ゆるがせど春 三
『北改札口を出てすぐの本屋の前にいます』

千景の社用携帯に、名前からショートメールが届いた。
火曜の朝。商談相手のオフィスビル最寄り駅で待ち合わせている。
おはようございます、だとか、よろしくお願いします、だとか、付属品の無い要件のみの文章。余りにもそっけなくて無礼だと思われることもあるだろうが、丁寧過ぎるやり取りは邪魔だと思う千景には、これくらいが丁度良かった。

『了解、あと二分で着く』

そう返信をしているうちに目的の駅が近づき、電車が速度を落とし始める。
昨日の夕方、今日の商談相手のことや目的について話してやってから、名刺を忘れるなよと最後に付け足しておいた。注意を促したのはそれだけだ。目にかかるほど長い前髪をどうにかしろとは言っていない。
いつも通りのスタイルで来たら直させるつもりだ。時間の余裕はある。マスクは、風邪だと言うならそのままでもいいが。
さて、あの後輩はどう出るだろう。

北改札口を出る。本屋のほうへ目を向けると、青年と目があった。
美しく整った顔立ちの、スーツ姿の青年が自分を見て近寄ってくる。

「おはようございます」
「……おはよう。苗字だよな?」

こくんと軽く頷く。声は苗字名前のものだった。
マスクと、分厚い黒縁の眼鏡をしていない。前髪をさらりと横に流し、名前の目を隠すものは何もない。千景のブルーグレーの瞳より少し明るい青。眼鏡とマスクのお陰でわからなかったが、すっと通った鼻筋に、小さな口。眉目秀麗というのはこういう顔のことを言うのだろう。

驚いてついまじまじと見てしまったが、後輩が気まずそうにしているのに気付く。悪い、と素直に謝って、訪問先へと歩き出した。千景の少し後ろを名前は静かに着いてくる。
道中すれ違う人がちらちらと名前を盗み見る。名前は俯いて、千景の足元だけを見ていた。

先方本社の受付では、女性陣が明らかに好意的な笑顔で名前を見つめている。名前もにこやかに笑顔で応対したので、千景はまた驚かされた。
好青年二人を、ぽやぽやと照れ顔で応接室へ案内する女性。この企業には何度も出入りしているが、見たことのない顔だったし若そうな子なので、彼女も新入社員かもしれない。名前の外行きの態度に驚くばかりで、彼女の名前を覚えられなかった。取引先で少しでも関わりを持つ相手の顔と名前は努めて覚えるようにしているのに、うっかりしていた。それ程、後輩の柔和な笑顔は目を引くものだった。

商談相手の二人も名前を見て目を丸くした。新入社員をひとり同席させてもらいたい旨は予め伝えていたが、その社員がどんな人物であるかは伝えていない。もっとも、千景にとっても未だに苗字名前はよく分からない奴だ。

「これはまた、イケメンくんが来たなあ」

中肉中背、薄口の顔の似たような男二人が揃ってほほうと感心する。千景が簡単に後輩を紹介すると、名前は笑顔で挨拶をし、作法に習って名刺交換を済ませた。

「卯木くんのところはイケメン揃いですねえ」
「うちの受付の子も、御社が来てくれると喜ぶんですよ」
「はは。それは嬉しいですね」

どうでもいい内容だが、にこやかに返しておく。
ここしばらくは良好な関係を続けている取引先だが、千景らにとっての競合企業からも熱心にアプローチを受けているのは把握している。油断はしない。

「苗字くん、本当に新人?しっかりしてるねえ。うちに欲しいくらいだ」
「ありがとうございます」

にこ、と名前が笑むと相手二人も一層にこにこする。おじさん二人は後輩をイケメンと表したが、格好良い、ではなく可愛いと思っている様子だ。
たしかに、苗字名前は中性的な顔立ちだった。可愛いと思われもするし格好良いと見られもする。名前自身は、顔のつくりを褒められても簡単にお礼を言うだけで、嬉しくはなさそうだ。少なくとも千景にはそう見えた。

商談は大変和やかに進んだ。基本的には千景が話し、名前も相槌を打つだけでなく、時たま先方へ質問をする。これがなかなかに本質へ踏み込むものだったが、おじさん二人は喜んで答えてくれた。

「今後ともよろしくね」
「苗字くんも、また来てくれよ」

エレベーターの扉が閉まる最後までおじさん達はにこにこして、時折名残惜しそうにもしている。久しぶりに会った孫を見送る祖父のようだった。
千景と名前が乗ったエレベーターにはどこかの社員が数人いて、名前は外行きの表情を緩めない。受付の女性に来館パスを返す際もやわらかに笑んで礼を言い、ビルを出た。一時間と少しの商談は、千景にとってあらゆる意味で得るものの多い時間になった。

駅までの道には街路樹が続いている。殺風景になりかねないオフィス街を明るい緑が彩る。並んでいるのはイチョウの木で、秋が深まり冬になる頃には見事に黄色く色づく。

「昼、食べて帰ろうか」

千景が振り返ってそう言うと、さっきまでの笑顔はどこへ行ったのか、名前は無表情でこくんと頷いた。

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