ゆるがせど春
大都会の一等地にそびえ立つビル。その上層階に本社を構える大手商社に、卯木千景は勤めている。
千景の所属する海外法人部一課に新入社員が配属されるのは、実に稀なことだった。
海外法人部一課は他部署からの栄転か、華々しい実績のある中途社員しか配属されることがない。そんな場所へやって来るのはどんな新人だろうか。一課の社員はもちろん、二課や、他部署の社員達もあらゆる意味で楽しみにしていた。三月の後半、社内はその話題で持ちきりだった。



四月一日に入社式を終え、翌日。新人社員達が、それぞれの課に配属の挨拶に来る朝だ。
広いフロアに複数の部署がデスクの島をなしており、早速新入社員を歓迎する拍手をしている部署もある。賑やかな空気を壊さないよう、海外法人部の部長がフロアの端を歩いてくる。仕立てのいいスーツを身に纏う、小太りで愛嬌ある顔の部長。その後ろにそっとついてくる細身の男。
彼が噂の新人に違いないと、男の背中を多くの目が追いかける。
部長が自分のデスクの前、つまり一課の全員が見渡せる場所まで来ると立ち止まり、クルンと振り返った。つられて新人も立ち止まる。

「さ。みんなに挨拶しよう」

部長が新人に向かって言う。新人はこくんと頷き、先輩社員らの方を向いた。すると、先ほどまで好奇心に満ち満ちていた空間がピキッと硬くなる。

「……苗字名前です。よろしくお願いします」

覇気のない声。たった二言の短い挨拶をして、ぺこ、と頭を下げる新人。
本当にこの子がうちの新人なのか……?メンバーのほとんどが同じ疑問を持って新人を見た。
苗字名前は長い前髪を横に分けもせず無造作に垂らし、分厚いフレームの黒縁眼鏡をかけている。さらに、風邪でもひいているのかマスクをしていて、ほとんど顔がわからない。

「はい、よろしくねー」

部長が拍手をすると、何かの間違いではなかろうかと思いながらも、みな一斉に拍手をした。名前は小さくお辞儀を返す。目元はよく見えないが、視線は基本的に下を向いているようだった。


同じフロアのやや離れた島、国内法人部二年目の茅ヶ崎至は海外法人部の異様な空気を感じてちらりと見やる。噂の新人と思しき男を見て、何とも言えない雰囲気になっているのも納得だった。心中お察しする。ただし他人事なので興味はない。

「よろしくお願いします、茅ヶ崎さん」

自分の課に配属になった新入社員の女の子に話しかけられて、爽やかな笑顔を向けた。


一方、千景は、新人の教育担当を任されて内心非常に面倒に思っていた。
千景は組織の任務のためにこの企業にいるのであって、ここで何か成したい仕事があるわけではない。割り振られた仕事は上々の評価を得られる程度には遂行しているし、業務時間外の飲み会も時々は出席する。程よい人間関係の構築は任務に必要だ。
しかし他人の……しかもつい最近まで学生だった新入社員の教育というのは、任務に関係ないばかりか、全く興味もやる気も出ない分野だ。今まで、新しいメンバーが他所から栄転または中途入社して加わる折に教育担当を任されそうになったことが何度もあったが、あの手この手で上手く躱してきた。今回こそは断らせない、という部長の笑顔の圧に、たまには大人しく頼みを聞いてやるかと思ってしまった自分を恨む。
苗字名前の挨拶の様子から、喧しく暑苦しい人間ではないことは明らかなので、それだけは良かったが……。

「苗字くんの教育は卯木くんに担当してもらうから、席は卯木くんの左隣ね」

部長が言うのに合わせて、千景は軽く手を振ってやった。顔には人好きのする笑顔を貼り付けてある。
千景を見て、部長を見て、名前は小さな声ではい、と返事をした。


名前が千景の近くへやって来る。前髪と眼鏡とマスクのせいで、近付いても表情はいまいち分からない。細身。身長は平均よりやや高く、顔が小さい。

「卯木千景だ。よろしく」
「……よろしくお願いします」

微妙に間を持たせて答えてから、ぺこ、と頭を下げる。
新人は挨拶だけ済ませると、今日から始まる研修のため別のフロアへと去っていった。

名前がいなくなった後、本当にあの子がうちの配属の子で間違いないのかと部長に真っ向から質問する社員もいた。
学生上がりの新入社員。伸びしろしかない若者とは言え、ここは粒揃いの部署である。外回りも大変多い。多少成長したとしても、コミュニケーション力が著しく低そうな彼がこの場所でやっていくのは無理なのではないか?……そこまでハッキリとは、流石に誰も言わなかったが。
部長は相変わらずニコニコしている。言外の思いも分かった上で、だ。

「苗字くんは語学が堪能なんだよ」
「語学って……。日本語のコミュニケーションも問題ありそうですけど」

一人の言葉に、何人かの社員が苦笑した。
嫌な空気だった。面倒くさい。千景は心の中で何度目かのため息をついた。

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