まばたきの猶予 四
翌月曜日の朝早くに名前はベトナム出張に発ち、その週の金曜の昼過ぎに帰国した。空港から本社に直行で出社する。このまま家に帰っても勤務設定上は問題ないのだが、明日の夕方にはまた数日の出張に出るので、今回の出張の報告や事務的な仕事を済ませておきたかったのだ。
金曜の午後、フロアには週末の解放感のような空気が滲んでいる。中でも特に金曜の夜を待ちわびている男、上司の平尾が名前の姿を認めて「お疲れさーん」と底抜けに明るい声を上げた。
つられるように部署の人々が顔を上げてねぎらいの言葉をかける。

「お疲れ様」
「お疲れ様です」

千景も周りと全く同じように声をかけた。まるで、何事もなかったように。だから名前も平然と応える。

名前は目の前の仕事にのめり込むことで動揺を隠した。
あのキスは、ファンサービスとか、スキンシップとか、そういう類のものだと思うことにしたのだ。
本当に驚いたし、心臓も思考も一瞬止まってしまった。キスをしてきた当の本人が「悪い」と言う声で名前も我に返り、顔も体もカッと燃えるように火照った。キスをした。キスをされたと言うのが正しいが、あの瞬間の名前には大した違いではなかった。
海外育ちであり、今も海外の文化に日々接する身としては、ある程度のスキンシップは照れることではない。口へのキスが『ある程度のスキンシップ』のカテゴリーに入るかどうかは議論の余地があるけれど、それだって、経験が無いわけではない。嫌な思い出だが、酔っぱらった商談相手に口づけられたこともある。そんな事に照れたりはしない。
逃げ出すほどに照れたのは、相手が他の誰でもなく、千景だったからだ。

「苗字、これ頼んだっ」

定時間際で思い出したように仕事を振るのが平尾の常だった。「別に今日中じゃなくていいから」と平尾は言うものの、明日からの出張に持ち込みたくない。
お互いに出張の多い身なのだから仕事の依頼は早め早めにして欲しいと言って平尾をジロリと見る。すると不意に千景の視線を感じた気がして、名前は慌ててパソコンに向き直った。集中を切らしてはいけない。
周りの社員が帰るのも気づかず黙々と仕事に打ち込む。時間の感覚がなくなる。
ひと区切りがつくと、意識がふっと外側に戻って来る。顔を上げるともう数十分で日付が変わってしまう時間だった。フロアには誰もおらず、向こう半分ほど照明は消えている。
どっと脱力し、酷使して乾いた目をぎゅうっと閉じる。
帰ろう。荷物をまとめ、消灯し、スーツケースを引いて部屋を出る。
タッチキーでフロアを施錠していると「お疲れ様」と後ろから声をかけられ、驚いて肩をびくんと震わせた。誰かがいるとは思わなかったのだ。足音もなかった。

「卯木さん……お疲れ様です」

自分が気付かなかっただけで、この人もさっきまで仕事をしていたのだろうか。

「ロビーにいた。遅くまでお疲れ様」

目を丸くする名前の疑問を汲み取って千景は話した。もしかして、と思い名前が社用の携帯電話を取り出す。SMSが一通届いていた。仕事終わりに少し時間をもらえるか、という内容だ。二時間前に受信している。

「あの、ごめんなさい、今見ました……」
「いいよ。勝手に待ってただけだから」

全く気にしていないという風に千景は笑って見せる。

「ちょっとだけ話せる?」
「……はい」

ツキン、と緊張が喉にはしる。
名前は千景が歩く後をついていく。乗ったエレベーターが向かっているのは屋上だった。
高層ビルの屋上は風が強く寒いが、空気は澄んでいる。雲のない空に三日月がくっきりと見えた。

