潜性のビオトープ 二
翌週の平日、後輩をランチに誘うと申し訳無さそうな顔で、しかしキッパリと断られた。社内スケジュールは確認した上で声をかけたのだが、予定があるとのことだった。

「じゃあ、夜は空いてる?」
「はい」

前と同じく仕事終わりにロビー裏で待ち合わせることにして、千景は一人でランチに出向く。
休憩時間に知り合いに会いたくないので、ランチは人気のない店か、少し遠い店か、半個室になっている店を選ぶことが多い。オフィスから少し歩いた場所にある、半個室になっている居酒屋に入った。この居酒屋は昼にはランチメニューを提供している。

千景が食事をしていると、隣の個室に客が入ってきた。広くない店内にカツカツと大きく響く足音。

「カツ丼で」

店員に話しかけるその声で浅田だと分かる。上着でも脱いでいるのか、がさがさ、ごつ、と音がする。足音でも物音でも、よくもまあ、こんなに個性を出せるものだ。なんとがさつなのだろうと呆れる。まあ、最近の浅田の成長は流石に認めているが。
さっさと食事を済ませて店を出ようと思っていると、浅田のいる個室にもう一人入ってきた。

「……すみません。A定食一つください」

名前の声だったので驚く。この二人は一緒にランチに行くような間柄だっただろうか。
以前から、浅田の方は分かりやすく名前を妬んでいる。イタリア出張に浅田を連れて行くようになってからは、前と比べると妬みも薄れているような気はしていたが……。
千景は食事を終えて聞き耳を立てた。カチャカチャ、箸と食器がぶつかる音。名前とは何度も会食を共にしたので、静かに食事をとることは知っている。この喧しいのは浅田だ。というか、一緒に昼に来て会話をしないのか。何なんだ、この二人は。
後輩二人の不思議な昼食がどんな経緯で組まれたのか気になっていると、ガチャ、と大きな音がした。浅田が空にした丼ぶりを机に置いたのだ。

「うし、食った。えーと、今日はこれな」
「はい」

紙が擦れる音がし、浅田が説明口調で、近日行われるイタリアの選挙について話し始めた。ところどころで変な言葉の間違いがあり、まるでシトロンの日本語のように千景には思えた。
ということは、イタリア語の記事か何かを読んだのか。それならば、さっき程度の言葉の間違いなら許容範囲内だ。
全て読み終えた浅田が、どうよ、と自信ありげに言う。

「……概ね、意味は伝わります」
「だろ」
「ここはーーと訳したほうがよかったです」
「ふーん」
「……あと、この人のことは、少し調べてみてください。今すごく支持されている人ですし、商談で話に挙がることがあるかもしれません」
「へえ。……あ、そういや、前に苗字から聞いた歌手の話、話に出たわ。娘さんがファンらしくて、アサダ!娘紹介しようか!って言われたわ。……で、記事はこんなもん?」
《はい、それは仕舞ってください。次はーーについて話しましょう》

名前がイタリア語で喋りだすと、浅田もイタリア語で応える。
二人が話しているのは、この春から社内で始まった研修についてだった。語彙力はまだまだ磨く余地があるが、浅田がイタリア語でこんな会話が出来るようになったのは褒めるべきことだ。千景が浅田の教育担当になった時、浅田はイタリア語を読むことも話すことも出来なかったのだから。

イタリア語の会話が続き、ここからはスペイン語で話しましょう、と名前がスペイン語を話し始めると、浅田も応じる。イタリア語には遠く及ばず基礎単語だらけだったが、一応コミュニケーションはとれていた。スペインに同行させたことはまだ無く、ずっと先になるだろうと考えていたけれど早めてもいいのかもしれない。

「んじゃ、お前、ちょっと時間ずらして帰ってこいよ」

そう名前に言い、来た時と同じく、がさがさ、ガツガツと音を立て浅田が店から出ていく。
やれやれ。
千景はかすかに笑った。

「……苗字」

真後ろから聞こえた千景の声に名前は心から驚いて、声も出ない。心臓が止まるかと思った。

「いつから浅田に教えてる?」
「……」

名前が答えないでいると、千景は名前のいる隣の半個室に入ってきて、さっきまで浅田が座っていた場所に腰掛けた。前髪と眼鏡の奥の瞳がまん丸になっている。

「浅田に語学を教えるようになった時期と頻度ときっかけを聞きたいんだけど」
「……なんのことですか?」

なかなか肝の据わった奴だ。今の今でしらばっくれるつもりか。
そうはさせないと、千景は頬杖をつき、じっと後輩を見る。

「浅田のイタリア語が随分ましになったと俺が思ったのは三月の中頃だ。語学は急には上達しない。苗字が教え始めたのは、そうだな、十二月頃か?」
「……」

名前が目をそらす。素直な反応に、千景は笑いそうになる。

「何で黙ってた?」
「……」
「浅田に頼まれて始めたわけじゃないだろ」
「……」
「誰にも言うなって口止めされてるのか?」
「……」

全ての問いに沈黙を貫いている。その、可哀想なほど気まずそうな顔になってしまっている後輩に、千景はフォローを入れてやった。

「苗字、わかってると思うけど、俺はお前を責めてない」

言外には、浅田は別だと含まれている。
浅田のあの様子。時間をずらし、こんな人目のつきにくい場所でしていること。浅田から教えてくれと頼むとは思えない。相手は、妬みの対象だった後輩だ。
イタリアでの商談で、ある歌手について話が出たときに浅田がやけに詳しかったことが上手く働き、商談がとんとん拍子に進んだことがある。その時はよく調べているなと浅田を褒めてやったが、入れ知恵だった。浅田はそうだと言わず、嬉しそうに賛辞を我が物にしたのだ。

「……浅田さんの努力は、浅田さんのものです」

やっと口を開いたと思ったらそんなことを言う。浅田もだが、名前にも千景は呆れた。

「そういうことにしといてやる」

千景がそう言うのを待っていたように名前は顔を上げ、こくんと頷いた。
努力は本人のもの。それは間違っていない。名前が何を教えたところで、浅田の気概と努力がなければこんなに早く上達することはなかっただろう。経緯や態度はどうであれ、自分が見ていないところで浅田は努力をしたのだ。

追及するのを止めると、目の前の後輩は何もなかったように涼しい顔で水を飲んでいる。全く、今日まで上手く隠してきたものだ。
……いや、気付けないほどに、最近までの自分は周りを見ていなかったのか。
やっとそう思い至って、改めて千景は情けなくなった。

眼差しtopサイトtop