何かと騒がしい週だった。
ある五月の夕方。仕事終わりにスーパーへ行く途中、細い抜け道で猫を見つけた。首輪はしていないが、ふっくらした猫だ。毛並みもいい。このあたりの家猫なのだろうか。猫は警戒することなく近寄ってきて、名前の足に額をこすりつけた。
可愛い。この小さな生き物への慈しみが心にじんわりと湧く。撫でたい。けれど、それは猫に嫌がられる気がして、出来ない。
猫が満足するまでじっとしていると、猫は徐ろに路地の奥へとことこ歩いていく。そして名前へと振り返り、何やら訴えるように鳴いた。なんだろう。よく分からず立ち呆ける名前に、猫が数メートル先でにゃーにゃーと呼びかける。まるで「着いてこい」と言わんばかりに。
猫に案内されるまま歩いていくと、広い空き地に出た。そこには猫が何匹もいて、一人の男を取り囲むようにして座っている。猫たちはナンナンと喋るように鳴き、名前に背を向けている男は、いたって普通に人と話すように猫に話しかけていた。
……井戸端会議?
「あ。猫さんにお誘いされたんだねー」
猫たちと男の様子をきょとんと見ていると、男がぱっと振り向いてそう言った。
薄い青髪の青年が名前に笑いかける。たれ目を細めてゆるく笑う青年につられて名前も気が抜ける。
名前をここへ案内してくれた猫がまた足に擦り寄って鳴くと、青年は今度はニシシと楽し気に笑った。
「いいにおいがするんだってー」
「……猫の言葉がわかるの?」
「うん。わかるよー」
事もなげに言う青年に、名前は心から「羨ましい」と呟いた。
遅くまで会社に残って残業をした日。夜道で、ど派手な服装の男三人に道を塞がれた。男達に見覚えはなく、彼らから威圧的な目を向けられるような事をしてはいないと思うが、名前はこんな風に絡まれるのが初めてではなかった。根暗そうな外見が変に目立つのか、金をゆすられたり、いちゃもんをつけられることがあるのだ。
「金出せよ」
ほらきた。内心、大きくため息をつく。面倒だ。早く帰りたい。
周りに通行人はおらず、すぐの助けは望めそうもなかった。来た道を走って戻るか……。
そんなことを考えていると、後ろから男に羽交い締めにされた。もう一人いたのか。仕事に差し支えると嫌なので、顔は殴らないでほしい。
今の状況をどこか客観的に捉えている名前の反応が、彼らには面白くないのだろう。正面の男が近寄ってきて、片足を上げ、硬い靴底で名前の腹に圧をかけてくる。痛くはない。でも、今に蹴られるんだろう。
「聞いてんのか?」
スーツが汚れるのはまだいいとしても、この靴で蹴られたら痛そうだ。羽交い絞めにされているのは厄介だった。どう逃げよう。この人達、金を渡せば気が済むんだろうか。
数日前、この近くの道で、名前は引ったくりに遭った男を助けた。助けたと言っても、引ったくりが偶々名前のいる方へ走って逃げてきたので、足を延ばして転がしただけなのだが。あの時は周囲に人がいて、誰かがすぐに警察を呼んでくれた。
鞄を持ち主の男性に返すと、彼は安心してほぅと息をつき、綺麗に微笑んだ。恐らく、いくらか年上だろう。自分には到底出せない大人の色香があった。長い銀色の髪がよく似合う。その人は「お礼をさせて」と言ってくれたけれど、名前は断って、逃げるようにその場を立ち去った。
その数日後に、これだ。この辺りはいつから治安が悪くなったのだろう。
「金。いくら持ってんの?」
右の男が名前のビジネスバッグを取り上げようとするのを、反射で振り払った。すると一層彼らの表情が厳つくなる。正面の男が足で腹を圧してくるのが、そろそろ苦しい。
「おい」
後ろから、男の声がした。一瞬彼らの仲間かと思ったがまだ幼さの残る声だ。彼らとは関係ないかもしれない。
「四対一かよ。立派な喧嘩だな」
「あぁ?んだこのガキ」
無関係なのはよく分かった。それならすぐに立ち去ってほしい。どうして煽るようなことを言うんだ。
早くどこかへ行ってくれという名前の思いとは反対に、少年は、名前を羽交い締めにしていた男の首に蹴りを入れた。男が倒れるのと一緒に急に解放された名前も倒れそうになったが、少年が支えてくれたので転倒は免れた。近い距離で少年の黒髪がなびく。
男達が何事かを怒鳴っているが、少年は全く狼狽えなかった。正面から男達を見る目は冷ややかだ。
「待って」
