうこいつは必然的にジョウト在住の者。例外を除けば1地方につき3人の図鑑所有者という話を聞いたことがある。俺とあのいけ好かないガキ、そしてこいつか。なるほどこいつも先日あの場所に__。
…いや待てよこんな女いたか?
しかし俺の名前を知る奴なぞこの地方には図鑑を貰う日に会った面々とグリーン博士、そしてあの土地の人間しかいない。顔には出さないが内心この女を思い出せないということにとても焦っている。そう言えばホウエンにいた時あいつが女の子がどうとか言っていたような気がするが、こいつのことか?そうか、知らんな。
「誰だお前。」
「酷い!」
知ったかぶりをしていてもどうせいつか明るみになるだろう。ならば素直に言ってしまえばいいわけだ。「チョウジのベリーです…。一応ジョウトの図鑑所有者であの場にもいたんだけど…」覚えてないよね、と暗い雰囲気を背景にそう言う女に素直にああと相槌を打つ。更に肩を落とすが、まあ…仕方がないのではないか?俺が悪いのは分かっているが。
一応この女の全身を軽く見て確認したが外傷のようなものは見当たらなかった。もしかしたらすでにスピアーに攻撃されていたりだとか俺の相棒が出したわざがかすったりしていないかと考えていたのだが、本当に何もなく無事なようで安心した。それなら俺がこれ以上こいつと一緒にいる意味もない。じゃあなと言い俺はこの女の前から去ろうとトキワシティの方へと足を向けた。
……………
ザクザクと地面とそこらに落ちている葉っぱや枯れ木を踏んで歩く音が二つトキワの森に響く。物音やポケモンの声が聞こえないのは先程のスピアー騒動のせいだろうか。しかしどれだけ考察を重ねたしたとしても、人間であり、尚且つこのトキワに由来する力を持っていない私は気づくことのできないものなのだろう。
私は今、アルゴさんの後を付いて歩いている。
何故、と言われても私自身も付いて行っている理由が分からない。勿論帰り道は分かる。足も挫いているわけではないしどこも痛くもない。だというのにアルゴさんが去って行ってしまう時に何故だか声にしてしまったのだ。『待って』と。
自分の行動を悔やむことは多いけれどここまで悔やんだことはない。だって今この瞬間本当に逃げ出したい気持ちでいっぱいなのだから。言葉を投げかけて会話を試みようとしても一言二言しか返してくれない。
「アルゴく…さんは何でトキワにいるんですか?ホウエンに行ったんじゃ…。」
「ホウエンの用事は終わった、だから次はトキワの用事を終わらせに来た。それだけだ。」
そうなんですかと相槌を打つがそこで会話はお終い。そして始まる無言の時間。もう話題がないよ無言になるしかないよ。でも無言も怖いよ。
どうしようという焦りと緊張感で頭がいっぱいいっぱいだ。アルゴさんからおいと声をかけられたが私はきちんと返事ができただろうか。失礼な態度をとっていないだろうか。先ほどの出来事のせいだろうか、何だか頭も体もふわふわしていてよく分からない。
「うざい。」
「えっ」
投げかけられた言葉が衝撃的すぎて動揺が声に出てしまった。互いの視線がかち合う。アルゴさんって珍しい色の目をしているんだな、同じ水色系でもネープルとは違うんだな、なんてそんなことは今関係ない。
うざい、って何だっけ。鬱陶しいってこと?うるさい話すなその口縫い付けてやろうかってこと?
