孤独の焼け跡 三
年明け早々、千景は長期出張で一月中はほぼ不在となっていた。浅田は同行しておらず、本社で仕事をしている。

浅田と平尾はチームが離れても……それも双方希望して離れることになったのにも関わらず、後腐れなく、同僚として親しくしているようだった。仕事終わりに飲みに行くこともあるようだ。仕事中も二人はほとんどずっと話をしているので、浅田だけに用事がある名前は、ここ数日良いタイミングを見つけられず困っていた。

ようやく今日、浅田がひとり昼休憩に立つ機会を見つけて、名前は声をかけることが出来た。使われていない会議室へ呼び込もうとすると明らかに不審がられたが、この機を逃してはいけない。

「何だよ、話って」

浅田は名前を気に入っていない。優秀なのは分かっているが、先輩としてのプライドが邪魔をするし、ごにょごにょと話すのは聞いているだけで苛々する。視線をウロウロ彷徨わせるのも見ていて不快だ。

「……あの……もしよかったらなんですけど……」
「早く喋れって。昼飯行きたいんだけど」
「すみません……あの、よければイタリア語を……一緒に勉強しませんか……」

馬鹿にしているのかと、頭に血が上った。
東南アジアチームに異動になっても未だにこの後輩はイタリア販路を任されている。反面いつまでもイタリア出張に連れて行ってもらえない自分。

「お前、何?調子のってんの?」

不愉快極まりない。全く面白くない状況だが、浅田は口元に笑みを浮かべた。

浅田とて、何もしていないわけではない。イタリア語を習得するためにオンラインの会話講座を受けている。千景から渡された商談資料を、辞書を使って読み込みもしているし、千景が本社にいれば積極的に質問する姿勢を見せている。
しかし、日常会話や、辞書無しで資料を読むのはまだまだ難しく、千景がイタリア出張への同行を許してくれるのは遥か先に思えてならなかった。出張に行かなければ営業のチャンスは無いに等しい。焦りは社内業務にも悪影響を及ぼして、最近は千景に見放されているような気すらしていた。必死にコミュニケーションをとろうと浅田から千景に話しかけても、受け止めてもらえず躱されてしまう。

「……俺は、ただ、出来ることがあればと思って……」
「そんなん、俺だって、早く話せるようになりたいとは思ってる」
「……はい」

それは名前もわかっているつもりだ。浅田は上昇志向が強い。自分には無い貪欲さを持っている浅田から気付きを得ることもある。
ただ、浅田にはもっと、やりようがあるように思える。名前は自分の能力に自信があるわけではないが、語学学習ならば手助けが出来るかもしれない。
少しでも千景の助けになることは何かを考えて、たどり着いたのはこれだった。千景が何に困っているか分からないので、まるで見当違いなことかもしれないという不安はある。けれど、自分と代わって千景の横に立つことになった浅田が、千景を支える存在になってくれれば、少し風向きが変わりはしないだろうか。そんな期待を持っているのだ。

「一緒に勉強って、何すんだよ。俺だってオンラインの講座は受けてるぞ」
「……それは、週何回ですか」

一回、と浅田が答えると、名前はゆるく首を横に振る。

「毎日、なにかしらイタリア語に触れてください」
「毎日ぃ?」
「……朝か、昼休憩とか……三十分で構いません。……お互いに本社にいるときに、やっていきませんか……?」

本気で言ってるのか、と浅田は思った。毎朝、毎昼、勉強をする。出張がないからと言って別に仕事が暇なわけではない。……いや、それを言うなら、自分のエリアの出張に行っている後輩の方が余程忙しいだろうに、自分と勉強をしようと言っているのだ。お節介な真面目野郎。さっきは、調子に乗っているのかと冷たく言い放ったが、そういう奴ではないことは分かっている。
それに、何事も利用しない手はない。

「……他の奴らに言うなよ。俺に教えること」
「……言いません」
「んじゃ、昼。昼飯食ったあと」
「はい」

かくして、昼休憩を一緒に過ごし、間に三十分イタリア語の勉強をすること。それを周りに秘密にすること。勉強場所となる食事処は会社から少し離れた個室居酒屋にすることを決める。
名前は高校大学時代に陰キャ眼鏡などと呼ばれ、同級生に避けられていたことがある。自分と接点があるのを他人に知られたくない人がいることは経験から理解しているし、頼まれなくても、誰かに言い触らす気は毛頭ない。

