出張先で会食を共にすることはあっても、サシ飲みをするのはこれが初めてだなとぼんやり思いながら、指定された場所で千景を待つ。
来週から上司が変わる。自分の受け持つエリアも変わる。急な話で驚いたが、会社員というのはこういうものなのだろうと考えて、名前は部長の話に頷いた。
ただ、思わないことがないわけではない。こんな急な配置転換……あんまりじゃないか。
「悪い。待たせた」
「いえ」
「行こう。店は何でもいいか?」
「はい」
千景に連れられて来たのは、カクテルを豊富に揃えた小綺麗な店だった。レンガ風のタイルと、明るすぎない店内。オフィス街の喧騒を忘れさせてくれるような空間。半個室の席に通される。メニューに並ぶジュースのような可愛い見た目のお酒は、名前にも飲めそうなものが多い。自分に気を遣って店選びをしてくれたのだろうかと思い、マスクを外しながら、ちらりと千景を見てみる。
「どうした?」
「いえ……飲み屋さんに詳しいんですか」
「まあ、遊び歩いてるからな」
「そうなんですか……?」
「冗談だ」
いちいちおちょくってくる人だ。最初はだいぶ反応に困ったが、誰にでもそうしているわけではないと知っている。非難の意味を込めてジロリと見ると満足そうな顔をするのは、意味がわからない。
飲みたいものを頼めと言ってもらい、日本文化の一杯目ビールを回避できたのは嬉しい。部長や課長が説くビールの美味しさが、名前にはまだちっとも分からない。ドイツ出張での会食は水のようにビールが出てくるのが苦しかった。
カクテルを頼んだ名前に千景も合わせた。すぐに届けられたファジーネーブルとマティーニで乾杯をして、二人して一杯目をすぐに飲み終える。料理は千景が適当に選んだ。辛い物、苦い物を除けば、名前は大抵の料理を美味しく味わって食べる。
「次、何飲む?」
「そうですね……マティーニは苦いですか?」
「苦くはないけど、お前には辛いんじゃないかな。マティーニにしてみる?」
「やめておきます」
試すように口の端を上げて笑う先輩に無表情を見せて、空のグラスを通路側に寄せて置く。
「甘いカクテルなら、パパゲーナはどう?」
チョコレートリキュールや生クリームを使ったカクテルだと千景に聞いて、名前は迷わずそれに決めた。
食事は美味しく、千景に勧められたパパゲーナも甘くて飲みやすい。名前はパパゲーナをいたく気に入って、グラスが空くとまた注文した。
「《恋人が女房がこのパパゲーノにひとりでもあればさぞやよかろう、しあわせだろう》
二杯目のパパゲーナを飲みながら、名前が小さい声で歌う。モーツァルト作曲の『魔笛』第二十番『恋人か女房が』だった。この曲を歌うパパゲーノと、カクテルの由来となっているパパゲーナは『魔笛』の登場人物だ。普段の名前には馴染まない陽気な曲調。
そもそも素面の名前は人前で歌うなんて絶対にしない。酔っているのは明白だった。会食でも同じくらい酒を飲んで顔を赤くすることはあったが、仕事として気を張り続けているので、ここまで気の緩んだ様を人に見せるのは初めてのことだ。紡がれるドイツ語の歌詞はふにゃふにゃと柔らかい。音程も怪しい。
その上、笑っている。
作り物でもなく、不自然なものでもなく。満面の笑みでもない。優しい色が水でもっと淡く滲むような、やさしい笑み。
千景は持っていたグラスを机に置いた。ぐ、と喉がつまるような感覚。努めて水平に保っている心に波紋が生まれる。その揺らぎを声に乗せてしまわないよう、足を組みなおし、ふう、と息をついた。
「……急に苗字の教育担当を代わることになって、俺は驚いてるし、正直、納得もいってない」
突然真面目な話になったので、名前は一瞬驚いたあと、姿勢を正した。頭はちょっとふわふわするけれど、話を聞けるくらいの冷静さはまだ残っている。
「けどこれもサラリーマンの宿命だな。苗字のことは心配してない。お前の思うようにやったらいい」
