未知のお月見 二
翌日。商談はなく、ローマの空港から日本に帰るだけの日なので、待ち合わせはしていない。現地解散と言ったのは他でもない自分だ。
けれども千景は、ロビーで名前を待っていた。
昨日のことがあったから見張る必要がある……と思っているわけではないのだが、一応、顔を見ておくことにしたのだ。後輩のメンタルケアのためであって、それ以上の意味はない。

スーツケースを引いてロビーに現れた名前は、先輩がロビーのソファに座っているのを見て、きょとんとした。千景が名前に気付いて目が合うと、名前は千景の元へ駆け寄った。

「卯木さん……あの、昨日は、すみませんでした」

深々と頭を下げる後輩。ロビーにいた他の客が小さく驚いている。
足を組んでソファに座った姿勢のまま、千景は努めて軽く、どうでもいいと言わんばかりに、はいはい、と受け流した。

「いいから、チェックアウトしてきたら」
「はい」

顔を隠したいつもの格好でも、目の色に心配と申し訳無さが滲んでいるのが見て取れた。やっぱり、むず痒さを感じる。あの目をやめさせないと自分の仕事に差し障る。
チェックアウトを終えた名前に飛行機の搭乗時刻を聞くと、自分の予約した夜の便より一つ前だった。今から空港に行くのは早すぎる。観光でもするのだろうか。

「どこかへ行くのか?」
「はい。バチカン美術館に行くつもりです」
「へえ。俺も一緒に行っていい?」

こくんと頷く後輩に、嫌そうな様子は見られなかった。

駅に二人分のスーツケースを預けて、バチカン美術館へ向かう。休日ほどではないが観光客は多く、混雑していた。
バチカン美術館にはいくつもの部屋があり、一通り見るだけで三時間から四時間はかかる。観光客の波に押されながらも、名前は気になるものがあればじっくり見た。中でもラファエロの『アテネの学堂』は、魂を奪われたように立ち尽くし、じっと見続けた。その目に切実さを……切望の色を見た気がして、千景はしばらく声をかけられなかった。

「苗字」
「……」
「苗字」
「……え?」

素晴らしい集中力だ。肩を軽く揺するとようやく顔をこちらに向けた。

「飛行機のチェックインの時間が近付いてる。そろそろ行くぞ」
「はい。すみません」

バチカン美術館といえばシスティーナ礼拝堂の『最後の審判』の鑑賞を最大の目的にする観光客が多いかもしれないが、その作品には大した時間をかけずに見終える。飛行機の時間が近付いているからというのもあるが、名前にとって『アテネの学堂』以上に見たい絵はない。

駅に戻ってスーツケースを回収し、空港へ移動してチェックインと手荷物検査を済ませる。搭乗までは少し時間があった。ラウンジでコーヒーを飲みながら、名前は今更ながら申し訳無さそうに千景に尋ねた。

「……あの、卯木さんは、行きたいところはなかったんですか?」

自分の観光に着き合わせた。やはり昨日のこともある。心配をかけ、見張りをしてくれているのではと思ったのだ。
そんな名前の考えはお見通しで、千景は軽く答えた。

「ああ。どこかのカフェに入ってのんびり本でも読んで過ごそうかと思ってたけど、いい気分転換になったよ。芸術に触れる時間は必要だな」

前半分は嘘だ。組織の仕事を進めるつもりだった。けれど言葉の後ろ半分は本心だ。感情を乗せて伝えたので、後輩も納得したようだった。

「……それならよかったです」
「苗字もずいぶん熱心に見てたな。バチカン美術館に行ったのは初めてか?」
「はい……いつか行きたいと思ってました」
「アテネの学堂を見たくて?」

千景の問いに名前はゆっくり頷く。

「……父が好きだった絵なので……。実物を見ることができてよかったです」

父が好きだった絵。過去形で話すということは、彼の父親はもう亡くなったのだろうか。少し気にはなったが、そんな突っ込んだ内容を聞けるほど、この後輩と親しくない。今は、まだ。

千景の想像した通り、名前の父親は既に他界している。名前が十五の時に父と母が離婚して、名前は母と共に日本に渡った。それから少しして父は亡くなったのだ。『アネテの学童』は、父が書斎にレプリカを飾るほど愛していた絵で、子供の頃の名前は、あの絵を見ながら語る父の話が大好きだった。仕事漬けであまり家にいない父が、自分にかまってくれた数少ない時間でもあった。日本に来てからの数年間、ほとんど良いことがなかった名前にとって、父との思い出は心の拠り所だった。



「xx時xx分発、xx便にお乗りのお客様。ただ今よりご案内をーー」

名前が乗る便の搭乗開始がアナウンスされ、思い出に浸りそうになる自分を振り切るように立ち上がる。

「では……お先に失礼します」
「ああ。また来週」
「はい。……ありがとうございました」

眼鏡と前髪で隠れた目の奥に滲む色が、昨日までのそれより柔らかい。千景は、名前の眼差しを正面で受け止められず、ひらひらと手を振って後輩をラウンジの出口へと急かす。
マスクが隠す名前の口元は僅かに弧を描き、控えめに微笑んでいたが、千景には見えなかった。

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