孤独の焼け跡 二
二週間のベトナム出張から帰ってきた名前は、久しぶりに会った先輩、卯木千景の様子がおかしいことに気が付いた。

浅田と相性が良くなさそうな様子ではあったが、以前の千景は浅田に対して刺々しくはなかった。二人の間に何かあったのか、それとも別のことで苛立っているのか。見ただけでは分からない。
あからさまに態度が変わっている、というわけではなかった。周りは千景の変化に気付いていないかもしれない。
名前は、親の不和を見て育ったからか、周囲の誰かが苛立っていることにかなり敏感だという自覚があった。

本人が隠そうとしているなら、そして周りが不思議に思っていないなら、騒ぎ立てない方がいいかもしれない。何せ自分はコミュ障なので、積極的に、前向きな変化を起こすなんてことは出来ない。
自分に出来ることは限られている。時間が解決してくれるのを静かに待つ。刺激しないよう遠ざかる。或いは、遠くから、見えないところから、負担を減らせることが何かが出来るなら……そんなことが、もしもあれば助力したいけれど。
千景に対して、名前は、いつも通りに接することにした。変に話しかけたりしない。避けることも、もちろんしない。いつも出張後にするように事務的な手続きをして、報告書を作って共有し、社内で出来る業務を進める。パソコンに向かって黙々と仕事をする。

予想外だったのは、千景のほうから名前のところに来たことだ。

「苗字、悪いけど、今週末からドイツイタリアに同行してもらえるか。平尾さんとは話をつけてあるから」
「……わかりました」

今年最後のドイツ出張。初めてドイツに連れて行ってもらえると浅田が楽しみにしていたのは知っている。浅田が素直に喜んでいたのを、正面に座る名前も見ていた。
イタリアで名前が販路を作った企業との商談を、先方都合で急遽入れることになった……との理由で、同行者にと話がまとまったらしい。東南アジア地域の年内の出張はもう無い。スケジュールは空いている。平尾と話がついているのなら、名前に断る理由はないが、浅田のことは気がかりだった。
ちら、と一瞬浅田を見る。
当然浅田は不満げではあったが、彼から千景に意見することはなかった。イタリア語の習得が思うように進んでいないので、苗字より自分のほうが適任だ、と主張することも出来ない。
不自然な固い笑顔で、よろしく、と言う先輩に名前は頷くしかなかった。



クリスマス前の四週間、各地でクリスマスマーケットが開催され、ドイツは観光客でひしめき合っている。

二人は先にイタリアを回り、最後にドイツのミュンヘンを訪れた。
名前は元来、自分から積極的に話す方ではない。それに、今は静かにしていることを求められているような気もしたので、仕事や会食以外では必要最低限の会話しかしていない。ドイツに入ると、千景は一層口を重く閉ざした。人込みが嫌いなのだろうかと名前は思ったけれど、千景の心を冷やしているのはそんなことではない。

クリスマスマーケットの温かな空気は、オーガスト、ディセンバーと過ごした時間を嫌でも千景に思い出させる。こんな時期に、欧州に来たくはなかった。それも、ディセンバーがオーガストを裏切って、今は一般人として生きていると知ったこんな時に。
もし浅田を連れて来ていたら、クリスマスマーケットに行きたいだとか何とか、騒いで喧しくするに決まっている。今そんな振る舞いをされると舌打ちを隠せそうもないので、それらしい理由を作って、浅田を同行させないことにしたのだ。代わりに連れてきた物静かな後輩は、期待通り大人しく過ごしている。

「悪かったな、急な出張を頼んで」
「いえ」
「俺はすぐ帰国するけど、苗字は?」
「俺は夜の便で帰るので、ここで」
「わかった。じゃあまた会社で」

ミュンヘンでの最後の商談を終えて、すぐに空港に向かう先輩を見送る。千景の声は固く、眼鏡の奥の瞳は暗かった。街中を美しく彩るイルミネーションも楽し気な人々の声も振り切るようにして去っていく背中が寂しい。

自分には何も出来ない。そう思っていたけれど、このままでいいのだろうか。

寒さとは別の痛みで、鼻の奥がじんとしびれる。
このままでいいわけがない。そう強く思った。

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