残業万歳

【頼りになる先輩独歩と後輩夢主のお話】


また終電逃しそう……。

はあ、これで何日目だろう。






この会社に入社して1年と数ヶ月が経った。
あの日から、残業せずに帰った日なんて片手で数えられるくらいしかない。
何故こんなブラックな会社に入社したのか。

今更後悔しても遅いのだけれど。




だって、分かるはずないじゃないか。




入社する前に会社見学という名目で、この会社に足を踏み入れたことがあったが、その時は、人の良さそうな人達とスタイリッシュな社内が素敵で、憧れた。

私は、まんまと騙された。

いざ入社してみれば、真っ黒黒のブラックな会社だった。

私と一緒に入社した子達は、この会社のブラックさに着いていけず、早々に辞めていった。

もう同期なんて私ぐらいしか残っていないんじゃないだろうか。

私もその波に乗っとけば良かったのに、下手にお人好しな性格が祟り、やめ時を逃してしまった。

過去に1度だけ辞表を出したことがあったが、そこでこっ酷く罵られてからは、もう辞表出す勇気は出ない。

尽く要領が悪い私は、自分の仕事も残っているのに、更に上司から仕事を押し付けられ、それも請け負ってしまったせいで、今日はとても帰れそうにない。

終電に間に合わそうなんて、この仕事量じゃあ到底無理だ。





私の指に合わせて、カチャカチャと暗い社内にタイプ音が響く。

さっきまでは、まだ誰か残っていたようで、私より遥かに速いタイプ音が聞こえていた。

しかし、もう聞こえないということは、既に帰ってしまったのだろう。

残るは私だけか……。

泣きそうな気持ちになりながら、黙々と仕事を進める。

ああ、いっそ泣き喚いてしまいたい。





コツリ──とすぐ後ろで硬い床を歩く音がした。

誰もいないと思っていたから、そんな音が聞こえて、私は心臓が止まりそうになった。

恐る恐る後ろを振り向くと、そこにいたのは、予想外な人物だった。

「まだ……仕事、終わりそうにないですか?」

「かん、のんざか、先輩……?」

くっきりと隈を拵えた目元が特徴的な、観音坂独歩先輩がそこにいた。

挨拶程度しか交わしたことのない人だった為、正直、余り印象に残ってなかったが、改めて見ると大分インパクトがあるというか……随分窶れた顔をしている。

先輩は驚き固まる私のデスクを覗き込み、小さく息を吐いた。

「……仕事、手伝いますよ」

「え……?
いや、いやいやいや!
だ、大丈夫ですよ!!全然、大丈夫です!!
もう、すぐに、終わりますから!!」

思わぬ申し出に一瞬呆気に取られた。

だが、すぐに私はブンブンと手を振り、その申し出を断る。

そこは甘えて手伝って貰えばいいのに。

要領が悪い原因の1つは、そこだろう。

呆れたように、観音坂先輩は私を見る。

「はあ……終わらないだろう……それ……」

「あ、いや……」

「最近、この時間まで残ってること多いですよね……?
……あの、こんなこと、俺が言えたことじゃないけど……出来ないことは、ちゃんと断った方がいいと思う。
まあ……俺に言われたくないだろうけど……」

ごもっともです。

鋭い指摘に言葉に詰まる。

観音坂先輩は、渋い顔をしているであろう私の手元から書類を取り上げ、それに軽く目を通すと、少し離れた自分のデスクに戻ってしまった。

その背中を呆然と眺めて、猛烈に申し訳ないという気持ちに囚われる。

しかし、有無を言わさない雰囲気を漂わせている先輩を見ていると、そうしている時間が勿体ないと思い直し、デスクに向き直る。

大分減った書類の束を目に移すと、湧き上がるやる気。

よし、やるか。

ありがとうございます、観音坂先輩──。





・・・────結局、終電は逃した。

観音坂先輩も道連れに。

「ほんっと、すみません!!!
私の仕事を手伝って貰ったばっかりに……っ!!!!」

土下座する勢いで謝り倒す私に、苦笑する先輩。

「いいって。
俺が自分から手伝うって言ったんだし。
気にしないで下さい」

本当申し訳ない。

帰るにしたって、タクシー代も馬鹿にならないのに……。

「あ、あの、タクシー代だけでも、出させて下さいっ!!!」

財布を取り出し、適当に万札を取り出す私に、慌てふためく先輩。

「いや、ホントいいって!!
いらない、いらないから!!」

「でもっ……!!」

まだしつこく謝り倒す私を遮るかのように、先輩は言った。

「じゃあ、約束してくれ」

先輩は、スっと小指を私の目の前に差し出した。

「ちゃんと、出来ないことは出来ないと断ること」

唖然とする私に、先輩は目元を緩ませ、薄く微笑みを浮かべてみせた。

「ほら……出来るだろ?」

「先輩……」

初めて見た先輩の笑みは、凄く、綺麗だった。

「約束、な?」

不思議と、自然に出る小指。




「──はい、約束、です」




────それから、

「約束」した日からものの数日で、先輩と居たいが為に、自分から仕事を貰って終電間近まで残業する私に、先輩が困り果て振り回されてしまうのは、また別の話。