物語のコラージュ 五
物件探しは難航した。
名前が「いいかも」と思って見ていた物件も、独立洗面台が無い、築年数が古い、などと理由をつけて候補に入れさせてもらえない。であればと検索条件にそれらを最初から追加すると、残った物件は当然賃料が高いものばかりになる。中には天鵞絨町の新築マンションもあった。「ここにしようよ!」と一成につつかれて詳細を見てみるけれど、充実した設備に相応しい賃料で、いやいやと名前は首を横に振った。無理な金額ではないが、ここまで設備の整った部屋でなくていい。

臣が夕食の準備にとりかかるのに気付いて、部屋探しは後回しにし、名前は手伝いたいと願い出た。居候の身なので家事は出来るだけさせてもらいたい。「ゆっくりしててください」と臣はやんわり断ったが、名前は手伝うと言って譲らなかった。

「じゃあ、野菜を切ってもらえますか?」
「わかった」

冷蔵庫からトマトときゅうりを取り出して臣が名前に渡す。さらに包丁とまな板が出てくるのを見て、千景が待てと止めに入る。

「お前、包丁を扱えるのか?」

名前は普段ほとんど自炊をせず、外食で済ませる。たまにする自炊も、買い置きのインスタントラーメンやパスタを食べられる状態にすることを自炊と呼んでいるだけで、そこに切ったり炒めたりする工程は含まない。後輩のそんな食生活を聞いていたので、千景は不安になったのだ。

「切るだけなら……難しい切り方は出来ないと思いますけど」
「きゅうりは輪切りで、トマトはくし形切りか輪切りか、やりやすい方で大丈夫ですよ」

名前の隣で臣がフライパンを使ってホワイトソースを作りながら、簡単な切り方を提案する。食材を洗う不慣れな様子を見ていて、あまり料理はしないのかも、と臣も察知していた。だからといってすぐに代わってしまうのも、好意を無下にするようで気が引ける。

「輪切りなら出来ると思う」
「よろしくお願いします」

黒縁眼鏡の奥の青い瞳がきらりと輝くのを見て、臣が柔和に笑む。千景は何も言わずにそのやり取りを見ている。
大きなトマトをまな板に寝かせ、包丁を構える。すう、とトマトに刃を入れる。
そうして心配された通りに、指を切った。
浅い傷口にじわっと血が滲むのを、名前は苦々しい気持ちで見た。僅かな痛みより、自分の不器用さを呪う気持ちの方が強い。

「大丈夫ですか!?」
「こっちに来い。早く傷口を洗え」

指を切ったことも、切った指をじとりと見ているだけで動き出さないことにも「何やってるんだ」と千景は言いたくなるが、そうとは言わず後輩を流しのほうへ来させ、傷口に流水をあてた。
すみません、ごめん、と千景と臣に向けて謝る声には自分自身への落胆がたっぷり含まれている。臣は色々とフォローの言葉をかけてやったが、どちらが年上か分からない有り様に、余計に名前は落ち込む。
千景は、二度と後輩に包丁は持たせないと心に誓う。たとえ本人が落ち込もうと、不満を持ったとしても、絶対に。



千景によってキッチンを追い出された名前は、106号室に向かった。無事なほうの手でノックをする。切り傷の痛みはほとんど感じないが、念のためだ。

遠慮がちな部屋のノックに「何?」と言いたげな表情で出てきた莇。部屋には莇しかいないようだった。
莇自身は人見知りするような引っ込み思案な性格ではないが、他人が声をかけやすい雰囲気を纏っているわけでもない。莇のクールな眼差しに名前は緊張しながらも、なんとか話しかける。

「あの、俺、前に泉田くんに助けてもらったんだけど、覚えてるかな」
「……ああ、変なのに絡まれてた人か」

少し前のある夜の記憶と目の前の男が一致して、莇は改めて名前を見る。
昨晩突然この寮にやって来た男は確かに目の前の男と同じ声と背格好をしているが、昨日は綺麗な顔を晒してしゃんと話していた。今日は出会った時と同じで、クラスの端っこで静かにしているような雰囲気をしている。
同じ奴だとわからなかった、と言う莇に名前はそうだろうなと笑った。莇の素直さを好ましく思う。

