その夜。千景は、前に行ったのとは違う店へ名前を連れて行った。
あの店の食事も酒も後輩は気に入ったようだったが、あの時コースターの裏側に連絡先を書いて渡してきた店員が今日もいるかもしれない。いたからといって、後輩がその気でないのでどうなるものでもないのだろうが、何を隠そう自分が嫌だと感じた。わざわざあの店にする理由はない。個室で、煩くなく、後輩が飲めそうな甘い酒を豊富に置く店は他にいくらでもある。
男女のカップルが多そうな店で、上質というよりカジュアルな雰囲気だが、ほとんどの席が完全個室とは言わないまでもしっかり間仕切りがある。男二人で入っても目立たない。
ワインが自慢の店だったので、一杯目に赤ワインを頼んだ。もちろん、名前と千景が注文したワインは違うものだ。名前が好んで飲むものは千景の舌には甘過ぎる。
「お疲れ」
「お疲れ様です」
カチン、とグラスを小さくぶつける。
二人がこうして落ち着いて酒を飲むのは久しぶりだ。店内に流れるスローテンポの音楽のせいか、喉に流し込んだ美味しいワインのせいか、名前は早くもゆったりした心地だった。
「東南アジア、順調だな」
「いいえ。タイはこれからですし、他の国もまだまだ伸び代があります」
なんと謙虚なのか。得意のフランスで2件決めたくらいで大はしゃぎして飲みに誘ってくる浅田に聞かせてやりたい。ちなみに、その誘いは丁重にお断わりした。いつも連れない態度の千景に浅田も慣れてきたらしく、断ると平尾のところへ駆けて行ったので、きっと平尾と飲んでいることと思う。
「タイはもう平尾さんの同行もないんだったよな」
「はい。前回から一人です」
「新卒二年目で国ひとつ任せられるなんて本当に優秀な社員だって、部長が褒めてたよ」
「タイ語を話せる人が入ってたら、きっとすぐ任されましたよ」
「お前は謙遜し過ぎだ」
ワインを飲み干して赤のサングリアを頼む名前。千景が同じタイミングでジンのストレートを頼むと、嫌なことを思い出したというように眉が寄る。
「……ジンのストレート、タイで飲みました」
「苗字には強すぎただろ」
「飲み物じゃないですよ……あれは消毒液です」
あの時のことを振り返っただけで口の中に広がった濃厚な酒の風味が蘇る。渋い表情で消毒液、と言った名前には千景はくつくつと笑った。
「ひどい目に遭いました。平尾さんもお客さんも面白がって……」
容易に想像できた。平尾は酒が入ると陽気さが増し、自分もどんどんグラスを空にするが、人にも次々に酒を勧める。二次会にも当然行きたがる。しまいには朝まで飲みたがるので、一年以上前だったか、出張中に朝まで飲むなと部長に厳しく叱られていた。それ以来国外では大人しくしていたようだが。
「朝まで飲まされてないよな?」
一応、新体制になる時に、苗字にしつこく飲ませるなと平尾に釘を指しておいた。
「朝まではさすがに……朝まで飲むと怒られると言っていました」
平気な顔をしてジンをすぐに飲み干しニ杯目を頼む千景にぎょっとする。平尾も酒は弱くないが、こんなにハイペースで、しかも顔色を変えずに飲み続けることはない。どれだけ強いんだ、この人。
名前はサングリアがなくなると次はカルーアミルクを頼んだ。タイ出張の夜、取引先との会食の二次会でカルーアミルクを頼もうとしたら、平尾に「女か!」と言われ、勝手にソーダで割ったジンを注文されたのを思い出した。そしてその日はもっと、最悪なことがあった。
「卯木さん、タイに行ったことありますか」
「あるよ」
「……東部の西海岸まで行ったこと、あります?」
千景の手がぴたりと止まる。
「連れて行かれたのか?」
「……はい」
カルーアミルクを飲み干して、名前はメガネをとった。顔が火照る。
取引先の人が二次会としてどうしても行きたい店があると言い、新規契約手前のタイミングで平尾は断るつもりはさらさらなく、ある街の名前を聞いてむしろ喜んだ。二回目のタイ出張でのことだ。
