まばたきの猶予
MANKAI寮に身を寄せさせてもらってから一ヶ月も経たない間に、名前は新居を決めた。結局、最初に綴や一成らと一緒に探した際に見つけた、天鵞絨町駅近くの新築マンションに部屋を借りることにした。空き部屋の中でも一番家賃の安い部屋……それでも二年目の社会人が払うには十分に高い。
その部屋にしようと名前が決意を固めるには、少し時間がかかった。「ガチャ代……」とぼやくと真澄や幸に「いつまでもごちゃごちゃ言うな」と厳しく一刺しされるので、口を閉ざすしかない。それに、今回の引っ越しで何より大事なセキュリティー面について千景がOKを出したのも、この物件しか無かった。
収まるところに収まり、劇団員達が喜んでくれたので、まあいいかと思う。

引っ越しを手伝うつもりでいた千景だが、あいにくと出張が入ってしまったので、綴と密が当日の助っ人に送り出された。綴は引っ越し業者のバイト経験があるので何かと役に立たてると思う、とのことで立候補だったが、密は暇なら手伝えと千景に言われて派遣されたのだ。
自分より背が低く、同じくらい細身の密に重い荷物を運んでもらうのはどうかと名前は思ったが、意外にも平気なようで、眠そうな顔で段ボールを運ぶ。綴にいたってはプロ顔負けの手際の良さで、洗濯機やテレビの取り付けも難なく済ませてくれた。
二人のおかげで大まかな作業は昼過ぎに終わり、綴と密に昼食をご馳走した。ただし密はあまり食べなかったので、別にマシュマロを贈ることにする。
それから、大量に買い込んでおいたお気に入りのパティスリーの菓子や酒を持ち、MANKAI寮へと挨拶に行った。今は秋組の第四回公演期間中なので、足のはやい菓子だと十座が食べられないーー食べると莇に叱られるかもしれないーーと思い、日持ちするものにしておいた。莇の美意識の高さは目を見張るものがあり、寮生活では名前も幾度となく注意された。それは全然煩わしいことではなくて、むしろ、気を遣わずにいてくれることが嬉しかった。

高校や大学を卒業する時も、実母と離れ一人暮らしを始める時も、名前は今ほど寂しさを感じなかった。
今日を境に、MANKAI寮で過ごした日が過去になる。

これからは、肌荒れを叱ってくれる莇がいない。
臣や綴の作ってくれる美味しいご飯、それに東との晩酌も仕事終わりの楽しみだった。
左京とお酒を飲みながらブラックジャックをしたことがある。左京が東に連敗してムキになってしまうのは面白かった。
初対面では冷ややかに睨んできた真澄も、今は普通に接してくれる。いつか笑顔を見せてくれるだろうか。
天馬が出演しているドラマを、テレビの前でぎゅうぎゅう詰めになって皆で見るのも、ここならではだろう。
仲間達を見守り、時に保護者のようであったり、たまに何とも言えない面倒くさそうな表情をする千景は明らかに会社で見る姿と違っていて、いろいろな面を知ることが出来た。職場では直属の上司部下の間柄だった時期もあり、それなりに千景のことを知っていたつもりだったけれど、知れば知るほど優しくて格好いい人だと思った。
このひと月のあまりに濃い時間。濃い人付き合いは、人と距離を測って遠ざけがちな名前にとって春の嵐のようだった。

「名前くん、いつでも来てね!遠慮しないでね!」
「ありがとう」

劇団員の皆が名前の退去を惜しんでくれた。
監督はいつの間にか自分を名前で呼ぶようになっていた。彼女の根の明るさと寛容さ故にここに住まわせてもらったのだから、感謝してもしきれない。

「つーか今晩共闘クエ始まるし夜までいたらいいんじゃね?」
「毎晩こっちに帰ってきたら?」

ゲーマー二人との付き合いは続きそうだ。至と万里は、共通の趣味を持つ、名前の数少ない友人になった。

「俺は名前ちゃんの新居に突撃訪問するよ☆」
「俺っちも!イケてる男の一人部屋、参考にしたいっす!」
「この菓子の店、今度一緒に行きたいっす」
「その時はボクもご一緒させてもらえると嬉しいです……!」

それぞれに次の約束を提案してくれて、心が温まる。
自分を受け入れてくれる場所がある。自分に会いに来てくれる人がいる。それはかけがえのないことで、この繋がりを大事にしたいと思った。

一ヶ月の間にすっかり仲良くなった団員らと夜まで過ごして、新居初日は部屋で寝るだけになった。
翌日はいくらかダンボールの中身を片付け、ゲームの配線を整備する。本棚に本を収め、多少快適な空間になったところで、午後からは寮生活の間あまり進めていなかった語学学習に没頭した。
週明けからは短期の海外出張に行き、週末は秋組の公演を観に劇場へ足を運んだ。
今回のチケットは用意してもらったものではなく、自分で抽選を戦い抜いて手に入れたチケットだ。MANKAIカンパニーのお芝居のファンになったので、千景が手配してやると言うのを丁重にお断りして、ファンとしてチケット確保に臨んだのだ。取れるかどうか緊張したけれど、千秋楽直前の公演を一枚入手できてホクホクする。



