まばたきの猶予 三
春組第五回公演が始まった。

今回はナイランの試験的な舞台化、ということもあって公演回数が少ない。出張が重なった名前が行けるのは唯一、千秋楽の日だけだった。
千秋楽は極端にチケットの倍率が高い。一般販売も販売開始三十秒と保たず完売になるのが常なので、倍率の高い抽選に申し込み当てるしかないのだ。
座席はどこでもいい。立ち見でも構わない。お願いです、一度だけ見せてください。
心からの祈りを込めて申し込んだプレイガイド先行で千秋楽のチケットがご用意されて、名前は世界に感謝した。

平日のランチ中、当落を見守った千景は「よかったな」と微笑んだ。もし落選していたら一般販売でちょっとした手助けをするつもりでいたが、クリーンな方法でチケットを得られて何よりだ。



千秋楽。公演前に名前は初めて物販に並んだ。周りは女性が七割強といったところか。題材がゲーム原作なので男性客ももっと多いのかと思っていたけれど。それともグッズ類を購入するのは女性のほうが多い、ということだろうか。

「名前じゃん。何買うの?」

名前の番が来てそそっと物販の受付の人に近寄ると、幸だった。物販は春組以外の劇団員が行っている。

「お疲れ様。えっと、パンフレット一冊と、ガウェインのブロマイドを三セットください」
「はいはい」

幸が手際よく渡してくれたグッズをトートバッグに慎重に仕舞う。
ブロマイドは三枚一セットで数百円という値段で、名前は値段設定を間違えているのではとないかと幸に聞いた。こんなに素敵なブロマイドを数百円で買ってよいのだろうか。幸は、若干引いていた。
苦い表情の幸に、そんなつもりではなかったが、稼いでいるアピールをしてしまったかもしれないと反省して、そそくさと物販コーナーを後にする。

席につき、ブロマイドを取り出して一枚ずつUVカットのプロテクターケースに入れていく。手先が不器用なので指紋をつけずに収めるのは非常に苦労した。
ガウェインのブロマイドは、どれも素晴らしかった。千景のことも格好良い人だと思っているけれど、推しのガウェインとなると相乗効果が生じるのだろうか。格好良すぎてこちらが照れる。ブロマイドと目が合うと、胸が高鳴る。
パンフレットは終演後に家でじっくり見るつもりだ。パンフレットにブロマイドを挟んで仕舞う。
開演前の会場のざわめきを聞いていると、自分が空間に溶けていくような気がする。ブザーが鼓膜を震わせる。暗闇の中、するすると舞台の幕が上がった。



千秋楽ということもあって、お見送りの列は何時にも増して混んでいた。ロビーも熱気に満ちている。いちファンとして感想を伝えたいと思ったけれど、お見送りにはいつも通り並ばなかった。感想は後でメールをしておくつもりだし、次に会った時にも伝えよう。
そう思いながら名前が劇場を出たそのとき、ひょこっと三角が現れた。

「名前、はっけーん!」
「三角?」
「こっちこっちー」

どうしたのと聞く暇もなく手首をものすごい力で引っ張られ、劇場の裏口に連れて行かれる。スタッフオンリーの通路を通り、がらんとした小さな部屋に通された。今日は使っていない空きの楽屋だ。

「えへへ、ミッションコンプリート!」
「ミッション?」
「そう!ここで大人しくしてろ」

声を低くしてそう言うと、三角は部屋を出て行ってしまった。
何事だ。そのまま立ち呆けて待っていたが、三角が帰ってこないので、いくらか経過したところで手近な丸椅子に腰掛ける。
それにしても、舞台は、よかった。まだ胸がドキドキしている。明日からまた出張続きになるけれど、頑張れる。
舞台に思いを馳せてぼうっとしていると、楽屋のドアが開いた。お見送りを終えた千景だった。千景はガウェインの衣装のままでいる。

