ひとりふたり色どり 五
空港のラウンジでゲームをしながら、名前は搭乗の案内を待っている。これからタイへ向かう。日本は毎日うだるような暑さが続いているが、あちらは雨季の真っただ中だ。
七月。東南アジアチームは多忙を極めている。有り難いことに取引先と商談の数が増え、平尾と二人で東南アジアを一緒に周るのは日程的に厳しくなっていたので、少し前からタイは名前に任されていた。お酒の場には相変わらず苦労しているが、一人での出張には慣れつつある。

出張続きではあったが、その合間、夏組の公演をもう一度観劇することが出来た。同じ演目を二度観るというのは初めての経験だった。初見とは違う楽しみ方ができるのが面白い。
群馬で見た絵の感想を送って以来、一成とはちょっとしたことでLIMEをするようになり、本社に出社した日の夜に待ち合わせて食事をした。一成から誘われて行くことになったわけだが、その恐るべきコミュ力の高さに名前は感服した。会ったことのない人を食事に誘うなんて、自分には絶対に出来ない。
ゲーマー組とは度々共闘クエをしている。ボイスチャットを繋ぐかどうかは名前の状況に合わせてもらっていた。
一成からも、至や万里からも千景の話を聞けて、なんとなく身近に感じているが、実際には二十日近く会っていない。今日は千景が出張から帰って来る日だ。

卯木さん、元気かな。
ラウンジの大きな窓から空を見上げて、ぼんやりとそう思った。



この時期、欧州チームは出張の予定を組むのに工夫を必要とする。取引先の商談相手達の多くがバカンスに入るからだ。日本のお盆休みとは比べ物にならないほど彼らの休暇は長い。A社の担当者が休みの間にB社の話を進めて、休み明けのA社とC社が同時期になるようアポを取って……。出張の調整を千景から任され、浅田はてんやわんやした。
浅田に調整させた日程で、東南アジア二人ほどではないが千景も出張続きだった。名前と予定が合わず、七月中は下旬に一度しか顔を合わせる機会がなかった。その日は当然定時で上がって夕食に誘う。
久しぶりに会うので積もる話も多く、たっぷりお酒を飲んで、名前はしっかり酔った。

「卯木さん、げんきかなあっておもってました」
「……俺も思ってたよ」

にこにこしている名前。わざとそうしているのかと思うほど無防備に酔うので心配になる。

「あんまり可愛いこと言うと、口塞ぐよ?」
「なんですかそれ」

くすくす笑って。この酔っぱらいめ。
タクシーでは相変わらず千景の肩に頭を寄せてすやすや眠るので、千景は本気で悩む。こいつが酔っていない時に、一度きちんと言ってやったほうがいいかもしれない。自分以外にもこんな風だと、良くない。色々と。



八月の中旬になると出張ラッシュが落ち着き、名前も本社出勤の日が増えた。久しぶりに会った後輩を夕食に誘うつもりで声をかけたら、今日は平尾に飲みに誘われているからと断られてしまう。朝から不愉快な情報を聞いて、真顔になりかけた。
平尾。お前は出張に一緒に行ってるだろう。日本にいるときくらい自由にさせろ。
もちろん、そうは言わず「へえ、そうなんだ」と名前に返事をしてから平尾のほうへ向いた。

「平尾さん、俺も今晩ご一緒していいですか?」
「お?珍しいなー!行こう行こう!」
「ありがとうございます」

にこ、と愛想笑いをする。平尾は悪い人ではないので、千景も彼を嫌悪していない。ただ、後輩が絡んでくると話は別で、何かと邪魔な存在だった。

「なんすか飲み会っすか!俺も行きたいっす!」
「おーいいねー!浅田も来い!」

席を外していた浅田が戻ってきた。タイミングが悪い。喧しい二人と一緒になってしまったが、先約を入れられていたのが敗因だ。
絶対に早々に苗字を連れて帰ると決めて、退勤後に四人連れ立って平尾行きつけの居酒屋に向かう。日本酒がカウンターにずらりと並んだ狭く賑やかな居酒屋。壁には毛筆で書かれたメニューが乱雑に貼り付けられている。個室や半個室はない。換気扇がいまいち働いていないのか、人と酒の熱気で室内の空気が生ぬるい。