良くも悪くもいつもにこやかで、掴みどころのない先輩が、驚いている、納得いってない、などと口にするのを初めて聞いた。そのすぐ後に早口で続けられた言葉は、自分自身を説得しているように聞こえた。最後に付け足された言葉に嘘はなさそうだったが、名前はまっすぐ受け止めることが出来ない。
「……はい」
たっぷり間を置いて不満そうに返事をした名前に苦笑して、千景はスコッチを、名前にはサングリアを頼んでやる。果物の甘さでアルコールの風味を抑えくれるサングリアが名前は好きだった。
「苗字は話を聞いてどう思った?」
メンタルケアと、個人的興味。天秤にかけたら後者に傾くかもしれない。
「………急だとはおもいましたが……会社員なので……そういうこともあるかと……」
「はい。飲んで」
「……?」
口にしていい言葉を考え絞り出す後輩は、それはそれで面白くもあったが、千景が聞きたいのは建前ではない。サングリアを飲むよう勧めてやる。
果物の香りで甘く飲みやすくなってはいても、飲んでいるのは赤ワインだ。頭の中に白いもやのようなものが広がり、名前の思考は働かなくなってきた。店内が熱い。名前は雑に眼鏡を外して机に置き、ネクタイを僅かに緩めた。千景は黙って後輩の次の言葉を待っている。
「……でもおれ、まだ卯木さんから教わりたいことあったし……恩もかえせてないです。……行ってない美術館もありますし……卯木さんともっといっしょに、仕事したかったです」
「……それは光栄だな」
仕事をしていて嬉しいと思ったのは、初めてだった。組織の任務に都合がいいから潜り込んだだけの場所。他人に興味もなかった。後輩が可愛いだとか、配置転換が不満だと思うことなんて、一生無いと思っていた。この後輩の言葉はあまりにもまっすぐ届く。こいつは心が綺麗すぎる。優しすぎる。それがいつか、こいつの身を滅ぼすことになるのではないか。
「心配してないって言ったのは、取り消す」
「え?」
「何かあれば俺に連絡なり相談なりしろ。わかったな」
千景の言葉を聞いて、名前は「はい」といつもと同じ返事をした。けれど酔っているからか、顔がしかっり見えているからか、名前の感情を隠すものがなく嬉しそうに言う。それは千景をまた少し絆しもしたし、不安にもさせた。
「……飲み過ぎるなよ」
「今日は、のみたい気分です」
「まあ、それはそうだな」
パパゲーナも美味しかったが、この店はサングリアも美味しい。どちらにするか悩んでもう一杯サングリアを注文した。千景のモヒートも一緒に。
「卯木さんはいろんなお酒を飲めるんですね」
「この仕事をしてると嫌でも色々飲むことになるだろ」
確かに、商談相手との会食では現地のお酒を薦められることがほとんどで、断るわけにもいかない。ドイツのお得意先との会食でビールの飲み比べが始まった時は、複数のジョッキを前に、どうしようと本気で焦ったものだ。ほとんど千景が飲んでくれたので、名前は先輩に深く深く感謝した。
「東南アジアでもビールは避けて通れないよ」
「!」
「お前は、誘いをうまく躱す処世術が課題だな」
「……はい」
べらべら喋るわけじゃないのに、びっくりしたりしょんぼりしたりと表情が忙しい。名前は人に見せないだけで、感情に乏しいわけではないのだ。
今のところ自分に一番懐いていると思うが、そのうち平尾にもこんな顔を見せるんだろうかと、千景は不意に考えた。
「……よくない思考だな」
「え?」
「なんでもない。次、なに飲む?」
辛口のカクテルを飲み続ける千景。ベリーニ、グラスホッパーと、甘いカクテルを教わり飲む名前。眼鏡を外し、酔って表情豊かな名前が「ありがとうございます」と言って受け取ると、店員が照れるほどだった。
「卯木さんはどれくらいのむと酔うんですか?」
「さあ?酔わせてみる?」
