ゆるがせど春 四
「食べられないものはある?」

いいえ、と名前は小さな声で答えた。

「じゃあ、そこのカレー屋にしようか。いい?」
「……はい」

行きと同じように千景の後ろをついて歩き、店に入る。大通りから外れた場所にあるからか、それともまだ昼の早い時間だからなのか、客は少ない。千景は勝手知ったる様子で奥の二人掛けのテーブル席につき、名前にメニュー表を渡した。
異国情緒ある内装で、キッチンからはタイ語の会話が聞こえてくる。メニュー表には日本語と英語とタイ語が並んでいた。名前は一通りメニューを見てから千景にそれを渡そうとしたが、決めてあると言われて、スタンドにメニュー表を立てかけた。
千景が店員を呼んで注文したのが、メニューの中でもひと際辛そうなカレーだったので名前は目を丸くする。その反応が千景には面白かった。

「商談、緊張した?」
「……いえ、そんなには」

確かに、緊張しているようには見えなかった。
この新人、コミュニケーション力に問題があるかと思えば、どこか肝が据わっているようにも見える。

「こっちは驚いたよ。苗字が急に外行きの顔になるから」
「……すみません」

気まずそうに目を背ける後輩に、千景は、責めてるわけじゃないと言ってやる。

「どちらかというと、褒めてる。苗字のお陰で商談は上手く進んだ。内と外を使い分けるのはスキルの一つだと思ってるしね」

今日を皮切りに出張へ同行させる後輩だ。いつまでも居心地悪そうにされるとこちらもやりにくい。千景が宥めるように話してやると、名前はおずおずと顔を上げた。猫背気味に伺うような目を向けられると、少し揶揄いたくなってしまう。

「まあ、内と外って言ったら普通、会社とプライベートで線引くとは思うけどね」
「……すみません」
「いいよ、俺は別に困ってない。そのままでいいんじゃない?」

本心だった。何も困っていない。むしろ、肝心な時にはしっかり外行きで日頃は物静かなんて、有り難いくらいだ。然るべき時にきちんとしてくれるのであれば、前髪が長かろうがマスクをしていようが、千景にはどうでもいいことだった。
千景にとっては単に事実を言っただけだが、後輩は思うところがあったようで、目を丸くした。きょとんとしたその顔は実年齢よりかなり幼く見える。

その時、オマチドサマ、と店員が料理を運んできた。千景の前にトマトスープのような赤いカレーが置かれると、名前はぎょっとした。

「……これ、食べたことあるんですか……?」
「あるよ?」

信じられないという顔の名前に千景は思わず小さく笑う。

「一口食べてみる?」
「……遠慮します」

名前が注文したカレーが運ばれてきて、小さく「いただきます」を言う。トマトスープみたいなルーじゃない、いたって普通の日本風のカレー。それを一口食べて、飲み込んで、水を飲む。
また一口食べて、そっと飲み込んで、水を飲む。
名前が三度同じことを繰り返したのを見て、千景は笑わずにはいられなかった。

「お前、辛いもの苦手なんだろう。言えばいいのに」
「……食べられます」
「無理しなくても、甘口だってあっただろ」
「食べられます」

名前は自分で中辛を選んだ。カレー屋でいいかと千景は最初に確認もした。苦手なものを避けるタイミングはあったのにそうしなかった。
また一口分をスプーンですくって口に入れる。舌の上で一瞬だけ味わう。飲み込んで、三秒ほど置いてから、僅かに眉根を寄せて顔で水を飲んだ。

「……ふっ」
「……」

自分を笑う先輩に、名前はジト目を向けた。むっつりと口をつぐんで、青い瞳に不満を滲ませて。

水休憩を幾度となく挟みながら、黙々とカレーを食べ進める。名前が全部食べ終わるまで、千景は思う存分にやにやした。出来るだけ顔を上げずにカレーを食べ、それでも時々、笑うなと言いたげに名前はじろりと先輩を見た。

帰社する前に名前は駅のトイレに寄り、マスクと眼鏡をつけ、前髪を乱した。いつものスタイルでトイレから出てきた後輩の早業に感心する。

自社に戻ると、大丈夫だったかと、千景は先輩らにコソコソと声をかけられた。

「苗字のお陰で商談は円滑に進みました。継続は間違いないと思いますよ」

笑顔をつけて返事をしたが、先輩らはイマイチ納得していない。
あんな格好の社員を連れて行くのは恥ずかしい。会社の評判を落とすのではないか。はっきり口にはしないが、そういうことを言いたいのだ。ただ、苗字名前の優秀さはそれなりに理解しているので、商談の役には立ったのか……?とも。

そう遠くない場所にいる先輩達の醸し出す空気も、小声で何やら自分の話しをされていることも、名前はわかっている。しかし気付かぬ振りをして、パソコンに向かうのだった。

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