未知のお月見
四月と連休があっという間に終わり、出社すると、名前は千景から海外出張への同行を言い渡された。一週間でイタリアを周るらしい。お得意先もあれば新規契約を狙っている先もあるとのことだった。

同じ課に同時期に配属された新人であり先輩である瀧は、名前が自分より先に海外出張へ行くことを目に見えて悔しがった。瀧の教育担当である先輩が「瀧は商談出来るくらい英語鍛えようなー」とのんびり言うのもまた瀧を苛つかせた。
瀧は元々海外法人部を希望していた。国内法人部に配属されてから四年、毎年異動希望を出していたのがようやく通ったのだ。異動希望を叶えるために、国内法人部でもそれなりの結果を残した。語学力の不足を指摘されると辛いが、自分には、新入社員にはない経験と結果があるのに。
そんな不満げな視線に気付いても、名前にはどうしようもなかった。

同行だからといって四六時中一緒にいるわけではない。往復の飛行機はそれぞれに予約をする。ホテルだけは会社の都合で同じところに宿泊するが、当然部屋は別々だ。朝はホテルのロビーに集合、商談後は現地解散。突発的に商談相手と会食が入ることがあるので、それには応じること。千景からの全ての指示に頷く。
海外出張も、イタリアに行くのも初めてだ。好きで身に着けた語学が活かせる。パソコンに向かいキーボードを叩いて、着々と商談に向けた資料を仕上げていく。いつも通り黙々と仕事をしているようでいて、心の内はひっそりと興奮を覚えていた。

そうして迎えた五月三週目のイタリア・ミラノは、快晴だった。

商談の朝。ビジネスホテルのロビーの隅っこに、マスクも眼鏡もしていない名前が立っている。久しぶりに素顔を見たが、やはり目を引く容姿だ。ロビーにいるビジネスマンや観光客もちらちらと名前を見ている。
千景が近寄るより早く、名前が千景のほうへ歩み寄った。

「おはよう」
「……おはようございます」

形のいい唇が小さく動く。

「時差ボケはしてないか?」
「はい」

確かに不眠や疲労はなさそうだ。むしろ、いつも覇気のない声が今日は少しだけ熱を感じた。この物静かな新人も張り切ったりするのか。日本で初めて商談に連れて行った時はそう張り切った様子ではなかったので、海外での仕事というのが彼の中で特別なのだろうか。そんなことを考えながら、地下鉄に乗った。

千景にとって行き慣れた今日の商談相手は名前をいたく気に入り、可愛い、可愛いと何度も褒めた。名前は最初のうちこそ謙遜したり礼を言ったりしていたが、あまりに繰り返し言われるので反応に困った。
確かに、顔の堀が深い人達の中にいると後輩が異様に可愛く見えるなと千景は思い、そんなどうでもいいことを商談中に考えた自分に呆れた。それからは、てきぱきと話を進め、予定通りの展開に持ち込み双方満足のいく着地にまとまる。
千景の鮮やかな話法が、名前には手品か魔法のように映った。商談の準備は一緒にしてきたので話の根拠も展開も理解は追い付いているのだが、ここまで綺麗に、全て思うままに進むとは。

「苗字は外国語学部だったよな。イタリア語専攻?」

午後の商談まで時間があるので、適当なレストランに入って食事をとる。後輩が流暢なイタリア語で商談相手に質問をしていたのでそう聞いてみたが、いえ、と返ってきた。

「専攻はスペイン語です」
「じゃあイタリア語は独学で?」
「独学と……ネットで」

今よりもずっと引きこもりがちだった日本での学生時代。外国語の会話教室に通う勇気は無かったが、幸いなことにネット環境があった。自宅から世界中と繋がることができる。素顔を出す必要もない。だから名前は、高校入学から大学卒業までの七年の間にいくつかの語学を習得することができた。語学学習は趣味のようなものだ。

「……卯木さんは、何を専攻してたんですか?」

名前から初めて向けられた個人的な質問に、千景は嘘と事実を混ぜて答える。千景の話を、そうですか、と一言の返事で片づけて、深く聞くことはしない。
この後輩が商談では別人のように話すのだから面白い。仕事への責任感がそうさせるのかと思っていたが、今朝の様子だと責任感だけじゃなく、やりがいーー千景は全く感じたことのないそれーーを併せ持っているらしい。
入社初日は同僚から散々な言われようだった奴だが、採用担当者の目は確かだったようだ。

午後の商談を終えて、じゃあ、と解散する。駅に向かいながら後輩は早速マスクをつけていた。その背中を見送って、千景は組織の仕事へと出かけた。



翌日も午前と午後に一社ずつ商談をし、夕方の列車でミラノからフィレンツェへ向かう。その翌日は午前一社の商談を済ませると、午後はフィレンツェからローマへ移動した。さらにその翌日に、ローマで午後二社との商談。
新人にはハードなスケジュールかと思われたが、名前は疲れた様子は見せず、外行きの顔を見せ続けていた。
ローマでの商談の最後に、相手方から夕食に誘われた。この仕事に会食は付き物だ。面倒だが、相手は新規契約を狙う企業なので断るという選択肢はない。

