孤独の焼け跡
教育担当が変わった初日。四月に名前にさせたのと同じように、浅田にも課題を与えた。三年間何をしてきたのかと問い詰めたいが、新体制のまだ一日目。千景は笑顔を作り続けてやった。

「苗字、もしかしてタイ語だいぶイケる感じ?」

千景の斜め左の席に座る平尾が驚いて言う。浅田と入れ替わり、自分の隣の席に移ってきた名前のパソコンの画面を見ている。

「……日常会話は問題ないと思いますが……商談では使い物になりません」
「いや、十分十分。助かるわ。タイ語ってホント苦手でさ」

心底安心したように平尾に言われて名前は小さく「えっ」と焦ったが、平尾は聞いていない。
平尾は子供時代をマレーシアで過ごし、英語とマレー語を話すことができる。タイ語も勉強して少しは話せるが、言語の習得は苦手分野だった。タイ出張にはいつも苦労するし、何より商談の実りが良くないので、タイから戻った後の部長らの視線が痛い。
タイの販路拡大は、東南アジアチーム最大の課題である。そのことは同じ課にいる名前も知っていた。配置転換を言い渡された金曜日、名前はタイ語を磨き上げないといけないと思ったし、この土日もゲームをする予定を取り下げてタイ語の勉強にあてた。努力はするが、しかしそう簡単に身につくものでもない。当てにされると困る。

「苗字、早速で悪いけど来週からのタイ出張同行してくれる?」
「……はい。航空券とホテルは取ってますか?」
「ホテルはまだ。一緒に頼むわー」
「わかりました」

タイの天気事情などをとりとめもなく話す平尾に適宜相槌を打ちながら、二人分のホテルと自分の航空券の予約、社内申請を済ませた。今週で十月が終わる。十一月のタイは乾季。常夏の国だが、今は過ごしやすい気温だろう。

「卯木さん。次の出張はいつですか?」

向かい側の平尾と名前の会話に触発され、浅田は千景に聞いてみた。

「俺の出張は来週火曜から。浅田の出張はまだ先」
「はぁい」

千景の回答に、浅田がつまらなさそうに返事をした。お気に召す答えでなくて悪いね、なんて、思ってもいないことを千景は頭に浮かべる。

欧州チームへの配置転換を願い出た浅田は、フランスへの留学経験があり、英語とフランス語が得意だった。だから、東南アジアチームに入ると知らされた時から先週までずっと、欧州へ行きたいと希望を出し続けていた。
ただ、異動希望には言語のことだけではなく、優秀な先輩社員の下につきたいという理由もあった。浅田は言動が荒っぽく、良く言えば飾り気がない明るい男のように思われがちだが、実際には悪賢いところもある。

「まずイタリア語の日常会話と資料読解が出来るようになってくれるかな。年内にフランスとドイツをもう一回ずつ回るから、そこには連れて行くつもり」
「はい!」

後半しか聞いていないのか、と思うほど元気に返事をされて、笑顔が引き攣りそうになる。

「俺、フランスの美味い店には詳しいっすよ!案内しますね!」
「……それは楽しみだな」

煩い。嫌そうな声色にならないよう努めるのにも、労力がいる。



十一月の終わり。冷たい風がチリチリと肌を刺してくる。
仕事で天鵞絨町に来た千景は、駅の掲示板に貼られたとある劇団のポスターを見て、足を止めていた。冷たい風で体が冷える。それ以上に、心臓が、極寒に晒された鉄のように温度を下げる。

御影密。
かつて同じ組織に所属し、共に過ごした男の名前だった。御影密は、任務の最中で死んだ。あいつと……オーガストと一緒に。
二人の死を知らされ、千景は組織から尋問を受けた。完璧と思われていた潜入計画が漏れていたのだ。組織の中に裏切者がいる。誰が、二人をーー。

御影密は死んだ。そう思っていた。そう、聞かされた。しかし物的証拠を見たわけではない。
生きているのなら、何故、自分の前に現れないのか。
胸を抉られるような痛みが、悲しみなのか、憎悪からくるものか、すぐには判断がつかない。
裏切られたことを信じたくない思いもあった。けれど、膨らみ続ける苦しさに苛まれ、千景の眼差しはひどく冷たいものになっていった。

御影密が所属しているという劇団の名前は聞いたことがあった。国内法人部の茅ヶ崎至がそこに所属していて、チケットが欲しいと女性社員達が騒いでいたのが記憶に新しい。
千景は帰社すると茅ヶ崎至に声をかけ、チラシで見た公演のチケットを手配してもらった。会社ですれ違えば挨拶する程度の間柄でしかない先輩社員から急にチケットをくれと言われ、茅ヶ崎至は面食らっていたようだが、実は演劇に興味があってと適当に理由を並べておく。

そうして観に行った舞台、その上に、御影密が生きて立っているのを確かに目にする。
のうのうと生きている。新しい居場所を見つけている。腹の底から湧く怒りで、どうにかなりそうだった。
許せるはずがなかった。

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