「この前は悪かった」

月を見上げながら千景が言う。何のことを指しているのか分からないわけがなくて、ぐ、と身体が強ばる。何と返事をすべきだろう。

千景は月から名前へと視線を移し、困惑させてしまっているのをひしひしと感じて自嘲する。
困らせたいわけじゃないのに。不都合なことは得意の嘘で誤魔化してしまえばいいのに。そう思うのに日本文化に倣って告白するなんて、我ながら、馬鹿じゃないかと思う。
気持ちが、はやく言葉になりたいと心を急かす。後先も考えず勢いでキスしてしまう程に溢れている感情。こんなことは初めてで、持て余して、これ以上押さえつけておくのは難しかった。

「好きだ」

まるい瞳が月の光を受けて美しくかがやく。魔法みたいだ。気持ちを言葉にしてしまうのはお前のせいなんだと、頭の片隅でこっそり思う。

「後輩としてとか、友人としてとか、そういう意味じゃない。……伝わってるか?」

名前がゆっくりと頷く。驚かせただろ、と言われやはり素直に頷くと、千景は小さく笑った。

「引き止めて悪かった。……明日からの出張も、無理するなよ」

千景が屋上から出ていく。名前は動けなかった。何も言えなかった。

後輩としてじゃない、友人としてじゃない、好きだっていう気持ち。あの人がどうして自分なんかを好きになるのか、皆目検討がつかない。どんな気持ちで今まで一緒にいてくれたのだろう。
ナイランの舞台化を知らせるのを楽しみにしてくれた。引っ越しのお祝いに貰った綺麗なグラス。飲み会では苦手なビールをこっそり飲んでもらった。酔うといつもタクシーで送ってくれた。家に不審者がいた時、その日も翌日もずっとそばにいてくれたのがどれだけ心強かったか。大事なものをなくしたくないと言って、泣いてくれた。MANKAI寮に連れて行ってくれて、多くの友人ができ、かけがえのない絆を持てた。出会ったばかりの頃、顔を隠してろくに喋らない自分を、それで構わないと言ってくれた。
目に涙が浮かぶ。
あまりにも多くをもらった。優しい人。愛情深い人。
だから、自分なんかにはーー。

冷たい空気に涙が冷える。けれど乾く間もなく、あとからあとから溢れて止まらなかった。



数日の出張を終えて、名前は飛行機の機内で映画を見ている。見ていると言っても、画面を視界に入れているだけで話の細部はあまり追えていない。
最近は、仕事に集中している時間が一番気が楽だ。平尾と二人で任されている東南アジア周りだけでなく、社内の別部署と連携するチームにも入ることになって業務は純増した。没頭できるだけの仕事量を貰えて有り難い。
仕事の行き帰りや、食事をしている時。布団の中で眠りにつくまでの時間。思い出そうとしているわけではないのに名前は千景のことを考えてしまう。今どんな思いで過ごしているだろう。劇団の誰かと話して、笑って、幸せでいてくれればいいけれど、あの時自分が何も言えなかったせいで、思い悩んだりしていないだろうか。
いくら考えても分かるわけがなかった。どうして自分なんかを好きだと言うのか、理解不能な人なのだ。なのに無意識に考えてしまって、まるであてもなく大海をひとり泳いでいる気分だった。

帰国した次の日、いつものビジネスバッグといつもの空港の紙袋ーー部署へのお土産を持って出社する。心のうちには重すぎる鉛を抱えている。あの日貰った言葉への返事を、もし千景が遅くまで残っていたなら、名前は今日するつもりでいる。
近い席の人達と、おはよう、おはようございますと挨拶を交わして席につく。顔は向けられても、千景の目を見ることは出来なかった。それを千景は当然気付いたし、千景が気付いただろうと名前も思ったけれど、やっぱり目は見れない。

キスをして、自分はこの人が好きなのだと気付いた。好きだと言ってもらって、ものすごく驚いてしまってろくな反応ができなかったけれども、嬉しい気持ちは胸の内にはちゃんとある。
だから嫌なのだ。
もし、自分がこんな自分じゃなかったら……そうしたらきっとあの人の気持ちに応えることができた。

