六月になると、新規契約を狙っていたローマの企業と、千景らの会社にとって非常に良い取引を結ぶことができた。例の、夜に名前を呼び出そうとした男がいる企業だ。
あの日の後、先方とどういう話をしたのか、これからどうしていくのか、名前が聞いても千景ははぐらかすだけだった。契約を結べた今も、千景は経緯を教えてくれない。
部長や課長が千景と名前を労ったが、名前が喜べるわけもなく、部長からぽんぽんと背中を叩かれるのを無言でやり過ごした。
イタリアを皮切りに、海外出張への同行は増え、欧州の各国を一週間からニ週間単位で飛び回る生活が始まる。
イギリス、ドイツ、スペイン、オランダ、フランスーー。複数言語を嗜んでいることこそが自身の最大の強みだと思っていた名前だが、自分よりもずっと多くの言語を、それも言語使用人口がそれほど多くない言語まで習得している先輩に脱帽する。どこへ行っても、どの国の人、商談相手に限らずふらりと立ち寄るカフェの店員とも、現地語で会話をするのだ。もしかしてこの人に話せない言語は無いのか、と思うほど。ある時そう質問してみると、そんなわけないだろ、と呆れられた。
訪れる先々で千景は組織の仕事もしながら、時折、空いた時間には名前が現地の美術館へ行くのに着いて行った。特に美術鑑賞の趣味があるわけではなかったが、今までただ持っているだけだった美術に関する知識が、作品を前にすると意味付くような、味わいが深まるような気がした。
名前にとってもそれは同じで、さらに良いことに、絵画の近くに置かれた解説文のパネルには載っていない話を時々千景がしてくれるので一層面白い。稀に、明らかな作り話を吹き込まれるのにはジト目を送った。
静かな空間で、小声で交わすやり取りは心地よいものだった。
名前は、定期開催の新入社員研修に本社で参加することもあれば、出張先からオンラインで参加することもあった。
相変わらず親しい同期の一人もいない名前だが、愛想よく過ごすのは疲れるので一人行動のほうが楽だと思っているだけだ。決して人が嫌いなわけではない。研修でグループワークの時間があれば、必要に応じて発言する。さり気なくメンバーのサポートもする。マスクと眼鏡で表情が分からないので、とっつきにくくはあるけれども、名前を好意的に見てくれる同期が一人もいないわけではなかった。商談の成果が目に見えて積み上がりはじめると、苗字すごいな、と声をかけてくれる同期もいた。
名前への評価が段々裏返り、高まっていく一方で、妬む同僚が増えているのも千景は感じている。当初からライバル視していた瀧だけでなく、同じ部署の比較的若い連中や、他の部署の社員達のヒソヒソ話が耳に入るようになった。
ーーあんなコミュ障に商談なんて出来るか?卯木さんが下駄はかせてんのかな。あいつ、イケメンらしいよ。なんで顔隠しんだよ。枕やってたりして。
よくもまあ、他人のことでそんなに熱心に話せるものだと、千景はほとほと呆れた。呆れるだけに終わらず手を打っておけばよかったと後になって悔やむことになるのだが、この頃は、当の本人が平然としているので静観するだけだった。
妬みが水面下のものでなくなったのは、十月に入ってからだ。
コミュニケーションが取りにくいので、病気でないならマスクをやめてほしいという声が上がっている。他部署の先輩社員から、そう伝えられた。名前はわかりましたと短く返事をし、マスクを外した。
その日組織の仕事のために有休をとっていた千景は、翌日出社すると後輩がマスクをしていないので、マスクを忘れたのかと尋ねる。
「着けるのをやめました」
周りの空気が張り詰める。
これ以上この件について話をする気はないと言わんばかりに後輩がパソコンに向かって仕事を始めたので、千景もその場では話を引っ込めた。
「苗字、昼行こうか」
半年間、他の誰より多くの時間を過ごしてきた相手だ。千景の言動の意図を、名前はそれなりに理解できるようになった。ランチに連れてこられた喫茶店で、予想通り、正面から質問される。
「誰に何を言われた?」
「何のことですか?」
春にはコミュニケーション力不足が顕著だった名前も、千景と二人で話すのには流石にもう慣れている。
「とぼけるな。マスク、なんでやめた?」
「……表情がわかりにくくて迷惑をかけている気がしたので、外すことにしました」
「誰に言われた?」
「誰かに言われたわけじゃありません」
「……」
千景も、もう十分わかっている。苗字名前は頑固だ。
初めて一緒にカレーを食べたときから薄っすらと感じてはいた。仕事には素直に取り組むのに、変なところで頑なになることがある。マスクを外せと誰から言われたのか、後輩の口から聞くのは骨が折れそうだと早々に諦めた。何人か思い当たる人物はいる。自分がいない時を見計らって言いにくるあたり、あいつか、または……。
さてどう対応するかと考える千景をよそに、名前は窓の外を見た。ひどく曇ったガラス窓の向こうに、赤や青のぼんやりとした楕円が動いているのが見える。
「……雨、降り始めましたね」
「ああ。台風が近付いてるからな」
あっという間に、窓を叩く雨の勢いが強くなる。
その日、千景にも大きな変化が訪れた。