悪辣と白百合
真夏の熱気も落ち着いて、出かけるには丁度よい気温の日が続いている。

予定の合う休日にどこか車で行ける美術館に誘おうと千景が名前に声をかけると、それには頷いた。自分に都合のいい補正がかかっているのかもしれないが、嬉しそうに見える。
前と同じようにマンションまで車で迎えに行くと言えば、遠慮がちに、待ち合わせは最寄り駅から数駅離れた都心部にしてほしい、と名前は千景に頼んだ。

「それは構わないけど、何か用事があった?日にちを変えようか」
「いえ……用事はないんですけど……」

俯きがちに歯切れ悪く話すのを、千景はじっと待った。

「……いま、誰かに付きまとわれてる気がしていて……家の周りに来てもらうのは、ちょっと」

念のために避けてもらいたい。言いにくそうではあったが、名前の様子からは恐怖がほとんど感じられない。困惑しているようでもない。話の内容と同じくらい、その状況への名前の構え方が気になって、千景は眉をしかめた。

「いつから?」
「……そうかも、と思ったのは先週の半ばからです。気のせいかもしれませんけど、多分……」
「これが初めてじゃないんだな」

小声で、はいと肯定する。

誰かに後をつけられている、と感じたのは初めてではない。過去に何度か経験があるし、そのうち一度は相手と目が合ったこともある。
大学生の時だった。背後に人の気配を感じる日が何日か続いた。バイト帰りの夜道で、誰もいないで欲しいと願いながら後ろを振り向くと、三メートルほど離れた電柱の陰に隠れている男と目が合ったのだ。暗闇の中でぎょろりと光る目を忘れられない。気のせいじゃない、あの目は自分を見ていた。
一か月近くも気味の悪い視線を感じ続けて、ある日突然、それは無くなった。
ストーカーの存在に気付いて、視線や足音に耐えていると、いなくなる。そういうことが何度かあった。後ろを歩かれる以外は特に何をされるでもなかったので、初めは抱いた恐怖も次第に薄れていく。今ではもう、視線に気が付くとうんざりする境地に至っている。
警察に相談したこともあるけれど、後をつけられている気がするというだけでは何も対処してはもらえなかった。

「今日、お前の後ろを着いていく」
「……え?」

警察に届けろと言われることを想定していたので、千景の予想外の言葉に驚いた。

「いえ。そんな、大丈夫です」
「どうして大丈夫だって言い切れるんだ?今まで直接的な被害はなかったのかもしれないが、今日何かあるかもしれないだろう」

正論だ。でも、これまで何もなかったのも本当だ。先輩に迷惑をかけたくないと、名前は慌てて断る。
いいです。気にしないでください。大丈夫です。何度名前が断っても、千景は頑として譲らない。

「もしも卯木さんに何かあったら困ります」
「問題ない。そこらへんの警察より俺は動けるから」

冗談のようなことを言う。でも、冗談じゃなさそうだとも感じる。
何と言ったら聞き入れてくれるのだろう。他の断り文句を考える名前に、次の会議に遅れるぞ、と言い残して千景は先を歩いていった。



定時を少し過ぎた頃にはすっかり日は暮れていて、帰り道は薄暗い。名前が一人暮らしをしている地域は、駅周辺こそ多少賑わっているものの、郊外に向かって五分も歩けば人通りも街灯も少なくなる住宅街だ。
その、人気のない帰路。自分の数メートル後ろを先輩が歩いている……と思うのだが、視線を感じないし、足音も聞こえないので、本当に後ろにいるのだろうかと名前は不思議だった。定時ちょうどに『普通に帰れ。着いていく』というLIMEを貰ったし、恐らくいるのだろうが……ストーカーよりよっぽど尾行が上手い先輩。謎めいている。
やたらと心強い先輩がいてくれるという安心感と、今日はストーカーがいなさそうだという感覚。嫌な視線を感じない。自宅マンションが見えてきて、名前はふっと安堵のため息をついた。今回のストーカーも、自分への興味をなくしてくれたのだろう。
何事もなくて良かった。でも、先輩に迷惑をかけたのは変わりないので、家に上がってもらって、夕食を振る舞おうか。振る舞えるほどの腕前はないけれど、ありがとうございましたさようなら、というわけにもいかない。
マンションのエントランスに入って携帯電話を取り出し、LIMEを送った。

『いなかったですね。すみません、ご足労おかけして』
『念のため部屋の前まで行く』
『うちで夕食たべていきませんか』

お誘いをすると、こつ、と軽く頭を小突かれた。千景は「お前な……緊張感を持て」と眉間にしわを寄せている。
そう言われてもここのマンションのエントランスより先は施錠されていて、入居者しか入れないようになっているのだ。一介のストーカーには突破できないだろう。
エレベーターで五階へ上がる。エレベーターを降りると、それまで平然としていた名前だが、突然ぞわっと寒気を覚えて立ち止まった。すぐ後ろにいる千景が「どうした」と声をかける前に名前が千景の首元に顔を寄せ、ほとんど息だけで喋る。

