雨で濡れてしまった眼鏡を外して胸ポケットにしまい、さて、と千景が仕切り直す。
「あの部屋は引き払え」
「……そうします」
引っ越しは面倒だけれども、そうも言っていられない。複数犯が見つかっていないので家に帰ることもできないし、彼らが捕まったとしても、不審者に乗り込まれた部屋に住み続けられるほど名前の神経は太くない。
次の住まいへ引っ越すまではビジネスホテル生活になる。
名前は、お金がかかるなあとぼんやり考えた。今のマンションの中途解約金と新しいマンションの敷金、礼金、引越し代。引っ越しが決まるまでのビジネスホテル代。
引っ越しまで、最短でも三週間はかかるだろうか。出張がぽつぽつとしか入っていないので、引っ越しの準備は進めやすいが……。
ゲームの課金以外にお金を使う趣味はないので貯えはある。とは言え予定外の大きな出費が嬉しいわけもない。
じっとり濡れた前髪を雑に分け、名前も眼鏡を外した。雨脚は弱まってきている。
「すみません、卯木さん。遅くまで一緒にいてもらって、ご迷惑おかけして……お礼は必ずします。俺はそのあたりのホテルを探します。卯木さんも、早く帰って体を温めてください」
「待て、ストーカーの複数犯だぞ。一人でビジネスホテルに泊まるのはやめろ」
「え」
「引っ越すまでうちの劇団の寮に置いてもらえ」
「……え?」
「男所帯だし、流石にストーカーも入ってこないだろ」
これ以上ない名案だと確信した顔で千景は言うが、名前は慌てた。
「いや、そんな、これ以上ご迷惑はかけられません」
「別に迷惑じゃない」
「っいえ、卯木さんがそう言ってくださっても、急にそんな、得体の知れない奴を住まわせるなんて、」
「うちの監督は寮の前で寝てた記憶喪失の男を劇団員として勧誘した人だ。お前は俺と茅ヶ崎の会社の後輩だし、身元もしっかりしてるし問題ないだろ」
寮の前で寝てた記憶喪失の男……確かにその人と比べたら自分は得体が知れない人間ではないかもしれない。まさかそんな個性的な人を引き合いに出されるとは思っておらず、名前は二の句が継げない。
人にやたらと気を遣う上にコミュ障の後輩。寮生活は不向きかとも思ったが、克服のいい機会になるかもしれないし、何より自分の目の届く範囲に置いておくというのが重要だ。千景は、強行に押し通す。
「うちの寮が嫌なら、お前の新居が決まるまで、俺もお前と同じビジネスホテルに泊まる」
「え!?なんでそんな話に……!?」
「さっきも言った。複数犯で、見つかってない。一人にはしておけない。どうする?寮かビジネスホテルか」
どうすると言われても、選択肢を与えられているようで、片方は選べるわけがなかった。帰る寮があって、劇団の稽古もある人に、ビジネスホテルに連泊させることは出来ない。
「……劇団の責任者の方に、相談させてください」
「賢明な判断だ」
「……」
他を選ばせる気はなかった癖に……。
千景の強引さに、いつもなら名前もジト目で応戦したいところだが、自分のために提案してくれているのは間違いないので口を引き結ぶ。
この非常時に頼れる知人友人を、千景や至、MANKAIカンパニーの劇団員を除くと一人も思い浮かべられないのも事実だった。
「今日の稽古は……もう終わってるな。俺から監督さんにかけて、お前に繋ぐから」
「はい……よろしくお願いします」
緊張した面持ちの名前を見て目で笑い、千景は早速監督に電話をした。
会社の後輩の家に空き巣が入り、引っ越すことになった。用心のため引っ越すまでの間、寮に住まわせてやってほしい。
千景の唐突で簡潔な相談に、電話の向こうの監督は快い返事をしてくれたらしかった。千景が「ありがとう」と言っている。あまりにあっさり事が進むので名前は目を丸くした。
「じゃあ、本人に代わるよ」
千景から携帯電話を受け取り、まずは挨拶からと思って名前が口を開くより早く、監督さんが気遣わしげに「大丈夫ですか?」と声をかけてくれた。
「はい。卯木さんに助けてもらって……はい。すみません。ご厄介になってもいいでしょうか?……ありがとうございます。とても助かります……あ、はい。これから向かわせていただきます。はい。ではまた後で……失礼します」
名前がもだもだと何かを考える暇もなく、次々繰り出される監督の言葉に反射で返事をしていると、あっという間に通話は終わった。
対面でもないのに感じた監督のエネルギーに、名前はぽかんとしてしまう。心強いというか、タフな女性だ。
「取引先との電話じゃないんだから」
電話を千景に返すと、受け取りながら、千景はおかしそうにふふと笑った。なんだか久しぶりに千景の笑顔を見た気がして、名前は安心する。心配されるより、悲しい顔をされるより、この人には笑っていてほしい。
「緊張しました。まだ皆さん、起きてらっしゃるそうです」
「金曜だし、学生組も夜ふかししてるんだろう」
「……俺のコミュ力では……対応できない案件です……」
「いい特訓になるな」
「……」
どこか楽しげな様子の千景に、頑張ってみようかなと名前が前向きに考えられたのは、寮の手前までだった。
知り合いもいるが、知らない人の方がずっと多いのだ。商談モードで臨むのもおかしいだろう。素の自分で、沢山の人に、はじめましての挨拶……。難易度が高過ぎる。