ゆるがせど春 二
新入社員が各部署で仕事を始めるのは四月の四週目からだった。それまでの新入社員研修のレポートは人事部から各部署の部長宛てに送られるので、千景は部長から苗字名前のレポートを共有してもらい、目を通した。研修の内容が端的に、理路整然と書き連ねられている。堅すぎず柔らかすぎない文章。レポートを読む限りでは、彼は、この会社に採用されるだけの頭の良さはありそうだった。他人に期待をしない性分であり、初日の挨拶に不安を煽られた千景には朗報である。しかし、もう少し詳しく現在の能力値を知っておきたい。

四週目に入り、初めて苗字名前が部署の自席に座った。

「おはよう」
「……おはようございます」

今日もマスクをしている。そして相変わらず覇気のない声。前髪と眼鏡に隠れた目が一瞬千景を見たが、すぐに自席のパソコンへと視線が移された。
名前が細い指で起動ボタンを押すと、微かにブンと音がして、パソコンの画面にパスワードの入力を求める表示が出る。キーボードを静かに叩くのを聞いてから、千景は後輩に話しかけた。

「苗字、今メールを送った。今日はそこに書いてあることをやってくれるかな。終わらなかったら明日以降も宛ててやってもらうけど、今日の定時前に一度見せて」
「……はい」

千景は今日の自分のスケジュールも後輩に伝えた。今日は会議が多く、席を外すことが多い。そもそも海外出張の多いこの部署で、ピカピカの新入社員に付きっきりでものを教えることは無理だ。その旨も柔らかい表現で伝えておく。
業務を指示するメールには、大量の資料の格納先を添えてある。今後一緒に営業に回ることになる欧州のデータだ。基礎研修を終えただけの新人に与えるには多すぎるし、煩雑だった。
名前への業務指示のメールは、同じ課の社員にも送っている。卯木、いきなり鬼すぎないか。正面の席に座る先輩社員にそう言われたが、千景はにこりと笑っただけだった。先輩社員は名前を気の毒そうに見る。
終わらなかったら明日以降も宛ててやってもらう、と言って指示した作業は、新入社員なら二週間以上かかるだろう。それに、それだけ時間をかけても完璧なアウトプットが出てくるわけもない。千景も、新入社員相手にやや難しいことを指示したと思っている。ただ現在値を手っ取り早く知るには多少手荒でもこれがいいと思ってのことだ。

後から出社する先輩社員におはよう、と声をかけられるたび、名前は一拍置いておはようございますと返事をする。その声を拾って振り返ってくれる先輩もいれば、聞こえなかったのだろう、颯爽と歩いていく先輩もいた。
千景が聞くともなく聞いている分には、後者のほうが、圧倒的に多かった。

名前は指示された業務に黙々と取り組んだ。昼食の時間は決まっていないので、不在の千景の代わりに部長に声をかけて、ひとり外出して食事を済ませた。
他所の新入社員は先輩や同期と一緒に昼食に出かけているようだったが、名前はひとりで行動するのが苦ではない……というか、ひとりの方が気が楽だった。

15時を過ぎた頃、名前は手を止め、会議を終えて自席に戻ってきた千景に声をかけた。

「……卯木さん、今、質問してもいいですか」
「いいよ。どうした?」

初めて苗字を呼ばれた、と頭の片隅で思いながら柔和な笑みを見せてやる。隣にいない上に質問もし難いと思われては、この後輩が育たない。
千景に笑顔を向けられて安心したのか、俯きがちで逸らされていた名前の視線がそっと持ち上がる。

「ーーという理解で間違っていませんか?」

マスクをしている上に控え目な声量で話すので、聞き取りにくくはあるが、内容は端的にまとまっている。間違ってもいない。

「合ってるよ。驚いたな、もうそこまで進んだのか」

大量に与えた資料への理解の速さも深さも、想像以上だ。優秀な新入社員がいたものだと千景は感心した。ここに配属されるだけはある。コミュニケーションに不安はあるが、自分から質問する姿勢があるのだから、追々どうにかなるだろう。
回答を得て「ありがとうございます」と小声で言い、また黙々とパソコンに向かう後輩に、千景は多少の好感を持った。

定時近くになり、指示した業務の結果物が送られてくる。新人が一日二日で終えられるものではないと踏んでいたが、今日一日で、ほぼほぼ出来上がっている。ブラッシュアップ出来る部分は勿論あるけれど、及第点どころではなかった。
使える奴、と心の中で判を押して、千景は後輩を褒めてやった。それも、割と本心から。千景には珍しいことだったが、褒めてやった本人は特に嬉しそうでも満足そうでもない。まあ、喜ばせたくて褒めたわけではないので、別に良いのだが。

「明日も続けて、このあたりは改良して俺に見せて。明日は課長にも見せる」
「はい」
「水曜から俺は出張でいないけど、苗字にやってもらうことはメールするから。分からないことは部長に聞けばいいし、俺にメールしてくれれば返す」
「はい」
「それと。来週火曜に国内で商談があるから、そこに同席してもらう」
「……はい」

新人をこんなに早く商談に連れて行く気はなかったが、これだけ優秀なら現場に出せる。それに、コミュニケーションの課題はコミュニケーションの場で克服させるのがいいだろう。

「今日はもう上がっていいよ。お疲れ様」
「……ありがとうございました」

ぺこ、と頭を下げる後輩に、顔だけは優しい先輩然とした笑みを向けてやる。普段は楽しくもなんともない商談だが、面白くなりそうだ。



週が明けて、月曜。
出張のたびに部署に土産を買うなんてことはしないが、今回はなんとなく思い立って、千景はその国定番の土産であるチョコレートの詰め合わせを買った。
出勤してきた名前にチョコの箱を差し出すと、名前は無言でそれを見つめる。

「出張の土産だよ」
「……ありがとうございます」

マスクの下でもぞもぞお礼を言い、また少しチョコを見てから、一つを選ぶ。何種類かある中で一際甘そうな白いチョコレート。それをその場で後輩が食べ始めたので、千景は小さく笑った。

「甘くない?」
「……ちょうどいいです」
「それはよかった。もう一ついる?」
「……いいんですか?」

千景に向けられた名前の目が、一瞬きらりと輝く。名前は二つ目も同じものを手にとって、マスクの内側に隠した口にそっと運んだ。

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