頭が真っ白になりながらアルゴさんをじっと見つめると「お前が俺の名前を呼ぶ時に必ずと言っていいほど詰まるだろう。」と彼は言った。声が詰まる?もしかしたらそう、なのかもしれない。言っている本人が全然そんなこと気づいてなかったのだけれど、緊張と恐怖でそうなっていたのだろう。気分を悪くさせただろうか。どうしよう怒られるかな、とりあえず謝ろう。怖いけれど。
「ごめんなさいアルゴ、さん…。」
頭を下げて謝るが、返事の代わりに聞こえてきたのは小さなため息だった。
呆れた?怒ってる?気分悪くさせたかな。何にせよ怖いことに変わりはない。おいと声をかけられたので恐る恐る顔を上げる。初めて会った日のアルゴさんとネープルの口喧嘩は今も鮮明に思い出せる。あの時の冷たくて鋭い目で見られたらどうしよう。怖いな、嫌だな。
少し身構えながらアルゴさんを見るが、彼は怒りや嫌悪の表情を浮かべてはおらず、手持ちのポケモンをボールの中に戻した時と同じ少し気だるげそうな、けれどもどこか少しだけその時とは違うような表情で私を見ているだけだった。「人の話は最後まで聞け。また詰まってんぞ。」先程より、というより出会ってから初めて聞いた少し砕けたような声色でそう話す彼はなんだか少し別人に見えた。
「無理をするくらいなら『さん』なんて敬称をつけるのを止めろ。お前が呼びやすい呼び方で呼べばいいだろう。」
アルゴさんはそう言うとまた前を向いて歩き始めた。
思いがけない言葉に思わず固まってしまう。どうしたと問われたけど私は動きが鈍くなったロボットのように横に首を振ることしかできなかった。
…驚いた。だってそんな、私のことを気遣ってくれるなんて思っていなかったのだから。だって同じ図鑑所有者仲間だけれど、私は数分前の彼にとっては認識すらされていないただの通行人A程度の人間だったわけで、彼にとって私は特別気に掛けるほどの存在ではなかったのだ。だというのにこんな、こんな細かくてどうでもいいと思われるところに気づいてくれて。
その言葉は私が一方的に話しかけていたあの数分が無駄で邪魔な時間ではなかったということの証明にもなるわけで。
「……アルゴくん。」
「何だ。」
「いやっあの、呼んでみただけ、です…。」
呼びやすい呼び方、と言われたので遠慮なく名前で呼ばせてもらった。でも年上なのにいきなり名前呼びだなんて馴れ馴れしかったかなと言葉にした後すぐ不安を感じ、咄嗟に下を向いてしまった。これも失礼な態度になるのだろうか。ああ私はいつも選択肢を間違える。
そう思っていると頭上から顔上げろとアルゴさんから声をかけられたので素直に顔を上げる。すると待っていたのは一瞬の痛み。おでこに走ったそれに驚いて目を大きくしていると、「だから人の話は最後まで聞けと言ったろう。」とアルゴさんが言った。そんな彼の片手はデコピンをするための指の形をとっていた。
ああ、その指でやられたのね私は。じわじわと広がっていく痛みを感じ、それを我慢するように口を結んだ。
「………用がなくても呼びたきゃ呼べ。俺はそれで何か咎めるほど器の小さい男じゃない。」
頭をがしがしと掻きながらそう言う彼を見たら何だかじわりと目の周りが熱くなってきた。あ、泣きそう。そう自覚した途端こみ上げてくるものがあった。そこからはもう駄目だった。感情を抑えきれなかったのだ。絶対迷惑だから止めなきゃ、ありがとうって伝えるだけでいいんだよ、こらえなきゃ駄目だよ、そう何度も自分に言い聞かせた。けれども生まれてしまった涙はもう止まらない。真一文字に結んだ口もすで解かれてしまった。ぽたり、零れた涙は地面に染みを作る。
「うぇ、アルゴくん、アルゴくんありがとぉ…。」
「何故泣く…。」
頬を伝う涙をそのままにアルゴくんの服の裾を掴みながらぼろぼろと涙をこぼす。いきなり泣き出した私を見てぎょっとした表情を浮かべていたが、私が彼の言葉の返事として分からないと返すと何かが面白かったのか若干笑みを浮かべてハンカチを渡してきた。
もしかしてだけれど、優しい人なの…かもしれない。よくよく考えてみれば私が話しかけていたときも一回も無視なんてしなかったし、質問の答えも全部返してくれていた。私が怖がっていたり偏見を持っていただけで本当はいい人なのかもしれない。
ネープルは彼の優しさに気づくだろうか。第一印象はお互い最悪だと思うけれど三人で共に仲良く歩むことができないだろうか。心開くの早くないと思われるかもしれないが、私はもうアルゴくんが悪くて怖い人には見えないのだ。その証拠に、時折物哀しそうにも見える目をしてトキワの木々を見つめているのだから。酷い人や悪い人はこんな目をしない。
私はまだこの人のことを全くと言っていいほど知らないし理解もできていない。けれどこれから知っていきたいと思う。せっかく図鑑所有者という繋がりで縁を持てたのだから、普通に暮らしていたら持てない縁なのだから、分からないままで怖いからという理由で壁を作ったままというものは実に勿体ないと思うのだ。
「うえええアルゴくんのハンカチ汚しちゃったどうしよう。」
「捨てていい。」
「そんなことできないよ…。」
ずびずびと鼻をすすりながら後を付いて行く。出会った最初より緊張感も態度も軟化した私たちはトキワのもりの外を目指して歩みを進める。空から降り注ぐ木漏れ日の範囲も徐々に大きくなっていき、そろそろ森を抜けるのだろうということが分かる。
この森から出て、別れて、またどこかで再会した時、その時私たちは今日みたいに会話ができるのだろうか。あの特徴的な水色の目で射殺されることはもうないだろうけれど、少し不安なのだ。だってもう一度彼と会う時、私の隣には高確率で幼馴染がいるだろうから。
私たち三人がお互いをきちんと認識して歩み寄るまで、あと__。