ゆるがせど春 五
四月最後の金曜日、新入社員の歓迎会が開かれた。海外法人部は常に誰かしらが出張に出ているので全員が集まることは出来なかったが、今回は割と参加率がいいらしい。定時で上がり、十人ほどで連れ立って賑やかな居酒屋に入る。

この春海外法人部一課に配属になったのは、新卒の名前だけではない。国内法人部から異動してきた今年四年目の社員ーー千景と同い年の瀧がいる。部長から歓迎会をすると聞いて一瞬動揺したが、自分以外にも歓迎会対象の新人がいると知ったとき、名前は心底ほっとした。歓迎会を開いてくれるなんて有り難い……と思うべきかもしれないが、正直なところ、そういう会は苦手だ。場が温まるような面白い話は出来ない。自分にばかり注目が集まるのは、絶対に避けたい。

大きなテーブル席へ通され、新人は真ん中にということで、瀧と並んで座らされた。新人同士とはいえ瀧は先輩であるし、担当する国が異なるので仕事を一緒にすることもほぼなく、挨拶をする程度の仲だ。酒の席で急に隣に座ることになって、居心地が悪い。
最も、名前が入社から今日までの間にまともに話したことがあるのは千景と部長、課長だけなので、どこに座ろうとも大抵気まずいのだが。
そんな後輩の心持ちを察したのか、偶然かは分からないが、千景が右隣に座ってくれたので、少しだけ名前の緊張は和らいだ。

「商談より社内の方が気が重いんだな」
「……はい……」

飲み物のメニューを名前に見せながら、千景が声を潜めて話しかける。周りの先輩たちは、飲み会を始める直前の浮足立ったテンションで、飲み会久しぶりですね、今月も疲れましたね、などと言い合っている。

「苗字は何飲む?とりあえずビールでオッケー!?」

左隣の瀧も飲み会を楽しみにしていたのだろう。大いにはしゃいで話しかけてきた。

「苗字、ビールなんて飲めるのか?オレンジジュースもあるよ」

瀧からの、強風のような元気いっぱいの声掛けに圧倒されていると、千景からそんなことを言われた。カレー屋に一緒に行って以来、こうして時折甘党なことをからかってくる。舌がお子様と言われたこともある。
名前は千景をジト目で見てから「ビールにします」と言った。
普段よりキッパリと言い切ると、千景がくつくつ笑った気がした。この人はよく自分を見ていて、的確にフォローしてくれたかと思えば、ちょっと意地悪なことを言ってきたりもする。そういう時、名前は今のようにジト目をしたり、少しだけ言い返すようになった。

とりあえずのビールが全員に行き渡ると、瀧の正面に座る部長が乾杯の音頭を取る。よろしくね、よろしく、と先輩達に声をかけられながら遠慮がちにジョッキをぶつけ、周りが一口目を飲み始めたのを見てから、名前もマスクをズラして一口飲んだ。苦味が口に広がる。もう一口飲んでから、ゴトリとジョッキを置いた。

「……課長、次は何飲みますか」

ジョッキを早々に空にしそうな正面の課長。いつも気さくに話しかけてくれるその人に飲み物のメニューを渡す。課長は、気が利くじゃんと上機嫌で名前からメニューを受け取り、適当に日本酒を頼んだ。

「おー?苗字、さっそく点数稼ぎかー?」

瀧が名前の肩に手を回して茶化す。瀧の顔は既に赤い。

「強かな奴めー。お前も飲めー」
「瀧。後輩を苛めるなよ」

瀧が名前に回している腕をひょいと払って、千景が瀧にグラスを勧める。

「赤ワイン、好きだったよな?」
「おお!流石同期!わかってるー!」

受け取った赤ワインをグイグイ飲んで、心地よく酔った瀧は部長に熱く語り始めた。自分は海外法人部で何をやっていきたいのか。うんぬんかんぬん。運ばれてくるコース料理を大きなお腹におさめながら、部長はにこにこと聞いている。
課長はそちらを時折見て話しに入ったり聞き流したりを器用にこなしつつ、名前に話を振ってきた。

「苗字は出身どこなん?」
「……トロントです」

名前はカナダ最大の都市・トロント……その郊外の田舎町で生まれ育った。両親ともに日本人だが、父の仕事の関係で、一人息子の名前が生まれる前にカナダに渡った。家の中は家族みんな日本語で喋り、学校では英語を話す。
トロントは海外留学生の多い街だった。様々な言語に触れるうちに、知的好奇心をくすぐられて、名前は今の仕事を選ぶに至った。

「へー、帰国子女か。うちの部署にも何人かいるけど。何歳でこっち来たん?」
「十五歳のとき……高校からです」
「じゃあ日本暮らしは七年か。慣れた?彼女いる?」
「慣れました。……彼女はいません」
「ほーん。うちの女性陣も彼氏いない子多いから、そのうち若いモン同士で飲み会でも行けよ。なあ?」

