孤独の焼け跡 四
オーガストを裏切り見殺しにした。そう思い憎しみを募らせていた相手、ディセンバーは、オーガストを見殺しにしたのではなかった。オーガストが捨て身でディセンバーを生かした。オーガストは、ディセンバーの……そして自分の幸せを願ってくれていた。
その事実も想いを知らず、オーガストが守ったものを壊そうとした自分。
裏切っていたのは自分の方だったのだ。自己嫌悪と、憎悪で抑え込んできた喪失の悲しみが渦巻く。千景の心は整理がつかず、ぐちゃぐちゃだった。

咲也とのコイン勝負をきっかけに、春組のメンバーに気を許すことはできたし、舞台に立つ約束も果たした。公演期間中だが朝晩の空き時間にはみっちり稽古を詰めて、一度崩れた千景の演技は少しずつ良くなってきている。観客かの評判も悪くなく、元々春組のファンだったお客さんにも受け入れられているようだ。公演後のお見送りでは、熱心に千景に手を振る女性客が日に日に増えている。
けれど、劇団員達が受け入れてくれても、芝居が上達して客から好評をもらっても、千景は自分を許すことが出来ない。心は不安定で、揺れてしまう。



出張から帰ってきた名前は、千景の様子がおかしいと……十二月にそう感じた時とはまた違う様子であることに気が付いた。
日頃は如才ない千景が、どこか反応が鈍く、精彩を欠いている。
千景が、国内法人部の茅ヶ崎至と同じ劇団に入り、早速この春に舞台本番があると人伝てに聞いていた。まさに今その舞台の公演期間中らしいので、そちらが大変なのだろうか。

入社してからの半年ほどを一緒に過ごしたけれど、結局、千景のことをほとんど何も知らない。そのことが名前にはもどかしかった。自分は多くを教わったのに。疎まれる自分をそのまま受け入れてくれた人なのに。貰ったのは自分ばかりだったのだ。

「卯木さん。イタリアのA社のことで、少し打ち合わせの時間をもらってもいいですか」
「……ああ、いいよ」

小さな会議室を予約し、向かい合って座る。イタリアA社の契約を取ってきたのは名前で、チームが変わってもずっと名前が対応してきた。それを、この先浅田に引き継ぐ提案をした。A社は名前が持っている最後のイタリア案件なので、これを引き継げは欧州チームとしての仕事はなくなる。

「……そうだな。頃合いかもな」

浅田のイタリア語が上達し、商談も問題なく出来るようになったのは千景も認めている。お陰で浅田に任せられる仕事が増え、劇団の稽古に時間を割けていた。
それでもA社を名前に任せていた理由を端的に言えば、千景の勝手だった。最後の繋がりを離したくなかった。

「苗字から浅田に引き継いでやってくれ」
「わかりました」
「手間をかけて悪いな」
「いえ。……あの、もう一つ、相談してもいいですか?」

鋭さのない目で千景が名前を見る。名前は眼鏡を外し、千景を見つめ返した。太いフレームの黒縁眼鏡と長い前髪。それとマスク。これらは、世界から隠れるための砦だった。

「業務外の、相談なんですけど……」
「……へえ。苗字から、珍しいな。何?」
「……何かに悩んでいる人がいて……助けになりたいけど、どうしたらいいかわからなくて……踏み込んだ質問をするのは、よくないことですか?……俺に、出来ることはあるでしょうか?」

後輩の目が真剣で驚く。いや、真面目な人間だというのは知っているが、こうも真っ直ぐで切実な眼差しは初めて見た。それも、人間関係について。
しばらく深いコミュニケーションをとっていない間に、好きな女でもできたのだろうか。

「……そうだな……」

後輩から目をそらす。答えたくない、と咄嗟に思ってしまう。その理由はよくわからない。
さあ?お前とそいつの関係性が分からないから答えようがないな。そんな風に言うのは簡単だ。普段ならそうする。誰と誰の関係がどうなろうと自分には関わりがないし、興味がない。
しかし問うてきたのがこの後輩となると、話は随分違う。悩んでいるなら助けてやりたい。答えたくない、と助けてやりたい、が心の中でぶつかるけれども、手を差し伸べずにはいられなかった。

「……踏み込んでもいいんじゃないか。そいつの助けになりたいっていうお前の気持ちは、お前が目を合わせて聞けば、ちゃんと伝わるよ」

千景が答えると、名前はそうですか、と小さく呟いた。
どこの誰だ。社内の奴か。浮かぶ疑問を掻き消すように立ち上がる。

「上手くいくといいな」

心にもないことを言った自覚はある。突き放したような声色になってしまう。この話はこれ以上聞きたくない。
ノートパソコンを手に、会議室の扉を開けようとした。
それが叶わなかったのは、名前が先にドアノブを抑えたからだ。

少しの間、どこを見るでもなく視線を彷徨わせていた名前だったが、意を決したように真正面から千景を見上げた。
卯木さん。
呼ぶ声が震えそうになる。人と向き合って、心に手を伸ばすのは、ひどく勇気が必要なことだ。けれどもう見て見ぬ振りは出来ない。したくない。名前の青い瞳が熱く揺れる。

「俺に出来ることは、ありますか?」

理解に数秒を要した。
名前が相談してきた、何かに悩んでいて助けてやりたい人というのが自分のことだったと分かって、千景は目を丸くした。

「……本人に相談するのか。斬新だな」

後輩の頭をぽんぽんと撫でる。柔らかい髪を指先でさらさらと掬い、遊ぶ。そうしていないと平静を保てない。胸がじくじくと痛いような、なのに温かいような、理解不能な心地がした。

「コミュ障なので……どうしたらいいか本当にわからなくて……こういうことを相談できる人もいなくて……」

髪に触れられているのを気にすることなく、自分の至らなさやコミュ障ぶりをぼそぼそと呟く。そうしながら視線はどんどん下がって、俯いてしまう。さっきまでの勢いはどうしたのか。千景は声を立てずに笑った。

自分を家族だと言って受け止めてくれた春組のメンバーとは少し違う温かさ、これは何なのだろう。先輩と後輩。元上司と部下。それ以上に何かあるのだろうか。それ以上の何かを、見つけたいのだろうか。
くしゃ、と名前の髪を乱す。

「……あの、それで、俺に出来ることは、」

自分の助けになりたいと思ってくれた。遠慮がちな後輩に手を伸ばす。すぐそばにいる後輩の背に触れて、ゆるく抱きしめた。名前も応えるように千景の背中に手のひらをあてる。

ーー参ったな。
絆されてしまう。ささくれ立った心をまるくしてくれるような、やわらかな体温。過ちを犯して無様な自分に差し伸べられる手。無くしたものもあるれど、自分はまた、大事なものを得られたようだった。

名前には、千景が何に苦しんでいるのか、何があったのか、いまだ分からない。千景は何も話さない。
でも、こうしていることで僅かでも痛みや悲しみが和らぐのなら、いくらでも応えたい。
しばらくして体を離した時、名前は、千景の柔らかな目を見て少し安堵した。千景もまた、名前の優しい眼差しに、心がゆっくりとほどかれていく気がした。

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