「あの時はありがとう。……あのあと、大丈夫だった?」
「礼とかいらねーけど。俺も、何ともなかったし」
「よかった。少しの間ここでお世話になるから、よろしく。泉田くん」
「……名前、莇」

泉田くんと呼ぶと視線をついと横に反らし、自分の名前を教える。これは名前で呼べということかと思い「莇」と呼び直すと、莇の薄い唇がわずかに弧を描いた。



MANKAI寮の掃除洗濯の割り振りはリーダー会議で月ごとに決められている。今月は冬組が掃除の割り当てになっているが、よく眠る密は自覚なくサボりがちだった。
月末も迫る今日、ほとんど何もしてないだろうと丞に指摘され、密は渋々食後の皿洗いをしている。大所帯のMANKAI寮の洗い物は多い。流しには食器がどっさり積まれていて、密はうんざりしながらノロノロとスポンジで皿を撫でつける。

「手伝わせてください」

食事の用意では手伝いが出来なかったので、今回こそ役に立たなくてはならない。
密が返事をするのを待たずに、もう一つ置いてあったスポンジと食器用の洗剤のボトルを手に取った。
少し距離をとって自分の隣に立った男を横目にちらと見てから、密は手元に視線を戻した。水音に消されそうな声量で「ん」と遅めの返事をして皿洗いを続ける。

名前が全員に初めましての挨拶をした時、密は談話室のソファに座って名前を見ていた。本当はもう随分前から眠くて、部屋に引き上げて布団に入りたかったけれど、千景が会社の後輩を連れてくるというので談話室に留まっていたのだ。
千景が連れてくる人間に興味があった。
千景は誰にでも優しいわけではない。というか、基本的に他人に優しくないと密は思う。家族として受け入れた春組、それから劇団員には徐々に心を開いているようだが、かと言って世話焼きというわけでもないし、口は悪いし、元来神経質で文句が多い。組織の仕事のために潜入している会社で、それなりの人付き合いはあるのかもしれないが、自分の新しい家たるMANKAI寮に連れてくるほど親しい人間がいるとは思ってもみなかった。
きれいな顔の青年は緊張しているらしく、「よろしくお願いします」と言う顔は硬い。しかし声は不思議に心地よく耳に馴染む。一生懸命喋る姿には実直さを感じた。

「あの、卯木さんにお世話になっています、苗字名前です。よろしくお願いします」

沈黙をそっと散らして密に話しかける名前は、やっぱり緊張している。

今日のお昼時、注文した食事の提供を待つ間、名前は面識のない劇団員達のことを千景からひと通り聞かせてもらった。早く顔と名前を憶えて、共同生活をスムーズに、迷惑をかけることなく過ごしたい。
聞けば聞くほどみな個性的で打ち解けられるだろうかと若干の不安も覚えたが、それ以上に気になる人がいた。劇団員の中で唯一、入団前からの千景の知り合いだという人。その人の話をする時はやけにキッパリした物言いになっている気がした。素っ気無いというか、つっけんどんというか、雑な感じだ。そんな風に人のことを話す千景が新鮮で、御影密という人はどんな人物だろうかと名前は興味を持ったのだった。

「……御影密」

聞いていた通り愛想はよくないけれど、自分が言えたことではないので気にならない。むしろ、言葉数が少なく物静かな密に親近感を覚える。

「あいつ、会社ではどんなかんじなの」
「卯木さんですか?卯木さんは、頼もしくて、親切で、心が広くて……」
「……ありえない」

密は、名前が言うような千景を思い浮かべようとして、気味が悪くなってやめた。誰だそれは。小さな声で、どこか楽しげに千景のことを話す青年が、密にはとてつもなく不思議な人に思える。

千景のことをこんな風に言う奴がいるって知ったら、オーガストはどんな顔をするだろう。
そう考えて、自然と密の口元が緩んだ。

眼差しtopサイトtop