「平尾さんここ好きっすねー」
「居酒屋らしくていいだろ」

名前は平尾との好みの違いを感じながら、苗字ここ座れ、と言われた通り平尾の隣に座る。四人がけのテーブル。背もたれのない四角い木の椅子。隣とも正面ともなんだか近い。がやがやと賑やかな店内では、これくらいの距離でないと相手の話が聞こえないか。そんな風に考えながら、背中を丸める。

平尾の向かいに浅田を座らせて、千景は名前の正面に座った。喧騒の中で所在なさげな後輩が気の毒だ。

「店員さーん生四つ!」

雰囲気に酔っているのか、既に陽気な平尾がビールを頼む。平尾がこうして一杯目をまとめて注文するのには名前も慣れた。未だにビールは美味しくないが。
乾杯をすると平尾がグビグビと勢いよく飲み、浅田も続こうとする。浅田は特に酒が強いわけではないが、調子のいい性格から、周りのペースに合わせて飲み過ぎるところがある。それを平尾が大喜びするので、平尾と浅田が二人で飲みに行くと、二人とも記憶を無くすほど飲むのだった。

「卯木さんビールもう一杯いきます?」
「いや、シャンディガフにするよ」
「っす。店員さん生二つとシャンディガフ一つ!」

日本酒以外はビールカクテルしか置いていない。すぐに届いたシャンディガフを千景は名前に渡し、代わりに名前のビールジョッキを貰う。少ししか減っていなかった。
平尾と浅田は届いたつまみに何やら盛り上がって、二人のやり取りには気付いてない。

「あっ、ありがとうございます」

なんていい人だ。
シャンディガフはビールをジンジャーエールで割ったカクテルだ。ビールの苦味がジンジャーエールで抑えられ軽い飲み口になるので、名前もシャンディガフは好んでいる。名前には有り難い助け舟だった。

「浅田ー、おまえヨーロッパじゃ活躍しやがってー。俺んとこいる時から結果出せよー」
「アジア言語は守備範囲外っす!」

つまみを箸で突きながら、ニシシと歯を見せて笑う浅田。
フランス以外は元々守備範囲外で、ここまで結果を出せるようになったのはお前の自力じゃないだろう。と、心のなかで突っ込む。笑顔を何重にも貼り付けていないと、千景はこの二人と一緒に過ごせない。

「苗字は手もかからないしよく出来た子だよほんと。ありがとねー。はい乾杯」

平尾が猫なで声で名前に笑いかけて、乾杯をさせて飲ませる。度々乾杯を求めてくるのも平尾の癖だ。これに応えるのも慣れたもので、平尾のジョッキに自分のものカツンと軽くあてた。

「卯木ごめんなぁ、苗字もらっちゃって!正直去年より楽だわぁ」
「ちょっと!ひでえっすよ!平尾さん!」

平尾の言葉に、微笑んで見せるだけで留めておいた。何も言うまい。物騒な思考を外に追いやるためにドリンクメニューを開く千景の隣で、浅田が大きな声を出す。煩い。

「浅田、次、何飲む?」
「あっ俺、久保田たのんます!すんません卯木さん!」

浅田の先輩社員への接し方は信じ難いくらい砕けていて、名前は浅田のこういうところがすごいと思う。自分もこれくらいコミュ力があればなと羨ましく見ながら、シャンディガフを飲み終えた。

「苗字つぎ何飲む?俺のオススメはねー、これ。店員さん、ばくれんニつー」
「平尾さん、後輩をいじめるのは良くないですよ」
「いやー苗字もさー、そろそろ日本酒飲めるようにならないと!ニ年目だぞ!?」
「はい、……?」

届いたお猪口を、わけのわからない理屈でひとつ名前に持たせ、また乾杯させた。
平尾がばくれんを飲む間に名前の手のお猪口をすいと奪い取り、千景があっさり飲み干す。ばくれんがどんな酒か分からないが、自分には合わない辛口のものだったのだろうか。千景を見ていると、疑問に答えてくれた。

