「俺が浅田の教育担当に?」
部長から面談室に呼び出され、開口一番後輩の成長を褒められたと思ったら、次に伝えられたのはそんな内容だった。
「そう。苗字くんをバッチリ育ててくれた卯木くんの手腕を見込んで、次は浅田くんを頼むよ」
浅田は千景の一つ年下で、去年、海外法人部二課から一課へと転属になった。上昇志向の強い男で、瀧同様に一課への異動を自ら願って来たのだが、一課では思うように結果が出せずにいる。
同じ課とは言え、欧州を周る千景と東南アジアを担当する浅田はあまり関わることがない……と言うより、千景から関わりを避けていた。浅田が一課に来る折に教育担当を任されそうになったのを躱し、飲み会の席でも隣にならないように努めた。がさつで、うっとうしい人間は好きじゃない。もしも彼が、例えば努力家であったなら、多少は印象も変わっただろうが。
「平尾くんと浅田くんの希望もあってね。頼めるかな」
頼めるかな、というのは質問ではなく、指示だった。部長はニコニコと曇りなく笑っているが、千景は全く笑えない。
平尾というのは浅田の教育担当で、千景より七つ年上である。年齢より老けて見えるのを浅田にしょっちゅう揶揄われているが、平尾は大変寛容な男だった。何を言われても軽快に笑っていた。
千景が入社した頃から東南アジア地域の担当で、仕事ぶりは可もなく不可もない。後輩の教育は苦手なようで、最近は浅田共々不調が続いている。
「苗字を平尾さんに着かせるということですか?」
「そう。東南アジアはまだまだ開拓の余地がある。苗字くんにバンバン決めてもらいたいね」
部下たちの前では笑顔を絶やさない部長も、真顔になる瞬間がある。東南アジア地域の売上について、役員会で質問攻めにあっている時だ。その時ばかりは小太りな体を出来る限り縮める。
担当地域や教育者をころころ変えることを部長自身は好んでいない。一年や二年で花開く者ばかりではないので、熟すのを待ってやりたいと思う。しかしもう、上から、待ったなしとのお達しがあったのだ。
「卯木くんと苗字くんのコンビは素晴らしかった。欧州の販路拡大は目覚ましい。培った経験を部署に還元してくれ」
「……苗字のお陰で成約した案件もあります。そこは、まだ苗字を残しても構いませんか?」
「ああ、そうだね。すぐに全てをスイッチするのは難しいだろうし、法人の方は徐々にで頼む。ただ、教育担当は来週から変わってくれ」
「来週、ですか」
「急に、悪いね。苗字くんにはこれから話すから、呼んできてくれるかい?」
「……わかりました」
デスクに戻り、名前に、面談室に行くよう伝える。
教育担当を変えてくれと部長に申し出た浅田が、無遠慮にこちらを見ているのが煩わしかった。
法人の方は徐々にでいいと言われたが、教育担当を来週からスイッチするとはあまりに急だ。今日は金曜日。通例では、少なくとも一年は教育担当を変えないので、千景もその心積もりだった。まあ、後輩が優秀なために、業務周りの教育計画なんてものは前倒しに前倒しを重ねていて机上で教えたいことはもう無いのだが。
次に名前を受け持つ平尾宛てに、簡単な引き継ぎ資料の作成を始める。
部長から教育担当が変わる話をされて、あいつは「はい」の一言で納得するのだろう。頑固なところもあるが、基本的には従順で合理的な奴だ。
千景は席を立って、休憩室でコーヒーを淹れた。
初めは面倒に思っていた新入社員の教育担当なんて役割を、面白く思うようになるとは。自分のことながら意外な変化だった。こんな変化を自分にもたらした苗字。あいつとは、開拓を狙っている企業がまだまだあって、向こうにどうアプローチをするか、どう切り崩していくのが良いか話は尽きなかった。自分にはない仕事への熱が、あいつの穏やかな声に滲んでいるのを聞くのは心地よかった。行こうと言ったまま行けていない美術館もある。
個人的な感情を自覚して、ため息が出た。
サラリーマンである以上、異動も担当替えも避けられないことだ。いちいち個人の感情を挟んでいられない。
美味くも不味くもないコーヒーを飲み干して、デスクに戻る。再びパソコンに向かっていると、部長との面談を終えて後輩が戻ってきた。マスクで隠せなくなった口元が少し不機嫌さを現しているように見えるのは、自分に都合のいい錯覚だろうか。
一瞬千景に何かを言おうとしたが、名前もすぐにパソコンに向かった。平尾と浅田が視線を寄越してくるのに気付いたからだ。
その日の夕方、教育担当の変更のメールが部長から課に送られたタイミングで、名前は平尾に「よろしくお願いします」と一言だけの挨拶をした。千景との初対面と同じで、覇気のない小さな声。
一方の浅田は千景の横まで来て、元気いっぱいに挨拶をする。声が大きい。どうしてこの距離で、そんな音量で喋るのだろうか。
「苗字、席替わるぞ」
「はい」
浅田に言われ、デスクの中にほとんど物を入れていない名前はパパッと片づけを済ませたが、浅田はフリーマーケットでもするのかという程大量の本やファイルを広げはじめた。
「……浅田さん。俺は空いてる会議室で仕事してるので、デスクどうぞ」
「おー」
パソコンと自分の鞄を持ち、席を立つ。空きの会議室を見つけ、名前は千景へショートメールを送った。
『今までの商談資料以外に、俺から浅田さんへの引き継ぎは何か必要ですか』
『取り敢えずは必要無い。資料も渡さなくていい』
返事はすぐに届いた。
最初に自分にさせたような課題を浅田さんにもさせるのだろうかと思い、わかりました、と返信する。
『月曜の午前中、引き継ぎの時間をとるからそのつもりで』
『はい』
『今日の夜空いてるか』
『はい』
『ロビー裏で待っててくれ』
デスクの引っ越しで騒がしい浅田を視界に入れずに、社用携帯でやり取りをする。後輩の返信が端的で、それが早々に終わってしまうと、嫌でも新しい後輩が目に入った。出張先で買ったのだろうタペストリーや置物を手に、平尾と楽し気に話している。引っ越しには時間がかかりそうだった。