観劇後、仕事終わりの千景と駅前で待ち合わせた。千景は昨晩の便で出張から帰ってきていた。
本社で十日ぶりに顔を合わせた時、綴と密に引っ越しの手伝いを頼んでくれたお礼を伝えるのと一緒に「いつでも遊びに来てください」と言うと「じゃあ今日行く」と返ってきたのには、ちょっとだけびっくりした。まだ片付けていない段ボールが二個ほど残っているけれど、構わない、とのことだったのでお招きすることにした。断る理由はない。

「お疲れ様です」
「お疲れ。今日の舞台はどうだった?」
「楽しかったです……!莇は本当に初舞台なんですか?堂々としてて、立ち回りも……それにゾンビのメイクもすごくて……すみません」
「はは。秋組のみんなも喜んだだろ」
「いえ、会ってないです。いつもながらお見送りは女性が多くて、圧倒されます」

舞台に興奮した気分のままに一人で喋っていることに気が付いて名前は恥ずかしくなり、行きましょうと促した。

マンション近くのコンビニに寄って適当に酒と食べ物を買う。千景はマンション選びにかなり口を出したので住所も周辺の店もしっかり覚えていて、名前が案内をしなくても到着した。駅からマンションまでは街灯が多く夜でも明るい道を少し歩くだけ。人通りもある。立地は申し分ない。
エレベーターも部屋も、新築特有の匂いがする。部屋のフロアタイルは白みがかった木目調で、本棚も白いので部屋が実際より広く感じられた。ちなみに前の部屋で使っていた寝室の家具はほとんど捨ててきたので、ベッドに布団、箪笥、カーテンなんかは新しいく買い揃えている。引っ越し代と合わせて大きな出費となったので、しばらくは課金を抑えめにするつもりだ。

千景が名前の部屋に入るのは、あの侵入者がいた日が初めてだった。きちんと訪問するのは今日が最初だ。千景が名前の本棚をまじまじと見る。

「本当に語学が好きなんだな」

世界の主要言語、今担当している東南アジアの言語の参考書。大学受験で使ったのだろう英語の文法問題集や、単語帳。それに日本語の国語辞典もある。

「本、見てもいい?」
「はい」

どうぞと言ったものの、並んでいる中でも特に古い本を手に取られ、恥ずかしかった。使い倒してきた語学書には書き込みやマーカー、付箋がそのまま残っている。
付箋なんかは剥がせばいいのだろうが、当時の自分の足跡が消えてしまうような気がしてそのままにしていた。

「これ、いつから使ってるんだ?」
「高校に上がってすぐからです」

語学は心の拠り所で、高校三年間はフランス語とイタリア語の習得に没頭した。そのときに独学での語学習得の道を自分なりに見つけたのが今に活かされているけれど、当時の勉強法は試行錯誤真っ最中のものだ。字だって今より幼い。

「あの、昔の本をあんまり見られると恥ずかしいんですが……」
「そう?」

自分が落ち着かない様子でいるのをこの人は絶対わかっている。じとりとした視線を向けると、笑われた。
適当にテレビをつけてローテーブルに酒を並べると、ようやく本を元の場所に戻した千景が名前に紙袋を渡した。

「遅くなったけど、引っ越し祝い」
「え……ありがとうございます」

まさかそんなお祝いをしてもらえるとは思っていなかった。渡されるまま紙袋を受け取る。

「開けていいですか……?」
「どうぞ」

紙袋の中の箱を開けると、澄んだ青色のグラスが二つ並んでいる。ボウル部分が波打っていて涼しげな印象を与えた。

「これ、ムラーノガラスですか?」
「正解」
「綺麗……」

ムラーノガラスはベネチアの離島、ムラーノ島の職人が一つ一つ手作りをしている工芸品だ。二つのグラスは同じようでいて色の入り方や波の感覚が微妙に異なる。
元々青みがかった名前の瞳にグラスの青が映り、いっそう煌めいて見えた。

「ありがとうございます。このグラスで飲みましょう」

ああ、と千景は頷く。柔らかい笑顔が可愛い。すぐ使ってくれるのが可愛い。普段より少しうきうきと跳ねている声が可愛い。何もかも可愛く思える。

食事と晩酌をしながら、二人は秋組公演の話をした。しばらく出張に行っていた千景も観劇したのは昨日だった。秋組が得意としているハードな世界観に、アクション満載のお芝居。その熱量に引き込まれる。あの優しい臣の悪役ぶりに驚くし、劇中で様相が変わる太一のメイクはどうしているのだろうかと観終わってから気になった。
話しながら飲みながらであっという間に名前は出来上がった。千景も、観劇の感想を屈託なく人と交わせるのが楽しかった。人との会話を面白い、ではなく、楽しいと思えるなんて少し前まで考えられなかったことだ。

