悪辣と白百合 二
外気はひどく湿っている。暗鬱とした曇り空が邪魔をして、月も星も見えない。
夜道は静かだった。スーツケースのキャスターがコンクリートと摩擦する音がやけに大きく聞こえるほどに。



名前は、物心ついた頃にはもう、父と母の不和に挟まれている状態だった。父は仕事熱心だったが、今になって思えば、家に帰らないで済む理由として仕事を使っていたのかもしれない。母は、少女のような若い心を持て余していて、母になりきれない人だった。母にきつい言葉をかけられたことはないけれど、息子である自分を愛してくれていたのかはよく分からない。離婚して日本に行く時、そして再婚と二度目の離婚をする時も、彼女は名前の気持ちを聞いたり、謝ったりすることはなかった。名前には、母親が自分の意志を第一にしているように思えた。
父にも、母にも、真意を聞くことはもう出来ない。二人はもう亡くなっている。

元来の心優しさに、家庭環境が相まって、名前は聞き分けのいい子どもに育った。「かまってもらえず寂しい」とか、日本に来て一層強く感じた「幸せそうな同級生が羨ましい」という思いがなかったわけではないけれど、口にしたことはほとんどない。心の内に抑え込み、再婚相手の家族−−特に義理の兄との最悪な関係に耐え忍ぶうち、そういった思いは無くなった。
幸せなど、諦めたほうが空しくならない。縁のないものだと割り切ったほうがいい。

内へ内へと気持ちを閉じ込めるのと同じくして、名前はその目立つ容姿を、マスクと眼鏡と前髪で隠した。
人と積極的に関わるのをやめてしばらくすると、社交の場が苦手だと感じるようになり、他人とコミュニケーションをとるのが難しくなっていった。それが益々孤立を深めることになり、一人でいることが当たり前になった。
大事なものの無い独りぼっちは、幸せではなくても、気楽だった。

生温い安寧のような孤独を壊したのは、会社の先輩だ。
名前の内面に踏み込もうと意図して入って来たわけではないだろう。千景はただ、会社とプライベートで大きく線を引く風変わりな後輩に「そのままでいいんじゃない」と言っただけだった。
たったそれだけの言葉が、ぽちゃんと心に落ちて染みる。
溶かされてしまう。
いやだと思った。
けれど、受け入れられて嬉しいと思う心を止められなかった。
一緒に仕事をするのも、食事をするのも、美術館に行くのも、楽しかった。新しい出会いをもらって、世界が広がっていった。大事なものができた。



最寄り駅に向かう道すがら、名前が立ち止まった。千景も足を止める。
名前の頭の中は今もぐちゃぐちゃで、何かが言葉になろうとしているのに、声にならない。少し口をあけてはつぐむのを何度か繰り返しているうち、頬が濡れた。雨が降り始めた。

「……卯木さん、本当に、怪我はないですか」

雨のようにぽつりと言う。頼りなくて、輪郭がはっきりしない声。
名前の問いに「ないよ」と何でもないことのように言ってみせる千景。名前は黙り込む。体の中で自己嫌悪が暴れている。
千景に怪我がなかったのがせめてもの救いだ。でも自分が最悪なことには変わりない。自分のせいで、大事な人を危ない目にあわせてしまった。何としても止めるべきだった。放っておいてくれと突き放すべきだった。いや、違う、最初から、自分の状況を話すべきではなかった。

「大丈夫だって言っただろ?」

名前を慮って宥めようとするような声色。それが名前には余計つらかった。雨に打たれるくらいでは頭を冷やせない。

「そんなの、結果論ですよ……!」

カッとなり、先輩相手に噛みつくように言う。
名前の、鋭く、しかし奥底で怯えているような声に、千景の努めて落ち着かせていた心が揺れた。

「……結果論か。お前こそ、わかってるのか?」

低い声で抑えつけるように言われて、名前は息を呑んだ。

「今日まで直接被害がなかったのは偶然だ。もし部屋の入口の仕掛けにあいつが気付いてたら?連中に捕まってたら?……わかってるのか?」

オートロックのマンションだが、エントランスどころか、部屋にまで入られていた。複数犯で、もう少し時間が経てば、あの男の仲間が来ていた。名前には警察も配慮して見せなかったが、あの男は寝室で自慰をしていた。名前の服や布団は男の精液で汚されていた。
この後輩がいつも通り一人で帰路につき、今日はストーカーがいない、と油断して部屋に入っていたら。何が起こっていたか、想像に難くない。男と正面で向き合った時には感じていなかった恐怖が別のところからやってくる。さっきから、血の気が引いたように体が芯から凍えている。その上、空が泣き出すものだから、千景はもう感情を抑えられなかった。

「危機感を持て。人を頼れ。……何かあってからじゃ、遅いんだ……!」

名前が驚いたのは、千景が声を荒げたからでも、恐怖を煽られたからでもない。千景が、泣いているからだった。

今日は運よく助けられた。でも何かが違えば、失っていたかもしれない。命はあっても、心を壊していたかもしれない。
オーガストとディセンバーを失くした喪失の感覚を、忘れられない。これ以上の悪夢は無いと思った。命は二度と取り戻せない。歪に傷ついたものは、そう簡単に修復できない。痛いほど知っている。
またあんな思いをするのはごめんだ。
大事なものを失うなんて、二度と。

「卯木さん」
「……昔、大切な人を失くした。血の繋がりは無くても大事な家族だった。……俺はもう、大事なものを、失くしたくないんだ」
「……卯木さん、……ごめんなさい」

車で美術館に連れて行ってもらった日に千景に言われたことを、名前は今更噛みしめる。
今お前のことを大事に思ってる奴や、今お前が大事にしたい奴と、もう少し向き合ってみてもいいんじゃないか。そう言ってもらったのに、相変わらず、自分を軽んじていた。自分を軽んじるということは、自分を大切に思ってくれる人の気持ちを蔑ろにすることだ。
ひどいことをしてしまった。自分を気にかけ、自分のために泣いてくれる人に。

「ごめんなさい。……ごめんなさい」

もう、それしか言葉がない。頭を下げる。足元に涙がぽとぽと落ちて、雨といっしょになった。

「……苗字。顔を上げろ」

千景の力のない声に、胸が締め付けられた。名前はスーツの袖で涙を拭う。

「はい」

目と目があう。また名前の目に涙があふれた。雨に濡れ涙に濡れて、嗚咽をかみ殺して、情けない有り様の名前を、千景が優しく見つめている。

「人を大事にするように、自分を大切にしてくれ。……頼む」

優しい願いを受け取って、名前が頷くと、千景は名前の頬に手を伸ばして涙を拭った。

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