二十時前に今日の仕事が片付いてそろりと周りを見ると、他にも数人が残っていた。パソコンを操作する音や空気清浄機の音なんかが広い空間に響いている気がする。自分の心音のほうがいやに大きく、それが名前には不快だった。
まだ自席で仕事をしている千景の携帯電話にショートメールを送る。指に力は入らないけれど、予測変換のおかげで、何度か画面を押すだけで文章が生まれた。

『仕事終わりに少し時間をもらえませんか?』
『了解。もう終わる』

連絡を待っていたみたいに返信が早い。
千景が席を立った。その時名前に視線を寄越したので、ついて来いということだと理解した。

「別のチームと掛け持ちすると仕事が増えて大変だろう」
「……はい、でも、業務量は増えましたけど、他の部の人と仕事が出来るのは面白いです」

数日前と同じように屋上へ向かう千景の数歩後ろを着いていく。
自分がこれから何を話そうとしているか、この人が気付いていないはずがない。それなのにいつも通り、今まで通りの態度でいてくれている。

物心ついた時から親の不和を見てきたからか、人の苛立ちや、厭わしく思っている気配は敏感に察知することができる。しかし逆の感情には疎く、自分のこととなるとそれは一層顕著だった。前に千景に指摘された通り、自分が大切にされていると思う瞬間なんてこれまでの人生にはほとんどなかった。日本に来るまで恋人がいたことはあるけれどーー当時の自分たちなりに楽しんで過ごしていたけれど、お互いに慈しみや思いやりを持ち寄った付き合いだったとは言えないように思う。
諭してもらい、自分を大切にしてくれと願ってもらって、ようやく知ることができた。それだけでいっぱいいっぱいだった。まさか、そんな風に言ってくれる人が自分を好いてくれるなんて夢にも思わない。
この人は今までどんな気持ちで自分のそばにいてくれたのだろうと、何度も何度も考えた。自分のことを大事にしない人を好きになるって、きっと苦しい。もどかしかっただろうし、遣る瀬無い思いをしたはずだ。

あの日の三日月はほんの少しだけ満月に近付いていた。相変わらず屋上は寒いけれど、月はかなしいくらい綺麗だ。

「……あの」
「ん?」

やわらかい声に、やめて、と言いたくなる。喉につっかえる言葉が痛い。

もう、仕事以外で二人で話すことはなくなるかもしれない。ランチをしたり、お酒を飲んだり、美術館に出かけたりもしない。出来るはずがない。そんな虫のいい話はない。
でもそのうちきっと自分への気持ちは無くなって、また好きな人ができる。その人だって絶対にこの人を好きになる。こんなに優しくて格好いい人、いないんだから。

「この前言ってもらったこと、嬉しかったです。でも俺は……俺は、卯木さんの気持ちには、応えられません。ごめんなさい」

震えそうな声をしゃんとさせるのは難しい。目の奥が熱くなる。
泣くな。泣く資格なんてない。

「理由を聞かせてくれるか?」

いつもより硬い声色だった。顔を見ることは当然出来なくて、名前は俯いている。

「俺には、もったいないです。俺なんかじゃ、卯木さんを幸せにできません」

自分がこの人の近くからいなくなって、他の誰かが横に立つ。それを寂しいと思うだけじゃなく、嫌だと思う。身勝手この上ないと自嘲する気力もない。
好きだと言ってもらって嬉しかった。途方もなく嬉しかった。ずっとこの人の近くにいたい。でも、その術がわからない。

「……俺は、幸せにしてくれなんて頼んでないだろ」
「俺には同じことに思えます」

いっとき気持ちを通わせて恋人になったとして、その先の幸せを持ち寄れないのなら、一緒にいる時間は何なのだろう。自分の両親、母親は二度も永遠の愛を誓った人とひどく罵り合って別れた。両親にも、義理の父にも、お互いを幸せにする術がなかったのだ。あの人たちを非難する気は毛頭ないし、あの人たちを嫌ってもいない。
でも、同じようにはなりたくない。