「苗字には辛いよ。そうだな……ひめぜんなら甘いんじゃない?」
「それなら飲んでみたいです」
「ひめぜん!女子が飲むもんだよありゃ」
「へー。俺も飲んでみよ。苗字二つな!」
「はい」

甘い日本酒があるならぜひ飲んでみたいと思い、店員さんを呼び止める。

「卯木さんは何にしますか?」
「じゃあ、日高見で」
「卯木は相変わらず辛口好きだなー」

届いたひめぜんは確かに名前でも飲めるほど飲みやすかった。甘く爽やかで、適度な酸味もある。浅田には甘すぎたのか「うお、甘!」と言って三口で飲み、次は別の酒を頼んでいた。
浅田さんもお酒に詳しいのかなあ。ぼうっと浅田を見ていると、その男が「ヨーロッパも面白いけど、タイ出張がなくなったのだけは残念っすね。ゴーゴーバー楽しかったもんなー」と言い出すので、名前はぎょっとする。
初めてのタイ出張での会食後、平尾が名前を連れて行こうとした店がゴーゴーバーだった。そこがどんなところか後になって知って、名前は平尾をジト目で見やった。行きたい人は行けばいいけれど、知識や意志のない人を連れて行こうとするなんてひどい。あの時店に引っ張り込まれなくて本当によかった。

「浅田はハジケてたもんなー。毎日ゴーゴーバー行って女の子と遊んでさー。流石二十代!」
「でも俺と平尾さん、好みが似てて、指名する子がよく被るんすよー」
「へえ」

物凄くどうでもいいことを楽しげに語られ、千景は雑に相槌をうつ。そろそろ帰ろう。煩い店内に喧しい同僚、下品な話。仕事より疲れる。正面の後輩は、空のお猪口を持ったまま険しい顔をして浅田を見ていた。

「平尾さんと苗字は取り合いにならないんすか?あ、店員さん!北秋田とー、苗字はひめぜん?卯木さんは日高見っすか?」
「俺も日高見っ。お前、取り合いどころか、苗字は店に連れてってやったのに帰っちゃうんだぞ。面白くないだろー」
「マジで!?お前タイで遊んでねえの!?」
「浅田、声量を抑えろ」

身を乗り出さんばかりの浅田を千景が制する。浅田は「すんません!」と言ってテヘと笑って見せた。浅田は元々声量が大きく、驚いたり興奮したりすると近くにいる人間の耳を声でつんざくのだ。

「苗字は絶対一軒目で帰るんだよー。もっと上司と遊んでくれよー」

しくしくと泣き真似をする平尾、タイで毎日遊んでいたという浅田を、警戒するように名前は目を細めた。彼らの言う「遊び」に巻き込まれたくない。
ニ杯目のひめぜんを一口飲んで、メガネを外す。ビールを少しとシャンディガフ一杯、ひめぜんを一杯と一口。いつもより酔うのが早い。大丈夫かと千景が聞くと、名前は「なにがですか?」ときょとんとした。幼い子どものような邪気のない表情。自覚はないのだろうが、酔っている。

「おっ、苗字ちゃんきた」
「苗字ちゃん?」
「酔うと可愛いだろー。タイのお客さんで、商談の最後に苗字チャンアイタイって言う人がいてさあ。それ会食のお誘いなの」
「へー。まあ、この顔なら、ほんとに狙ってるお客さんもいそーっすよね」
「いるだろうねえ」

繰り広げられている会話が最悪だが、お猪口に口づけている後輩は、間違いなく可愛い。

「明日に響くぞ」
「まだのみたいです」
「駄目だ」
「えー!いーじゃんいーじゃん!明日は金曜日!卯木も飲め!酔え!はい日高見追加ー!」
「俺も久保田追加ー!」
「ひめぜんください」
「……はぁ」

