まばたきの猶予 二
「これから名前と会うのかな?」

ある土曜の夕方。廊下ですれ違い様に東にそう言われ、千景ははいともいいえとも言わず愛想のいい笑みを作るに留めた。

以前、名前の部屋で飲んで帰ってきた時も似たことを東に聞かれた。
ーー名前に会ってたの?
ーーどうしてそう思うんです?
ーーいい顔してたから。
先に質問をしておいて、答えは聞かずに去っていく東。聞かなくてもわかると後ろ姿が語っていて、千景は何とも言えない表情をした。人を揶揄うのは好きだが、揶揄われるのはご免だ。

靴を履いてさっさと出かける。
東の予想通りで、千景はこれから名前に会いに行くところだった。ここ一ヶ月ほど、名前が出張続きなので顔を見られていない。部署全員当てに送られてくるメールで名前だけは見かけているし、名前とアプリゲーム内で繋がっている至が時折「夜中にやってましたよ」などとゲームのプレイ状況を教えてくれるが、それで何かが満たされるわけではなかった。
今日は名前がタイへの出張から帰って来る日だ。

約束の時間に駅前で待っていると、ごろごろとスーツケースを引いて後輩が小走りで近寄ってきて、自然と千景の頬が緩んだ。

「すみません、お待たせしました」
「いや。出張帰りに悪いな。お疲れ様」
「卯木さんもお疲れ様です」

名前が手に持っている紙袋をするりと奪い取る。先輩である千景に荷物をもたせるわけには、と名前が言うのを聞き流し、マンションの方へ向かう。名前は言うことを聞いてくれない先輩に少しだけ口を尖らせたが、短い距離であるし、ここはありがたく親切を受け取ることにした。申し訳ないなと思うけれども、そう思っていつまでもぺこぺこするのを千景が嫌がることも理解している。

今晩会う約束は、出張前に千景が取り付けていた。帰国の日であり、もう一つ、会いたい理由がある日だ。
19時40分。部屋に入り、千景は時刻を確認する。
酒やグラスを並べる。テレビをつけて、乾杯をする。19時55分。

「仕事の電話ですか?」

千景が時間を気にしているのに気がついて、客先と電話をする約束でもあるのだろうかと聞いた。

「いや。苗字に知らせたい話があって、時間を見てた」

きょとんとまばたきをする。小鳥みたいだと千景は思った。

「この前ここに来た時にはもう決まってたけど、今回は外部との関係もあって言えなかったんだ。今日の20時に情報解禁だから、うちの劇団のインステを見てて」
「はい」

ビジネスバッグに入れたままだった携帯電話を取り出し、ソファに並んで座って、名前は言われた通りにMANKAIカンパニーのインステを開いた。20時まであと2分。
画面を見つめてじっとしている従順な後輩が面白くて、千景の口元は自覚なく笑む。20時まであと1分。
ほっそりした首。シャープな顎のライン。しょっちゅう常夏の国に行っているのにあまり日焼けしていない肌。いつまでも見ていられる。

「え?」

形のいい唇から音がこぼれた。

「……え?」

もう一度同じ音がこぼれた。最新の投稿を何度も何度も読んでいる名前に千景は笑ってしまう。
MANKAIカンパニー新生春組第五回公演のお知らせ。タイトルはKnights of Round W THE STAGE。大人気ゲームナイランシリーズ初の舞台化。
何回読んでも名前にとって驚くべき内容で、理解に時間がかかる。このナイランというのは、あのナイランだろうか。

「茅ヶ崎から、お前も好きなゲームだって聞いた」

千景がそう言うので、名前は丸くなっていた目をさらに真ん丸にした。あのナイラン、で合っているらしい。
え、の口で目を見開いて固まった名前がいよいよ面白く、千景は口元に手を当ててくつくつと笑った。

「いい反応だな」
「……え……だって……本当ですか?」

名前はさっきからほとんど「え」しか言えていない。
ぱちぱちと瞬いて千景の目を見る。楽しげで、優しげな色も混ざった瞳。からかわれていないと分かる。ナイランの舞台化は、現実のことらしい。

「……俺、ナイランシリーズ、大好きで……Wは思い入れもあって……」

名前がぽつぽつと雨垂れのように喋るのを聞きながら、同部屋の男も同じようなことを言っていたのを思い出す。二人は年齢が一つしか違わないし、共通の趣味があるので、思い出も重なるところがあるのだろう。

