ひとりとひとりの息遣い


名前は、朝ぱっちりと目を覚ますことが出来ない。ちょっと声をかけられたくらいではまず起きないし、軽く揺さぶられても、ほとんどの場合は目が開くところまでいかない。
ぬるいお湯に半身を浸けているような、自分の輪郭がぼやけた感覚。眠りと覚醒と間の微睡みに漂っている。
その淡い世界に、ひやりとした感触が生まれる。それは頬をふに、と押してくる。
なんだろう。まだ寝させて。
んん、と小さく呻いて、布団を口元近くまで引っ張り上げた。素肌の肩に触れる布団のぬくもりがもう一度深い眠りに眠りに誘ってくれるはずだ。
……素肌?

薄っすらと目を開けた。間近に千景がいる。自分の頬をふにふに押しているのは千景の指だとわかる。

「おはよう」

朝、会社に行くと、その人はいつもにこやかに挨拶をしてくれる。春風みたいに爽やかで、そう声をかけてもらうのが好きだった。ところが今日のおはようはいつもよりずっとまろやかで、穏やかだ。夢みたいに。
重たい瞼をもう少し開く。
眼鏡をしていない千景と目が合っていても、未だ寝起きでぼんやりした名前の頭脳は働いていない。

「おはようございます」

おはようと言われたから、おはようございますと返す。ほとんどまともな音の形になっていない名前の返事に、それでも千景は満足そうに微笑んだ。

夢と現実の区別がつかない時間が過ぎて意識がくっきりしてくると、眠りにつくまでのあれやこれやを思い出し、名前は顔から火が出るほどの羞恥に襲われた。穴があったら入りたい。

布団を頭まで被ろうとする名前を千景が抱き寄せる。布団の中で少し背中を丸めている名前の頭はすっぽり千景の喉元におさまった。間近の体温。千景も上半身は裸で、名前は大いにためらったあとに、そろそろと千景の背に手をまわした。ふれた肌が思いのほか熱くて、恋を覚えたばかりのように胸が高鳴った。



会社では何事もなかったように、これまでと変わらず部署の先輩後輩として振る舞った。それなのに名前は平尾に何度も「苗字なんかあった?」と聞かれて、自分がいったいどんな表情をしているのか不安になる。

「別に、何もありませんけど」
「そうかあ?」
「……どうしてそんな事聞くんですか?」
「うーん。なんとなく?」

千景が会議のために席を離れている時を見計らい、トイレに立って鏡を見てみる。分厚い黒縁眼鏡と長い前髪で目を隠した無表情の男ーー自分が想像している通りの姿が映っているだけだ。内心では勿論どぎまぎしているけれど、顔には出さないよう気を付けている。なぜ平尾に感づかれたのか分からない。

「おーい。名前ー」

自席に戻ろうと廊下を歩いていると正面から至がやって来て、名前は昨晩至の約束を反故にしてしまったことをようやく思い出した。普段通りにしているつもりでいたが、自分のことに精いっぱいで周りに気を回せていなかったのだ。

「お疲れ様です。あの、昨日、すみません」
「いーよいーよ。それより、よかったじゃん」

詫びようとするのを軽く手であしらわれる。その手で肩を掴まれ、顔を寄せられてそう言われた。
よかったじゃん、とは、何がよかったのか。思い浮かぶことは一つで、えっ、と名前は声を上げる。

「卯木さんから聞いたんですか……?」
「何を?」

にやにやと至が笑う。

「何をって……」

名前がどう言えばよいやら困っていると、肩から至の手の重みが消えた。

「なにしてるんだ」

至の手を払いのけた千景が取り澄ました顔で二人の後ろに立っている。千景の顔を見ると心臓が飛び跳ねて、一瞬固まるが、千景が入っていたのと同じ会議を終えたメンバーが続々と向こうからやって来るので名前は気を張る。「内緒話です」と至が言うのを千景がじとっと見下ろした。

千景に至という社内でも抜群に注目度の高い二人が揃っているのを、社員、特に女性達がちらちらと見ている。二人ともその視線には気付いていて、解散だと言うように千景が名前の背をトンと押して行く。それだけで、名前の心臓はひっくり返りそうになった。