「部屋の中に、いるかもしれません」
「……どうしてそう思う」
「家を出るとき、念のためシャーペンの芯をドアに挟んでるんですが……折れてます」

名前に教えられた部屋番号の扉。エレベーターからそれほど離れていないその扉の最下部に、僅かに挟まった黒く細い針のようなもの。廊下の床には、折れて落ちたものもある。
自衛していることを褒めるべきなのか。そんな対策を日課にするほどストーカーに慣れているのを驚くのが先か。
いや、何より、部屋の中にストーカーがいるかの確認だ。

「鍵、貸して」
「……警察を呼びましょう」
「ああ。呼んでおいて」
「卯木さん」

部屋に向かおうとする千景の腕を、名前が強く引いた。
マンションの鍵を開けられたのは初めてだ。ここは一般的なセキュリティを備えたマンションなのだ。向こうも、それなりに計画と準備をして来ているのだろう。これまでの人達とは違う。
先輩は運動神経がいいのかもしれないし、これだけ一人で向かう自信があるということは、空手か何かの武道をやっているのかもしれない。それでも、危ないところへ、自分のために行かせるわけにはいかない。

「卯木さん……!」
「大丈夫だ。離れてろ」

安心させるように名前の髪をぽんぽんと撫でてから、大丈夫と頷いて見せ、手を離させる。意外に強く掴まれていたことが嬉しくないこともないが、今は浮かれていられない。
するりと盗むように奪った鍵で、部屋に入る。センサーが反応して玄関と廊下の明かりがついた。玄関に靴はない。
リビングまで続く廊下やキッチンに荒らされた様子はない。リビングの扉の先に人の気配はないが、リビングの隣、寝室に潜んでいる可能性はある。
名前がするように、手を洗う……水音を立てる。そしてリビングの扉を開ける。誰もいないが、寝室からは物音が聞こえる。誰かがいる。

千景はあえて足音を立てて歩いた。
足音に気づいたらしい侵入者が「名前くーん?おかえり!」と元気よく声を上げて寝室から出てくる。
蛍光色のTシャツに短パン姿で体格のいい侵入者は、部屋に入ってきたのが目当ての人物でないと知ると狼狽えて、短パンからサッと携帯電話を取り出しながら後ずさった。

「なっなんだテメェ!」

男の怒号にも千景は怯まず、距離を詰めてあっという間に男を床に叩きつけ、後手を押えて動きを制した。

「なんだテメェ、はこっちの台詞だな。……誰に連絡を取ろうとした?」
「あ!?離せクッソが……ィイってェ!」

いつの間にか身につけた黒手袋で男の指をあらぬ方向に曲げようとする。ギリギリのところで止めてやり、低く冷たい声で問い詰めた。

「質問に答えろ。仲間がいるな?誰に連絡を取るつもりだった?」

言いながら、男の短パンに突っ込まれた財布から免許証を取り出して目を通す。そして男の腕や指に再度力を込めた。男が呻く。

「大人しく吐けば警察沙汰で済ませてやる」
「テメェなんなんだ!俺はただ……ッ!」
「質問に答えろ。連絡を取ろうとした奴の名前」
「っ……」

男が渋々挙げた名前。千景は男の携帯電話を指紋認証で開かせ、名前が挙がった男らの連絡先を記憶した。仲間を守るため、或いはこの場から逃れるために適当に名前を挙げた可能性もあるが、連絡先として登録されていた名前だ。手がかりにはなるだろう。
男は千景を恐れてしばらく藻掻いていたが、パトカーの音が聞こえると、そちらのほうが安心したようで、脱力していた。



警察官が二人駆けつけた時、名前は混乱してしっかり説明出来ない上に、しばらくは立っていられなかった。
まさか、こんなことになるなんて。自分の見当の甘さから千景に多大なる迷惑と負担をかけてしまった。無傷だったから良かった、とはとても思えない。

名前も千景も、その場で警察にいくらか事情を聴かれた。しかし家主の名前が混乱し項垂れていては、事情聴取もあまり進まない。

「明日、二人で警察署に行きます。改めさせてもらえませんか。彼も精神的に疲れていますし……」

千景の頼みに、渋々ではあったが了承を得られた。部屋は指紋をとったり痕跡を調べたりする必要があるとのことで、今日は軽めの荷物を持って安全な場所に泊まるように、と言われ、二人は開放されることになった。海外出張用のスーツケースに適当に荷物を詰めて部屋の鍵を警察に預ける。

マンションを後にして、言葉なく最寄り駅に向かう名前は後悔に苛まれている。
その隣を歩く千景もまた、とても冷静ではいられなかった。

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