課長が端の席に固まって座る女性陣に話を振ると、彼女達は揃って顔を顰めた。

「出張続きで彼氏作る暇ないんですけど?」
「うちの部は既婚者多いし」
「卯木くんにははぐらかされますし?」

まるで打ち合わせでもしていたかのように、彼女達の口から淀みなく文句が飛び出す。
上司である課長相手にこんな風に話せるのは、この部署の良いところと言えばそうかもしれないし、単に彼女達の気が強いだけとも取れた。課長は課長でハッハと簡単に笑い飛ばしてしまう。

「卯木くんは彼女とかどうなのよー」

名前が課長にお酌をするのを、おっとっと、などとひょうきんな反応で受けながら、課長が千景に声をかけた。
話題の中心が自分からそれて、ホッとする。

「はは。今は仕事が楽しいですから。それに可愛い後輩もできましたし?なあ、苗字」

安心したのもつかの間で、自分にバトンが戻ってくる。助けてくれたり、困らせてきたり、よく分からない先輩だ。
なあ、と言われても何と返していいかわからず、名前は空になりそうな千景のジョッキを見やった。

「……卯木さん、何飲みますか」
「そうだな、辛めの日本酒をもらおうかな。って言っても苗字には分からないか?」
「……これはどうですか」
「ああ、いいんじゃない?」

メニューの中から辛そうな名前の酒を見つけて指差す。名前は飲んだことがない。そもそも、メニューに並んでいる酒のほとんどを飲んだことがないし、興味もなければ耐性もない。けれど選んだのは的外れなものではなかったようで、千景が頷いたので、近くを通った店員を呼び止めて注文した。俺も俺も、と課長が手を挙げる。

「苗字はけっこう飲める口なん?」
「……どうでしょう」

名前が答えを濁すと、千景が隣でくつくつ笑った。

頼んだ酒はすぐに届いたが、お猪口は三つ。ちょっとでも揺らせば零れてしまいそうなほど波波と酒が注がれている。
名前は日本酒を飲んだことがない。自分の分まで注文したつもりはなかった。一杯目のビールだって飲み終えてないのだ。しかし店員を呼び止めて返すのも気まずい。
そんな名前を知ってか知らずか、課長と千景はお猪口を取り、乾杯するのを待っているようだった。仕方無しに名前もお猪口を手に取って、二度目の乾杯をした。先輩二人がくいっと飲んだのを見てから、マスクを下げてひと口飲んでみる。

「……!……っ!」

酸味だとかコクだとか、そんなものを感じる余裕なんてなかった。苦い。辛い。なんだこれ。
ほんのひと口で咳き込んだ名前を課長はゲラゲラ笑い、千景はやれやれと水の入ったジョッキを渡してやった。

「……すみません……ありがとうございます……」

冷水が酒の苦味を押し流してくれた。
ビールも日本酒も、顔色を一切変えず飲み続ける千景と課長。名前は妙な対抗心のようなものに動かされ、全然減っていないお猪口をもう一度手に持った。そして飲もうとしたのを、千景が手で止めた。

「苗字、自分の限界まで飲んだことある?」
「……?ないです」
「じゃあ今はやめとくんだな」
「?」
「泣き上戸だったり、喧嘩早かったりしたらどうする?見られたくないだろ」
「………」

確かに、こんな場で自分も知らない変なところは見せたくない。自分への印象が悪くなるのは別に構わないが、先輩達に迷惑をかけてしまうのは嫌だ。
素直にこくんと頷いて水のジョッキへと持ち替えた後輩に、子犬を飼うというのはこういう気分かもしれない、と千景はひっそり思った。

それからは、課長の若い頃の苦労話を聞いたり、また瀧に絡まれたりしながら過ごした。社会人になって初めての酒の席は、正直なところ、仕事よりずっと疲れる。

しばらくして名前はお手洗いに立ち、席に戻ろうとすると、瀧がさっきより勢いを増して口弁を垂れているところだった。あそこに戻りたくない。
最初に座った場所から移動している先輩も多い。自分と同じように席を立っている人もいるのだろう、空いている席がちょこちょこある。
そっと隅の席に腰かけると、向かいにいた女性の先輩社員が話しかけてきた。さっき、彼氏を作る暇がないと言っていた一人だ。この人は中国や韓国の企業を担当している。

「苗字君お疲れー」
「……お疲れ様です」
「聞いてるよ。優秀なんだってね?新卒でうちに配属されるだけあるねぇ」
「いえ……たまたま、語学が好きだからじゃないですか…」
「えー?語学だけじゃないでしょ。この前卯木君と行ってたA社の人と話す機会があったんだけど、苗字君のこと褒めてたよー」

