翌朝、千景がリビングに入ると、冬組と秋組の何人かが食事をしていた。
秋組第四回公演の稽古と並行して、冬組も地方再演に向けて動き出している。MANKAI寮にはレッスン室が二部屋あり、今日の午前中は秋組と冬組の稽古が予定されている。
東はコーヒーを飲んでいた。朝早く起きるのが苦手な東は、朝食もあまり摂らない。
昨日東と同じ部屋で寝た名前の姿はここにはなかった。名前を探してちらと談話室まで見渡した千景に、東は声をかけた。
「おはよう」
「おはようございます。昨日は夜遅くにすみませんでした」
「いいよ。名前はまだ寝てる。寝顔が可愛くて、起こすのがもったいなかったんだ」
ふふと微笑む東の正面に座っていた古市左京が、箸を置いて、難しい顔をする。
「今日は警察署に行って聴取の続きだろう。苗字が疲れなきゃいいがな」
「あれ。左京くん、優しいんだね」
「別に……。真面目そうな奴だし、うちの団員も何人か懐いてるみてぇだから、ひどく落ち込まれても困ると思っただけだ」
東の隣で、月岡紬が柔らかく「そうですね」と同意する。ぶっきらぼうな物言いたが、左京が心配しているのは周りの誰もが分かった。
「そういえば、東さんは彼とどういう知り合いなんだい?」
有栖川誉が思い出したように尋ねる。
千景も気になっていたことだ。昨晩、眠っている名前を送り届けた時に東に聞こうかと思ったけれど、腕の中で後輩がすやすや眠っていたので止めたのだ。
「彼はボクのヒーローだよ」
「と、いうと?」
「ボクの鞄を引ったくった男の人を捕まえてくれたんだ。あの時は名前も聞けないままだったから、また会えて嬉しいよ」
「それはすごい偶然だね。もしや、東さんと彼は運命の糸で繋がっているのかもしれないよ!?」
何やら一人盛り上がりだした誉が詩を読み始める。その難解さに、キッチンの伏見臣も苦笑した。
「千景さん、朝食どうですか?」
「いただくよ。ありがとう。東さん、部屋に入っても構いませんか?そろそろ苗字を起こしたいので」
「どうぞ」
千景は東の許可を得て206号室に向かう。東の含み笑いは見なかったことにした。
名前と東の繋がりには驚いたが、自分とMANKAIカンパニーに縁があったように、名前もこの場所に縁があるのかもしれない。
軽くノックをしたが返事はなく、ドアを開ける。
カーテンの隙間から朝日が僅かに差し込む薄暗い部屋。昨晩のお香の残り香と、静かに眠る人の気配がする。
「……苗字、起きろ」
ベッドの下から声をかけるが反応はない。
梯子を少し上がると、布団を口元までかぶって、すやすやと眠っている名前が見えた。飲み会帰りのタクシーでいつも寝るので寝顔を見たことはあるが、布団の中にいるのを見るのは初めてだった。年齢不相応なあどけなさ。いつも前髪と眼鏡に隠されている長い睫毛。
安心して眠っているようなので、このまま寝かせてやりたい気持ちと、悪戯したい気持ちとが千景の中でぶつかって後者が勝った。起こさないといけない時間だからという真っ当な理由があるので問題ないだろう、と千景は言い訳めいた独り言を思い浮かべる。
「苗字」
肩あたりを軽く揺する。起きない。少し強く揺する。規則正しい寝息が続く。
「起きろ、苗字」
布団を引っ剥がす。寒くなったのだろう、名前は小さく「んん」と呻いて、子どものように丸くなり、再び寝ようとする。
そんな姿を見せられると悪戯心が刺激される。
頬をつつく。意外に肉つきがいい頬に、ふにっと指が沈む。
「んー……」
可愛い。柔らかそうな唇に触りたい。自分のことを理性的な人間だと信じているが、いつまでも好きにいじめていると、堅固な理性もいつかはヒビが入ってしまう。
千景は努めて平坦な声で名前に声をかけた。
「苗字、起きろ。朝だ」
「……ん……うつきさん……?」
寝起きのふにゃふにゃの声で呼ばれて、千景は一瞬真顔になる。
「おはよう」
「……おはようございます」
まだ半分しか開いていない目。名前は寝起きのふわふわした心地のまま上体を起こした。
「そこで立ち上がるなよ。頭打つぞ」
「……?」
数秒後、ゴツンと天井に頭をぶつけた名前の頭を、千景はよしよしと撫でてやった。
臣が用意してくれた朝食を食べて、名前と千景は警察署に向かった。今日の空は爽やかに晴れ渡っているが警察署内はなぜか薄暗い。
聴取は別々の部屋で行われた。大柄で、名前より二回りほど年上だろう男性警察官二人から細かに質問をされる。
答えられることもあれば、分からないこともあった。部屋に入った男のことは知らない。名前を聞いてもピンとこない。
二時間、三時間と聴取が続き、名前は、千景のことが心配だった。疲れていないか。気分を害するような質問をされていないだろうか。
昨晩捕まった男が千景に後ろ手を掴まれて挙げた名前は、正しく仲間の名前だった。警察が捜索中だった残りの男達は匿名の有益なタレコミによって捕まったと、数日後、名前は警察から聞かされた。捕まったら万事解決というものではないけれど、千景や、住まわせてもらっている寮の人々に進展の報告が出来ることで、一先ず安堵した。