「のぞむところです」
「既に酔ってる奴が何言ってるんだ」
「よってません」
「はいはい」
パパゲーナを名前が頼むと、入れ代わり立ち代わり来ていた女性店員の一人がパパゲーナを持ち、丁寧に紙のコースターもくれた。お礼を言って受け取り、店員が去るとパパゲーナを飲もうとする後輩に千景は呆れる。普段なら気付いただろう。さっき来た店員がじっと名前を見ていたことも、受け渡しの時にかすかに指に触れてきたことにも。
「コースター、裏返してみたら?」
千景に言われた通りにすると、SNSのIDらしきメモと名前が書かれていた。見て、無言で伏せて、何事もなかったように酒を飲む名前。
自分も同じようにするので分からなくはないが、後輩の意外に冷めた対応に笑って突っ込んでおいた。
「タイプじゃなかった?」
可愛いと言われるだろう顔の女の子だったが、興味がないのだろうか。
「……タイプとか、よくわかりません」
「今彼女いないって言ってたよな。興味ないのか?」
「ないです」
「恋人がいたことは?」
「……あります」
「へえ。いつ?」
「……日本に来る前に……。あの、これ、卯木さんも聞けばこたえてくれるんですか?」
「さあ。どうかな」
「……絶対おしえてくれないですよね」
「よく分かってるな」
ジト目で先輩を見て、もう話さないと宣言する。ムッと口を結ぶ拗ねた顔に、お前は何歳なんだと言って先輩が本当におかしそうに笑うので、つられて名前も笑った。
名前は、日本でいうところの中学一年から三年までの間、同い年の女の子と付き合っていた。初めての、そしてこれまでの人生で唯一の恋人だった。当時は恋の歌に自分を重ねるような純真さをまだ持っていた。一人でひっそり過ごすような子どもではなく、部活にも励んでいたし、学校には多くの友人がいた。
けれど両親が離婚し、母親に連れられて日本に来ることになって、何もかもが変わる。
母はすぐに再婚した。再婚相手の男は資産家で、多くの不動産を保有していた。名前と母親が住むことになった家もそれはそれは大きな屋敷だったが、そこに住んでいた期間は短い。名前が大学生になるのと同じ頃に母がまた離婚したからだ。新しい父親は悪い人ではなかったけれど、彼と母が愛し合っていたのは最初の数か月だけで、険悪だった時間のほうがずっと長い。
多感な年頃に夫婦の、男女のいざこざを目の当たりにし振り回されて育った名前は、恋愛が良いものだと思えなくなってしまった。だから恋人はいらない。
「苗字は真面目だな」
酔って呂律が怪しいのに、不思議に澄んだ声で紡がれる話を聞いて、千景はそう纏めた。
恋愛の先に結婚がある。人を好きになるということは、一生その人を大切にするということ。根本でそんな風に思っていないと、恋愛に興味がない、には至らないだろう。無責任な恋愛、一時的な関係を楽しんでいる奴なんていくらでもいる。
終電近くまで飲み、帰るかと立ち上がると、案の定名前の足取りは危うい。
「卯木さん、おかね、」
「いいよ」
「だめです。おれけっこうのみました」
「いらない」
「うつきさん」
腕を引かれ、困ったような顔で見上げられる。
「それはわざとやってるのか?」
「え?」
「マスクと眼鏡」
「あ、」
緩慢な動作でマスクと眼鏡をつける。指先にも酔いが回っている。
「タクシー拾うか」
「え」
「帰る方向は同じだし、その方が楽だろ」
思考はとうの前から淀みの中で、そうだったかな、とぼんやり思う。歓迎会の帰りに駅で別れた時、お互いの乗る電車は反対方向だったのを名前は忘れていた。千景がタクシーを拾って、名前の住所へ向かわせる。
タクシーが走り出して少しすると、こてん、と頭を千景の肩に寄せて名前は眠ってしまった。送り狼に食べられても知らないからなと、千景は心の中で大きくため息をついた。
近い場所にあるあたたかな体温が、邪魔ではなかった。