赤ワインとパスタが美味いという先方おすすめの店に四人で入り、和やかに食事をする。
相手の男二人は陽気で、会食という堅い雰囲気ではなく、古い馴染みのように話しかけてくる。名前は薦められた赤ワインを少しずつ飲み、にこにこと笑顔で相手の話に相槌を打つ。
相手は大のはしご酒好きだった。強引な誘いで二軒目へと連れて行かれる時には、名前は顔を赤くしていた。二軒目の立ち飲みのバーで四杯目のワインを飲む。四杯目はフルーティな白ワインで飲みやすいと聞く。けれども、名前には苦い水としか思えなかった。飲み慣れれば美味しいと思うのだろうか。
名前が五杯目を薦められると、流石に千景が止めに入り、水を注文してやった。この店はワインより水の方が高く、名前は変に気を遣って千景が水を注文するのを断ろうとしたが、千景は聞かなかった。立てない程ではないが、僅かな動作が不安定になっている。相手の一方、筋骨隆々とした体つきの男が名前の肩を支えて、大丈夫かい、と笑う。
三軒目のはしご酒を断ると先方は残念がったが、また来てくれよと千景と名前にハグをして、店の前で別れた。

地下鉄でホテルに帰ると、足取りがおぼつかないのを見守る口実で千景は名前の部屋まで着いてきて、名前をベッドに座らせ水を飲ませる。自分から言い出すのを少し待ってやったが、口を開く気がなさそうな後輩に、内心でため息をついた。

「……で?渡された紙には、何て書いてある?」

ぱちんと弾かれたように顔を上げ、先輩を見る。
ハグをされた時、相手の男にそっと手に持たされた小さなメモ用紙。受け取った時に自分は何の反応もしなかったはずだし、地下鉄に乗る前に紙をスーツのポケットに素早くしまい込んだ。何故気づかれたのだろう。

「酔ってる割には上手く隠せてたと思うよ」

どうしてバレてしまったのかと顔に書いてある名前に、にこ、と笑顔をつくってみせる千景。その目は笑っていない。

「見せて」

しらを切ることも頭を過った。けれど、この先輩を相手に、酔って頭の働きが鈍い自分がしらばっくれるのは無理そうだ。名前は諦めて、ポケットに突っ込んだ紙を取り出す。
くしゃっと折れた紙を名前から受け取って、走り書きされた単語を見る。23時30分、ホテルxxx、ロビー。千景が予想した通りの内容だった。

「行く気だったろ」
「……」

元々俯いていたのを、さらに逃げるように顔を背ける名前。教育担当として、後輩に初めて苦言を呈するのがまさかこういう事だとは。千景は今度こそため息を隠さない。

「行ったらどうなると思う」

二人で飲みなおす、なんて思ってるわけじゃないよな?
そう問い詰める千景に、名前は沈黙するしかなかった。
分かっているつもりだ。こんな誘われ方をして、どういう展開になるのかなんて。名前はそれほど初心ではない。こんな誘いが、別に初めてというわけじゃない。だからあの小さな紙だって、ちゃんと隠せたと思っていたのに。

「お前が行きたくて行くのなら構わない」

はっきりと言われて、息を呑む。けれど、

「……でもそうじゃないんだろう。責任感を履き違えるな」

そう続けられた声は少しだけ柔らかくて、先輩を見上げた。
酔って顔が赤らんでいることを差し引いても、苗字名前にはどこか色気があった。儚げとか繊細そうとか、そういう類ではなく、硬質な印象の美人だ。商談相手の男は、この後輩のそういった魅力に当てられたのかもしれない。
シュンとしている後輩の髪をぐしゃぐしゃに乱してやる。

「ここには俺が行く」
「え?」
「上手く伝えてやるから、お前は水を飲んで寝ろ」

言うだけ言ってドアに向かって歩き出す千景を、慌てて追いかける。

「あのっ」
「何?」
「……大丈夫ですか?卯木さんが……その、嫌な目にあうんじゃ……」

直接的な言葉を避けて嫌な目などと濁した後輩に、千景は呆れた。そこへ行こうとしたのはお前だろう。

「問題ない」
「でも……」

罪悪感と心配からくる態度だろうが、しつこい。いつも、はい、はい、と短い返事で理解する無駄の無い思考はどこへいったのか。

「すぐ戻る。戻ったらお前に連絡をする。それでいいか?」
「……はい。すみません。……気を付けてください」
「はいはい、わかったよ」

眉を下げて項垂れる名前を部屋に残し、ホテルを出た。
後輩の様子からして、こういうことにある程度は慣れているのだろう。顔が良すぎるのも考えものだ。
……まあ、あいつが取ろうとした行動も良くはないが、相手方にもそれなりに言いたいことはある。千景は無表情で件の場所に向かった。



『戻った。問題ない』

千景からショートメールが届くと、名前は間髪入れず電話をかけた。まさか電話をしてくるとは思わなかったので千景は驚く。

「あの、大丈夫ですか、何もされてないですか」

こんな声量で、こんな勢いで喋るのを初めて聞いた。

「大丈夫だ。俺自身も会社のことも、何も問題ない」
「……よかったです。……ご迷惑おかけしました」
「今後同じようなことがあれば必ず報告しろよ」
「はい」

いい返事だ。責任感を履き違えるな、という千景の言葉で名前は正しく反省していた。

「じゃあ、おやすみ」
「はい。おやすみなさい」

通話を切って暗くなった携帯電話の画面を見る。
よかったです。そう言う後輩の声は、心から人を案じる声色だった。あたたかな声をまっすぐ向けられたむず痒さと、努めて忘れていた、心配されることの鬱陶しさに襲われる。その晩も千景は組織の仕事へ出かけたが、思うように進まなかった。全く、調子が狂う。後輩のせいだ。今日はもう切り上げて寝てしまったほうがいい。

心の中でぶつぶつ言う千景の帰途を、煌々と輝く満月が照らしている。

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