「……?」

ぽかんとする名前に笑ってしまう。

「ナイランのこととなると、とことん頭が働かないな」
「……え?」

ガウェイン、じゃなくて、卯木さんが何か言っている。ガウェインの姿の卯木さんが俺に何かを言ってる。
千景の言う通り名前の頭はちっともいい働きをしない。名前がいつもお見送りに並ばないと分かっているので、三角に頼んで帰り際に捕獲してもらい、この部屋で待機させていた。「ここで大人しくしてろ」と言う三角は、千景の芝居をしていたのだ。
普段なら解き明かせた事でも、今は非常事態。ゲームの中の推しが動いて喋って立ち回るのを見たら、容量オーバーになるのも許してほしい。

「期待には応えられた?」

鮮烈な赤目が自分に向けられる。つん、と鼻の奥が熱くなった。

「そんな、期待に応えるなんて、そんなものじゃないです。期待なんてずっと超えてて……楽しかったです。ストーリーは分かっているから、終わりが近づいてるのも分かって、それがすごく嫌で、いつまでもこの舞台が続いてほしいと思いました。今が終わるなって。もう一回、何回でも観たいです。俺はなんで一回しか観れないんでしょうか。一生やってください。ランスロットに斬りかかるガウェインは、ゲームでは文章と一枚イラストがあるだけですけど、舞台では役者さんが終始演じないといけなくて、それを卯木さんがどう演じるのか、今日まで想像してました……でも想像したよりずっと……なんて言えばいいか分からないですけど、ガウェインの葛藤が自分に流れ込んでくるみたいで、つらくて……。幕が降りる時、これからガウェインはどんなふうに生きていくんだろうって考えて……舞台の上でガウェインは生きてた。感動しました。卯木さんが生きさせてくれて……」

溢れる心のまま、言葉を尽くして伝える。最後に、観に来てよかったです、ありがとうございます、と加えた。

「あっ、再演はいつですか?円盤は出ないんですか?」

名前の質問に千景が答えられなかったのは、答えが分からなかったからじゃない。自分達の舞台、自分の芝居で、ここまで心を動かしてくれたことが嬉しかったからだ。原作ファンだから、原作のガウェインが好きだから感動したというのではなく、舞台化の意味を、自分が表現したものを受け取ってくれた。
高揚感がチリチリと胸を焦がす。

「卯木さん?」
「……ごめん、苗字の言葉に感動してた。何?」
「え?あ、ええと、打ち上げとかありますよね?俺に時間をくれてありがとうございます」

違う。自分が言葉を欲しがっただけだ。

「いや、引き止めて悪い。明日からまた出張だろ。……今日はありがとう」

名前がはにかむ。黒縁眼鏡と前髪で隠れがちな瞳がやわらかい色で光る。

「あの……ガウェインを演じる卯木さん、とっても格好良かったです」

心から思っていることでも、直接格好良いと言うのは恥ずかしい。でも今は言いたかった。

「じゃあ、これで」

部屋を出ようと扉に向かう名前の腕を千景が掴むと、名前が不思議そうに振り返る。その唇にキスをした。
唇がくっついたまま、びっくりして固まる名前。千景もまた、自分の行動に驚いた。思わず、勢いで。やってしまった。

「……悪い」
「チカゲどこにいるネー?」
「千景さーん」

廊下から、シトロンと綴が千景を探す声が聞こえる。と思ったら二人がいる楽屋の扉を至が開けて、名前は何がなんだかよく分からないまま、顔を真っ赤にしたまま「お疲れ様でした」と走っていった。
キスした現場を見てはいないが、至は二人の様子から事態を察知する。

「先輩、やっちゃった感じですか?」
「……そうみたいだな」
「マジか……勢いで?先輩でもそんなことあるんですね」

自分でも自分が意外だった。詰将棋のように計画立てて時間をかけて、一つずつ組み立ててきたものを、まさか自分自身が、勢いだけで壊すなんて。舞い上がったとしか言いようがない。

「……お前、好きな子に、ランスロットを演じてる茅ヶ崎さんとっても格好良かったですって言われたらどうする」
「あー。このあとどうやって打ち上げからのホテルに誘うか考えますね」
「……猿だな」
「同類では?」

そうかもしれないと思い、千景は自分にがっかりした。

「落ち込んでる先輩、正直メシウマ」

ため息をつくしかなかった。

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