放っといて。逃げて。と、名前が口を開く前に少年は残りの男三人を見事な立ち回りで倒してしまった。呆気にとられる名前に、少年は「大丈夫か」と歩み寄ってきた。声の印象より、顔立ちは大人びている。高校生くらいだろうか。
ありがとうと言おうとした時、駅の方から「どこ行った泉田ァ!」と叫ぶ声がした。
「俺も面倒くせえ奴ら撒いてるとこだから。行くわ」
泉田というのが少年の名前らしい。明らかに怒り混じりの叫び声だったが、やはり少年は淡々としている。
「……大丈夫?」
「アンタが心配すんのかよ」
少年は呆れた風に薄く笑って、走って行ってしまった。
仕事終わりになんだか色々とある週だったが、今日は何事もなく帰宅した。食事も風呂も済ませてゲームを起動する、金曜の夜のこの瞬間が好きだ。愛用のヘアバンドで邪魔な前髪を後ろにやって、画面の前に座り込む。
同じ頃の、MANKAI寮。リビングにいる千景に至が声をかけた。
「今日は配信じゃなくて万里とゲームするんで、部屋にいてもらっていいですよ」
「そう。でも、いいよ。適当にしてるから」
「いやいや、面白いゲームなんで、気が向いたらぜひ見に来てください」
「……?」
同室をするにあたり、俺のゲームへの没頭を邪魔しないこと、なんて条件をつけてきた至がぜひ見に来てと言うなんて、珍しい。
ゲームにはほとんど興味がないので千景が「気が向いたらな」と返事をすると、至は万里を連れて自室へと引っ込んだ。
口を挟まずに至と千景のやり取りを聞いていた摂津万里は不思議に思う。これからするゲームが、千景にとって面白いもの?別に珍しくはないオンラインのシューティングゲームだと思うが……。まあ、あの人とは知り合って間もないので知らないことの方が多いし、と気にしないことにした。至からコントローラーを受け取りゲームを起動させる。
今日はブラウォーのイベントを走り終えた休息日。久しぶりにこのゲームをしようと話して決めていた。起動を待っていると、至がにやりと笑った。
「今日はゲストがいまーす」
「は?」
画面が切り替わる。至が選んだのは三人一組のバトルロイヤル。このゲームは二人一組、三人一組、四人一組、そして一人で戦うソロの四つのモードがある。至、万里、そしてゲストの一人でチームを組むということだ。
別に誰が来ても構わないが、言えよ。万里がそうぼやくのを至は軽く笑って流した。
そうしているうちに、チーム画面にプレイヤーが追加された。ボディビルダーのような体に猫の頭のアバターが、こちらに向かって手を振っている。アバターの足元に表示されたプレイヤー名を見て、「うお」と万里が反応した。ブラウォーのランキング上位に入っているのを何度か見たことがあるし、対戦したこともある。
「名前聞こえるー?」
「はい、聞こえてます」
「は?至さん、知り合いなんすか」
「そ。最近共闘もしてる」
「マジっすか」
名前は、至と同じ劇団のゲーム仲間も今日一緒にゲームをすること、それがブラウォーのたるちのフレンドで、たるちと並んでトップランカー常連であるNEOだということを予め説明されていた。初対面の相手というだけで緊張するが、あのNEOさん、と、有名人を前にしたような緊張も上乗せされる。至に今日のお誘いをもらってから、心の準備はしてきたつもりなのだが足りなかったらしい。
「……NEOさん、初めまして。よろしく」
「どーも。至さんと同じ劇団の、」
「万里準備はよ」
「今挨拶してんだよ!」
万里が喋るのを遮って至が急かす。
会社の人が見たら驚くだろう、マイペースでややぶっきらぼうな態度。何度かのブラウォーの共闘を経て、廃人ゲーマーである素の至に、名前も慣れてきた。こちらの茅ヶ崎至のほうが接しやすいと名前は思う。
「名前、俺はこいつのこと万里って呼ぶからヨロ」
「はい」
「これやるの久しぶりだわー。どこ降りる?」
「どこでも。つーか説明してくんね?どこで知り合ったんすか?」
ゲームを進めながら、主に至と万里が話をする。名前は二人のやり取りを聞きながら、せっせと強い武器と防具を集めていく。
「会社の後輩」
「説明雑っ」
「万里そっちワンパいる」
「へーい」
「NEOさん、そっちにもう二組行ってます」
「マジか。武器ゴミなんすけど……!」
「待ってろ万里!今助ける!」
「とか言いながらコーラ飲んでんじゃねえ!」