そうですか、と返す。我ながら面白くもなんともない返事だと思うのだが、饒舌でもないしユーモアも持ち合わせていないのでこれ以上の反応は出来ない。それでも先輩は気にせず話を続けた。

「そういえば、商談では眼鏡してなかったって聞いたけど?」
「……まあ……はい」
「眼鏡。取って見せてよー」
「……いや、そんな、面白いものじゃないですし……」
「減るもんでもないでしょー!見せてよー!独身男性の顔見たいー!」
「なになに?苗字君、眼鏡とってくれるの?」

隣の女性の先輩も話に加わってきた。どうしよう。一人でも相手をしきれなかったのに。いえ、ええと……、と歯切れ悪くごにょごにょ言っても先輩達は逃してくれない。
先輩二人に詰め寄られて困っていると、ひょい、と後ろから眼鏡をとられた。

「とったぞー」
「ちょ、あの、返してください」

慌てて振り返ると、すぐ後ろに男の先輩が立っていて、名前の眼鏡を手に笑っている。
同僚……後輩とはいえほとんど話したことがない相手の眼鏡を勝手に取るなんて、失礼ではないか。少しそんな風に思ったが、先輩は赤ら顔でご機嫌な様子な上、しっかり立てないようで体がぐらぐら揺れている。まともに相手にするだけ無駄そうだった。
その人が、ぬっと顔を寄せてくる。

「んん……?苗字お前、イケメンだな?」
「え!?……えっ!?うそ!」

眼鏡を取るだけでなく前髪にまで触れてきて、雑に分けられた。それを隣の女性の先輩が見ていて、うわお、と大袈裟なリアクションをとる。すると当然、他のメンバーもこちらを見る。
一同がざわめく。特に女性達がきゃっきゃと騒ぎだす。
何か言われているが、名前は眼鏡を取り返し、分けられた前髪を乱して目元を隠すことだけを考えていた。

「何で隠すのー!?勿体ない!」

女性陣がはしゃぐ。今すぐ逃げ出したいのを堪えて、なんとか苦笑いを作った。早く自分から興味を失ってほしい。
ほとんど俯くようにジョッキの水滴なんかを見ていると、横から腕を掴まれた。え、と思いそちらを向く。名前の手首あたりを掴んでいるのは千景だ。

「すみません。この後は教育担当として苗字とサシ飲みの予定で、店も予約してあるので。お先に失礼します」

淀みなく嘘をつき、名前を立ち上がらせて店の出口に引っ張る。名前は自由な片手で自分の鞄を急いで持って、呆然としている先輩達に小さく頭を下げ、腕を引かれるまま外へ出た。



「悪かったな、すぐ助けられなくて」

前を歩く千景がそう言うのを、見えていなくても首を横に振る。

「いえ、卯木さんが謝ることでは……。すみません……飲み会の空気を、俺が悪くしました……」
「あいつらの悪ふざけが過ぎただけだ。お前が謝ることでもない」

そう言ってもらっても、名前は落ち込んだ。やっぱり自分は、人と向き合うのが苦手だ。一対一でも緊張するのに、大人数の飲み会なんていう賑やかな場は辛すぎる。そんなところで、隠していた顔を晒されて注目されたことが嫌だった。先輩達が楽しく過ごしている時間を自分のせいで壊してしまったことも、すごく、嫌だ。
ーー昔は、普通に人と話せたのに。

千景は、純粋な優しさで後輩を助けたわけではない。
会社の飲み会がそもそも面倒だし、喧騒が耳障りだ。後輩に絡む同僚はすこぶる鬱陶しかった。ちょうど飲み会が始まってから二時間経ったところでもあったので、予定していない二次会のサシ飲みを口実にして名前を引っ張り出してやっただけだ。

外へ出ても、飲み屋街は煩い。あっちこっちから人の声が聞こえる。
適当に歩きながら、ちらと名前を見る。俯いているので顔はほぼ見えないが、鬱々とした空気を纏っているのはよく伝わった。

短い間だが、苗字名前という人間を近くで見てきて、周りをよく観察し、人にかなり気を遣う奴だと思っている。
それだけにさっきの事は本人も嫌な展開だっただろう。後輩が顔を隠していることに理由が無いとは思えない。他人の人生に踏み込む気はないが、千景はこの後輩をそこそこ気にかけている。

「出任せでああ言ったことだし、ニ軒目行くか?」
「……帰りたいです」
「お前、そこは素直なんだな」

基本的に素直だが、時折強がる。ジロリと視線を寄越してくる。誘いは断る。これはこれで懐いている、と捉えていいのだろうか。
まあ、疲れただろうし、帰した方がいいかと思い直して駅へ向かった。

改札を通って別れる。最後にぽつりと、ありがとうございました、と名前は千景に礼を言った。そうして重たい足取りで、ホームに降りる階段へと消えていった。

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