もう隠すこともなく千景がため息をつくと目をぱちくりする後輩に、次で最後にしろと念をおす。はぁい、と間延びした返事が新鮮で、もう一度聞きたくなった。

「苗字ちゃんは彼女作んないの?」
「……かのじょはつくるものですか?」
「ぶっは!何だその質問!」
「そうそう、粘土でこねこねーって」

浅田がゲラゲラと笑うのを、名前は不思議に思う。店員が運んできたお猪口四つを受け取る際、店員は名前を見て熱烈な視線を送ったが、気付かれずに終わった。

「苗字ちゃん、二十三だっけ?遊び盛りじゃん!彼女でもセフレでも何でもつくれ!」
「平尾さん、コンプラ室に通報します」
「そっそれはやめてマジでごめん、もう怒られたくないの……コンプラ室こわいの……」

平尾は数年前にコンプライアンス室、通称コンプラ室に厳しく叱られたことがある。千景や浅田が入社する前のことなので詳細には知らないが、酔っ払って後輩に迷惑をかけたらしいと伝え聞いていた。その件を話に出されると平尾は小さくならざるをえない。

飲み始めてから一時間半が経過していた。もういいだろう。名前が飲み終えた頃合いを見計らって千景は立ち上がり、名前の腕を引いて立たせた。名前がしっかり立っていられずによろめくので、背中に手を添える。

「だいぶ酔ってるみたいなんで、連れて帰ります」
「え!?もう!?明日金曜日よ!?」
「卯木さんはまだまだ酔ってないじゃないすかー!」

二人の言葉を笑顔で流し、机に適当に金を置いた。また明日と告げて、名前を連れて店の外へと向かった。
外は暑かったが、さっきまでいた居酒屋より空気は美味しい。
名前は腕を引かれるまま、千景について歩く。タクシーが通る場所まで少し歩かなければならなかった。

「卯木さん、まってください」
「何?」
「おかねいくらですか」
「いらないよ」
「だめです」

立ち止まって鞄から財布を出そうとするので、「いいから」と手を掴む。その千景の手に、名前は掴まれていないほうの手を重ねた。
心臓が引きつるように疼くのを、千景は顔に出さない。

「だめです。いつもはらってもらってます」
「普通だろ。お前より年上なんだから」
「どうして年上のひとがはらうんですか?」

名前は酔うと、時折こうした質問をする。いつも抱いている疑問が、酔いで素直に言葉にできるのだろう。さっき、彼女を作らないのかと平尾に問われて「彼女は作るものなのか」と聞き返したのもそうだ。言葉には少し拘りがある名前らしい切り返しだと千景は思った。

「苗字にとって、彼女は何?」
「……きゅうですね?」

どうして今それを聞かれるのか名前は分からなかったが、自分の中に定義のようなものはあるので、答えは迷わない。

「すきなひとと、そうしそうあいになったときの関係を、彼女とか、彼氏っていうとおもいます」

彼女とは、結果的に出来あがる関係のこと。作るものではない、と、名前はそう言いたいのだ。呂律が廻っていないのはともかく、概ね千景が想像した通りの回答だった。生真面目な後輩らしい考えだ。

「……好きな人っていうのは?いるのか?」

思わず聞いてしまった。
聞こうと思ったわけではない。この後輩が、自分の手に触れているから。だから言動に乱れが生じたのだ。考えを顔に出さないよう努めていたが、まさか言動まで乱されるとは。
内心穏やかではない千景に、名前は事も無げに「いますよ」と言った。優しい顔で肯定されて、息を呑む。

「卯木さんと、ちがさきさんと、万里と、かずなりと、」
「……はぁ」

名前が並び立てた名前を聞いて、理解し、脱力した。一瞬の間に緊張したこちらが馬鹿みたいだ。でも、まあ、一番最初に自分の名前を出したので、許してやろう。

「俺も好きだよ」

このポンコツめと、重ねられていないほうの手で頬を柔くつねってやった。さらさらのきめ細かい頬は、あたたかく火照っている。心臓はやはり引きつって変に疼くが、それも悪くはなかった。

次の日、名前は飲み会の後半から朝目覚めるまでの一切を覚えていなかった。日本酒を飲むと記憶が飛ぶらしい。

「俺、何か変なこと言ったり、迷惑かけたりしましたか?」

心配して聞いてくる名前に、千景は「特に何も?」と涼しい顔で返事をした。

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