兄弟のような万里と至に、思わず名前は笑った。
万里のところに名前も駆け付けて、二人で三組をダウンさせる。
「名前さんだっけ?あざっす」
「いえ。NEOさん、回復持ってますか?」
「回復は持ってる。つーか万里でいいし、ため口でいいっすよ。そっち年上っしょ」
「あ、ええと、うん」
「ずる。名前俺のことも名前ため口でヨロ」
「……」
「困ってんじゃん」
「名前は真面目だからなーっとあぶねー、殺すぞ雑魚」
至が遠距離で重たい一撃を受けたところから混戦となり、一試合目は一位を取れずに終わった。
すぐにニ試合目を始めるが、至がさっきの対戦相手についてぶつぶつ言い続けている。それを万里が煽ったり慰めたりしているのが微笑ましい。
二試合目の初期武装を整えていると、不意に万里が「うっす、お邪魔してまーす」と言った。
「先輩来たよ、名前」
思わず姿勢を正す名前。
千景は、画面越しに後輩の「お疲れ様です」という声が聞こえて驚いた。至が誘ってきた理由も、よくわかった。ソファに座り、足を組んでゲーム画面を見つめる。
「ああ、同じ会社だもんな」
「そ。名前は先輩の部署」
「へえ。じゃあ名前さんも海外出張多いんすか?」
「まあ……あ、万里ワンパ行った」
「っす」
「やべ、こっちうじゃうじゃいる。紙装甲なんだが」
「茅ヶ崎さんの方いきます」
「助かる……あ、死んだわごめん」
「回収します」
至のキャラクターがダウンすると、至の画面は自動で名前のプレイ画面に切り替わる。
「……苗字のキャラクターは可愛くないな……」
思わずという風に千景が小さくつぶやく。
至のアバターは、格闘ゲームとのコラボの際に限定配布された美少女キャラクター。万里のアバターはひょうきんな顔の半魚人。どちらも千景が可愛いと思うものではないが、一般的には人気がありそうだ。一方、名前のアバターは筋骨隆々な猫人間。何故これを選んだのか、こういうキャラクターが好みなのか、非常に気になる。
マッチョな猫人間が戦闘を始める。至をダウンさせたパーティを、ショットガンの一発一発をクリティカルヒットさせて倒した。
「蘇生サンキュー」
このゲームは、一度ダウンしても、仲間に助けてもらって復帰することができる。至を復帰させ、それぞれに装備を強化し進行していると、至が唐突に名前に質問した。
「名前、今何着てんの?」
「……何ですか急に」
「名前の素顔に迫るコーナー」
なんだそれは。突然始まった謎のコーナーに首をかしげる。その質問の回答は、どこに需要があるのだろう。
「何って、普通に、Tシャツとジャージです」
「Tシャツどんなの?あ。髪はどうしてんの?」
「……黙秘します」
「そんなん言われたら気になるじゃないっすか」
「写メ求む」
「拒否します」
「嫌がってるだろ。やめてやれ」
自分だって気になるくせに大人ぶって……という視線を至が千景に寄越す。当然その視線には気付かない振りをした。
なんだかんだと話しているとあっという間に二時間ほどが経ち、名前はこれで最後にすると言った。最後のゲームで一位になって、気持ちよく終わる。
「名前さん、ブラウォーの方俺ともフレンドになってくださいよ」
「ん。茅ヶ崎さんからID聞いてくれる?」
「あざーす」
「じゃ、おつー」
「お疲れ様です」
「おやすみ」
「卯木さんも、お疲れ様です。おやすみなさい」
ゲームの電源を切ると、ボイスチャットも切られた。万里はスマホを取り出して、早速名前にフレンド申請をする。
「海外出張多いとイベ走るの大変そうっすね、名前さん」
「な。どの国からも引っ張りだこなんでしょ?」
「そうだな」
「へー。仕事できる人なんすね」
ふわ、とあくびをして万里が部屋を出ていくと至は別のゲームを始めた。三頭身くらいの可愛いキャラクターが武器を使ってペンキ塗りをする、人気のゲーム。万里は明日の午前中に秋組の基礎稽古があるので、ここからは一人で没頭することにする。と、その前に。
「俺の粋なはからいに感動しました?」
どや顔で言う。よくやった、褒めてやる、と言われるに違いない。
「ああ。感動したし、名前で呼んでることにも心が震えたよ」
にっこりと笑みを浮かべたまま、後半は声のトーンを少し下げた千景にギクリとする至。
あー、それはまあ、流れですよね……と乾いた笑い声で濁す。ゲームから流れてくるポップな音楽が救いだった。