「次の春組のこうえんがまちどおしいですね」
「そうだな。次の公演も……面白くなると思うよ」

実はもう、少しだけ話は進んでいた。次の春組公演は人気のRPGゲーム『Knights of Round』シリーズを舞台化したものと決まっている。思いがけず舞い込んできたこの案件に誰より驚き喜んだのは、ナイランシリーズの大ファンたる至だった。主演をやりたいと自ら立候補するほどで、千景は意外に思った。
至同様ゲーム好きの名前は当然ナイランのことを知っているだろうし、プレイしたこともあるかもしれない。驚く顔が見たくて早く伝えたいけれど、今はまだ口外することが出来なかった。

「うつきさんがそういうなら、絶対おもしろいですね……たのしみです」

ソファの上で膝を抱えている。可愛い。後輩は眉目秀麗だと思うが、自分以外の人間にも可愛く見えているだろうかと馬鹿みたいな疑問を抱く。そんな自分が全くもって笑える。

不意に、「宝くじで三億円が当たったら何に使いますか!?」と女性の元気いっぱいの声がテレビから聞こえた。一拍置いて名前はそのまま千景に質問をした。三億円が当たったら何に使いますか。

「三億か。金で買えるもので欲しいものは別にないし、適当に投資するかな」
「おかねで買えないもので、ほしいものはあるんですね」
「ああ、あるよ」

両手でグラスを持ってジュースみたいなカクテルを飲んでる、お前だ。

「うつきさんならそのうちてにいれられますよ」

何故か自信有りげに本人にそう言われて、千景は一瞬言葉を失った。

「……そうできるよう頑張るよ。で、苗字は?三億円当たったらどうする?」
「課金します」

特に欲しいものは無さそうだけどと思いながら聞くと、ハッキリ言い切られる。そうだった。家よりゲームに金を使いたいと考えている人種だった。千景には信じられないことだ。

「あ、でも三億円もあるなら、えを買うかもしれません」

酔って活舌が悪くなり、ふよふよと喋っている。表情まで緩んでいて、ひどく幼く見えた。

「そういえば、浅田さんがバチカンびじゅつかんに行ったって聞きました。うつきさんもいっしょに行きました?」
「いや、行ってない。あいつが美術に興味があるとは思えないけどな」
「ふふ。浅田さん、つまんなくてすぐ出たって言ってました」

大して見もせずに美術館を後にする様が目に浮かぶようだった。何故行った、と呆れる。

「苗字とは真逆だな。『アテネの学堂』の前で立ち止まってるお前に何度か声をかけたけど、聞こえてなかったの、覚えてるか?」
「おぼえてます……すみません」
「いや。……あの絵。父親が好きな絵だって言ってたな」

ーー……父が好きだった絵なので……。実物を見ることができてよかったです。
初めて海外出張に同行させた最終日、ラウンジで帰りの飛行機を待っている時に名前が言った言葉だ。当時はまだほとんどプライベートの話をしたことがなく、言い様も引っかかったので、強く千景の印象に残っている。あの時、千景は踏み込んで聞こうとはしなかった。たった一年の間にあらゆることが大きく変わっている。

「はい。ふくせいがが書斎にあって。あまり家にいない人でしたけど、ときどきあのえをみながら話をしてくれました」
「それは、どんな話?」
「……よりよい世の中をつくるためには、知識があるだけではいけない。ひとと議論し、知識をみがきあげないといけない。そのためにまず言葉がひつようだ。言葉がわからなければ世界のひとびとと議論できない。いろんな言葉をおぼえて、学堂で議論しなさい。……そんな話です」

父に何度も言われたこと。そして名前が心の内で何度も唱え直したこと。
名前の父親は言語学者で、大学で教鞭をとっていた。子どもの頃、名前には分からない多くの言葉を駆使している父親は、単純に尊敬の対象だった。

「なるほど。苗字の語学のオリジンは、父親なんだな」
「はい。……まあ、言葉をおぼえても、コミュ力不足で学堂の議論なんてぜんぜんできませんでしたけどね」

苦笑する横顔は、自嘲しているかもしれないけれど、決して悲しそうには見えない。

「いま、いろんな言葉をつかってひとと話しをする仕事ができて、たのしいです」

喜びを頬にたたえて、子犬のように笑う後輩を撫でてやる。何かを言ってやりたいと思ったが、気の利いた言葉が出てこない。
「そうか」と言うだけの千景に、それでも名前は十分満足した。胸の内にじんわりと広がる幸福感は、暖かい陽だまりのもとで眠るような心地をもたらした。

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