昼特訓は早速翌日から始まった。
最初のうち、三十分の全てを日常会話に充てた。イタリアの商談や会食で、名前が商談相手から受けた質問を浅田に繰り出す。浅田が躓いた言葉は次回までに復習させる。お互いに本社にいる時にと言って始めたことだが、名前はタイからもベトナムからも浅田に電話を繋いだ。本人に自覚はなかったが名前はなかなかに厳しい教官で、覇気のない声でビシバシ先輩に指示をする。
イタリアのニュース記事を読むようにと言われると、浅田の自宅学習の量はどんと増え、ちょっと待てと言いたくなる。しかし三十分毎日話をしていると、後輩は後輩で勉強をしていることが分かる。今はザフラ語を身に着けようとしているらしい。お前より努力が出来ない、と後輩相手に弱音を吐くなんてことは浅田のプライドが許さなかった。
二月の後半になると、浅田のイタリア語は様になってきた。現地のテレビ番組もそこそこ聞き取れ、難解な内容でなければざっくりと把握できる。

千景がよく見ていない間に、目を瞠るほど浅田のイタリア語は上達した。
そうして三月の末、初めて浅田はイタリア出張の同行を許された。そのことを浅田からのショートメールで知り名前は嬉しく思ったが、当然浅田本人は比べ物にならないほど喜んで、初めてのイタリア出張でワインをガバガバ飲み、酔い潰れて、ホテルで戻してしまった。帰国後の浅田からそう聞かされ、失敗談なのか笑い話なのか分からず反応に困っている名前の背中を、浅田は笑いながらバシバシと叩いた。

相変わらず千景の表情はどこか冴えないように見える。そのことが気がかりなまま、名前の新入社員一年目は終わった。



四月。
春組の新入団員募集にあたり、茅ヶ崎至は自分の城を守るためにどうすればよいかと悩んでいた。完璧なゲームの配線、散らかしっ放しの服。怠惰で最高な現在の生活を崩されたくない。新入団員の条件は持ち家有りにしてくれと今朝監督に言ってみたが、一蹴されてしまった。さてどうするか。
そう考えている折に、劇団のことで話しかけてきたのが卯木千景だった。
何度か公演を観に来てくれているが、団員募集に興味を示すほど劇団に興味があったとは。考えの読めない人ではあるが、海外出張の多いこの先輩は、同室になるには良いかもしれない。
至が監督に卯木千景を紹介すると、形ばかりのオーディションを経て千景のMANKAIカンパニー入団が決まった。

千景は、あっという間に劇団員と打ち解ける。穏やかで、微笑みを絶やさず、不意に真顔で冗談を言って団員を揶揄う。初舞台で主演をすることを提案されても臆さず受け入れる。千景の内面があまりに掴めないので監督や脚本家の綴は戸惑うことが多く、その上真澄の渡米の話まで出て何かと悩みの種はあったが、真澄の劇団残留が決まり脚本も出来上がると、稽古はそこそこ順調に進んでいった。

「能天気な奴らだな。お前の家族とやらは」

ある晩の稽古終わり。暗い中庭で、千景は御影密と対面していた。
千景は密の前で苛立ちを隠さない。普段人前で笑みを絶やさない千景にはひどく珍しいことだ。千景の入寮の日に開かれた歓迎会の夜も、千景は今と同じように密に対して怒りと苛立ちを混ぜた表情を見せた。
ーーお前がオーガストを見殺しにしたんだろう。
記憶喪失だと言う密に、罪を思い出せと責め立てる。
密には、自分の名前以外の一切の記憶がない。千景が言っていることの意味がわからない。けれど、オーガストという響きは、小さなランプの灯りのように自分の中にある。千景は自分の過去を本当に知っているのだろうか。

「早く、お前の犯した罪のすべてを思い出せ。……手遅れになる前にな」

冷たい目で見下ろされる。自分の過去。千景の言う、自分の罪とは何なのか。最近、頭が痛む。夢見も悪い。過去を思い出すのが恐ろしく、密は、眠ることを怖がるようになった。



千景は、心を苛む憎悪を押さえつけながら密の様子を見て、劇団で過ごしていた。しかしもう、終わらせることにする。
春組公演初日が近付く休日。劇団を潰すため、密の新しい家族を奪うため、千景は監督を軟禁した。

千景の海外出張に着いて行くという監督からの連絡に、劇団は騒然とする。
社内では、千景は急遽決まった出張に行ったことになっている。相変わらずほとんどの国に同行させてもらえない浅田に、至は連絡を取ってみた。

「浅田さん。卯木さんって、今出張に行ってるんでしたっけ?」
「ああ。しばらく戻らないらしい」
「しばらく……それって、具体的にはどれくらいですか?」
「さあ、俺もわかんね。急な話で聞く暇もなかったし」

直属の後輩である浅田に出張について共有していないのは不自然だ。腑に落ちない。
監督と千景の行先についても気になるが、春組公演をどうするかという問題もある。千景の代役を立てて公演を行うか。夏組公演を先にやってはどうか。様々意見は出たが、支配人の松川の「待ちましょう」の一言から、春組の稽古を続けて二人の帰りを待つ方向で話はまとまった。

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