向かう先がどんなところか、名前は知らなかった。
歌舞伎町より煌煌と光るネオン街。熱心に声をかけてくる薄着の女性、男性。無数の飲み屋とホテル。好きに遊べよー、と酔っ払った平尾がケラケラ笑ったとき、一瞬退職が頭を過った。
「平尾さんとはもう二度と二次会に行きません……」
「待て。そこに連れて行かれて、どうしたんだ」
肝心なところを話さずに反省し始める名前に千景はストップをかけた。名前は首を傾げながらあの時のことを思い出す。
「先方と平尾さんは、女性が踊るバー……なんですかね……?先方は常連さんみたいでしたけど……そこに入るって言って、その後は知りません」
いや、聞きたいのはそいつらの話じゃない。
「お前は?」
「え?」
「苗字はどうしたんだ」
「俺は、どこにも行かずにタクシーでホテルに帰りました。……失礼だったかもしれませんけど……」
「失礼でもなんでもない。まったく、あの人は……」
平尾に注意しておこうと心に決める。
無事だったからよかったが、性欲の掃き溜めのような歓楽街。男にも女にも好かれる容姿の後輩に、何があってもおかしくなかった。気にかけてやればよかったと千景は猛省した。どの国にも、治安の良くない場所や歓楽街はあるものだ。後輩への配慮に頭が回らないほど、冬から春にかけての自分は、自分を見失っていた。
「俺がもっと気をつけてやればよかったな。悪かった」
「え?いえ、なんで卯木さんが謝るんですか。俺が無知だったせいですし……去年、卯木さんに頼りすぎてたんです」
「それは身に覚えがないな」
強いて言えば初めてのイタリア出張でのことぐらいで、あとは本当に頼られた覚えがない。苗字名前は全く手のかからない後輩だった。
「むしろ、俺がお前に支えられてたよ」
千景の言葉を、今日バレてしまった浅田の件だと名前は解釈した。
「……なにのみますか」
勉強会はバラさないと浅田と約束しているので、この件を掘り下げられたくはない。名前は無理に話題をかえようと、最初の赤ワインを注文した。
「苗字は表情豊かだな」
「……卯木さんがするどすぎるんです」
「お前には負けるよ」
そんな後輩の様子を苦笑交じりに見ながら千景はバーボンを頼む。浅田と名前の勉強会のことを、これ以上名前に問い詰める気はない。
浅田の成長はチームにも部署にも大きなプラスとなった。一番助かったのは千景だ。浅田に任せられる仕事が増えたのは有り難い。しかし本来は教育担当の自分が面倒を見てやるべきだったのだ。
自分と名前の評価者である部長には、このことを伝えた。それは本人には秘密だ。
だいぶ呂律が怪しくなっている名前は、ふわふわした心地で酒を飲んでいる。
「俺がいつもと違うと思ったのはいつ?」
「……十二月の、おわりくらいです」
「そんなに前から気付かれてたのか」
ポーカーフェイスには自信があったのにと、自嘲した。
自分を馬鹿にするように薄く笑う千景に何と言っていいか分からず、名前は眉を下げる。
「……きづいたって、俺はなにもできませんでした。……でも、卯木さんがげんきになって、よかったです」
しょんぼりした顔。心配する顔。優しい顔。あたたかい声色。穏やかな瞳。
心臓にゆっくり触れられて、弱い力で握られているような気がする。これは本格的にまずい、と千景は思った。
「……心配かけて悪かった」
惹かれてしまっていると、少し前から自覚があった。
手に入れたくなる。触れてみたくなる。何かを、誰かを、こんなに欲しいと思うのは初めてだ。それが同性の会社の後輩とは……つくづく、難しい人生だ。
けれどそれも、まあ、いいかもしれない。第二の人生、生き甲斐があるというものだ。
自分を見てきょとんとしている後輩に新しい酒を勧めながら、千景は自分でも気付かないほどやわらかに笑った。