「絶対観に行きます。……あの、すごく、楽しみにしてます」
「ああ。期待に応えられるよう頑張るよ」

呆然とした様子でも、熱量は伝わってきた。名前の目が泣きそうに潤んでいる。
千景が真摯に答えると名前はいっそう感動した。ナイランの舞台を任されたのがMANKAIカンパニーなんて、自分に都合の良い夢ではないだろうか。
そして、今度はううんと考え始めた。ナイランシリーズの中でも独立したナンバリングであるWは他の作品に比べて舞台化しやすいかもしれないが、ストーリーの全てをやり切るのは難しいだろう。どう話を纏めるのだろうか。
インステから劇団のホームページにリンクが貼られてあるが、そこへ飛んでも、ストーリーやキャスティングの詳細はまだ掲載されていない。

「春組が六人だから……、ガウェインと、ランスロットと……マーリンと……それから……」

ぶつぶつと言いながら指折り数える名前。
千景は、名前がランスロットより先にガウェインの名前を出したのが気になった。作品の主人公であるランスロットの名前のほうが先に出て来そうなものだが。

「あの、キャスティングって、もう決まって……?」
「まあね」
「ガウェインは、いますよね?誰が演じるんですか……?」

一番に聞くあたり、好きなのだろうと察する。さて、どう答えよう。秘密だと言って焦らすのも楽しそうだ。
にやにやと笑んで意地悪なことを考える千景の返事を名前は辛抱強く待っている。

「誰だと思う?」
「…………卯木さんですか……?」

もしかして、と、名前は恐る恐る聞いた。
その通り。ガウェインを演じるのは自分なので、正解だと目で伝えてやった。

「夢……?」

名前が自分の頬をぐいとつねる。ゆめらない、と間抜けな真顔で言う。

「俺、ガウェイン推しなんです」
「そうみたいだな」

普段よりポンコツな様子の後輩を見て納得する。
好きなものの話をする時は知能指数が極端に下がる人間が時々いるが、この後輩にとってのそれが自分の演じるガウェインとは。嬉しいような気もするし、同時に悔しいような気もする。

「もしよかったら、眼鏡を取ってみてもらえませんか?」

声が日頃より上擦っているのを本人は気が付いていないのだろう。前のめりな後輩がお願いするまま、千景は眼鏡をとり、それをローテーブルに置いた。そして隣を見ると、目を見開いて、口もぽかんと開けていた。初めて素顔を見た時は、硬質な印象で、表情に乏しい奴だと思ったものだ。こんな間抜けな顔を見せてくれるようになるとは。

「印象がすごく変わりますね……」
「はは。お前に言われるとはね」
「……もしかして、卯木さんって、ガウェイン……?」
「意味不明だな」

わけのわからないことを言い出した。キャスティングを受け入れられたなら何よりではある。

「前髪、さわってもいいですか?」
「……お好きにどうぞ?」
「ありがとうございます!」

ソファの隣、と言っても少しはあった距離をあっさり詰めて、そうっと前髪に触れてくる。ガウェインの前髪と同じように分けようとしているのだろう。
髪と、額に触れる指先のやわらかな温度。ポーカーフェイスを崩されてしまわないよう、千景は目を閉じた。

「……とってもガウェインです……」
「さっきから日本語がおかしいぞ」
「だって推しですよ?公演中、倒れるかもしれません……」
「それは困るな。チケットを取るのはやめておけ」
「え!?ごめんなさい冗談です、いえ、尊いと思うのは冗談ではないですけど頑張って大人しく座っておくのでチケットは買わせてください……!」

肩をつかまれて思わず目を開ける。必死な表情で懸命に喋る名前があまりに近い。

「ちょっと落ち着け。わかったから」

そっと後輩を自分から剥がして眼鏡をかけ直した。眼鏡は、自分の目に出てしまう感情を少しだけ隠してくれる。

「すみません、取り乱しました……あっ、スケジュールってもう出てますか……!?」
「全然落ち着いてないな」

結局その日名前が鎮まることはなかった。公演期間中に既に予定されている長期出張があり、もし仕事の予定によって一公演も観劇できないとなったら、転職を視野に入れると言い出した。冗談には聞こえない声色だった。

ナイランWを好きな理由、中でもガウェインが好きな……いや、推しな理由を千景は知りたいと思ったが、それを今名前に聞くのは何故か負けな気がしてやめた。

「あの、殺陣、ありますか?」
「あるよ」
「……困ります……楽しみにしてます……」
「大丈夫か?」

期待に応えるくらいでは済まさない。期待以上のものを見せてやろう。胸の奥の方から沸々と湧き立つ熱は不思議と心地よく、醒めることなく燃え続けるのだった。

眼差しtopサイトtop