「卯木さんを幸せに出来ない俺じゃあ、隣にいられません」

自分の足元をほとんど睨むように見つめる。目に涙の膜ができて、視界が歪んだ。

「……苗字の気持ちを聞きたい」
「さっき、言いました」
「聞いてないな。俺が聞いたのはお前の選択だ。お前の気持ちじゃない」

何を言われているのか分からなかった。俺の選択は俺の気持ちなのに。

「どうして俺の幸せにこだわる?」
「……それは、」

言わせないでほしい。こんなに苦しい胸の内を暴かないでほしい。名前は奥歯をきつく噛みしめた。
千景は、俯く名前の瞼がひどくゆっくりと瞬きをする様を見ている。用意していたありとあらゆる言葉は肝心な時に使い物にならない。不格好で不愛想な言葉ばかりが口をついて出てくる。自分の必死さが情けなかった。

「俺の幸せを、お前が決めるな」

俯いたまま、名前は息をのんだ。

「幸せにしてくれなんて頼んでない。……意味がわかるか?」

首を横に振ると、月明かりのような柔らかな声が、苗字、と自分を呼んだ。だから顔を上げる。この声に呼ばれるのが好きだった。

「……お前がいてくれるだけで、俺はもう、幸せなんだ」

堪えていた涙が流れる。一滴二滴なんかでは済まなくて、大粒の涙がぼろぼろと頬を伝った。

「なんで、そんなこと、」
「あるわけないって?」

嗚咽をこらえようとする間に先を越される。口をつぐんで頷くと、何が面白かったのか、千景は笑った。

「元教育担当として十分反省するよ」

なぜ急に仕事の話になったのか分からない。きょとんとしながら泣く名前に千景はまた笑う。

「俺の目を見てたんだろ?俺は嘘を言ってたか?」

嘘を言っている目じゃないと思うから、名前は困っている。
いるだけでいい。その言葉を真に受けることが難しい自分の人生と、嘘じゃないと語る瞳。信じたいのはどちらか自分に問うまでもないのに、自信のなさが邪魔をする。

謙虚さも度を超えると厄介だと千景は思い知る。この後輩に自信を持たせるのは重点課題にするとして、今は強引だろうと不格好だろうと構わない。本音を言わせようと千景は決めた。

「好きだ。俺の幸せを思うなら、そばにいろ」
「……どうして……」

なぜそんなに嬉しいことばかりを言ってくれるのか、名前には本当に、理解不能だった。

綺麗な顔をぐちゃぐちゃにして迷子みたいに泣き続ける後輩をよしよしと撫でて宥めてやる。可愛いなと思っていると、無意識に「可愛いな」と言っていたらしい。

「な、んですか、急に」
「急じゃない。ずっと思ってた」
「……!」

泣いて、きょとんとして、赤面して、忙しい。見ていて飽きない。黙々と仕事をする様も、絵を見つめる静かな横顔も好きだ。可愛いと言ったけれど、愛しい、と言うほうが合っているかもしれないと頭の片隅で考える。

「この際だから言うけど、人を好きだと思うのは、お前が初めてだ」
「……あの、もう、喋らないでください」

心臓がもたないと言い、視線を泳がせはじめた名前の頬に、冷たい手が触れた。

「じゃあ、今度は聞かせてくれるよな?」

選択ではなく気持ちを問われている。逃していた目線を、名前はこわごわと千景に合わせた。
本当に、自分がそばにいることを幸せに感じてもらえるのだとしたら。この気持ちは、言葉にしてもいいのかもしれない。またぶわりと溢れる涙を拭ってくれる手の、スーツの袖を控えめに握った。

「……卯木さんが好きです」

伝えた途端、強く抱きしめられた。驚いて声も出ない。

「……はあ。全く……心臓に悪い」
「それは、こっちの台詞です」
「いいや。お前のせいだ」

疲れたようなため息をつかれて、名前はやっぱりこっちの台詞だと思った。

千景の背中に手をまわし、最初にこうした時よりずっと力を込めて抱き着く。顔が見えないので確かではないけれど、すぐそばで千景が笑ったような気がした。

この人が笑っているといい。深く優しい青色の目が、幸せに細められているといい。
名前は心からそう願った。

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