猫の恩返し


その日は朝から雨が降っていた。
晴れの日はまだまだ残暑が厳しいが、夜になると風は涼しく、夏が完全に終わったのだと感じる。雨の日は特に、季節が変わったという実感が強い。
仕事を終え、夜の春組稽古のために早足でMANKAI寮に向かう千景。大粒の雨が振り続けていて気温は低く、長袖のスーツを着ていても若干の肌寒さを感じた。

仕事で予定外の打ち合わせが入ったので、稽古に遅れる旨を監督には連絡してある。仕事と演劇の両立を応援してくれている団員ばかりなので少しの遅刻くらいで咎められることはない。しかし、遅れは少ないほうがいいに決まっている。
そんな先を急ぐ千景の耳に、猫の鳴き声らしきものが聞こえた。

「……」

足を止めて振り返ると、一匹の黒猫が鳴きながら後ろをついてきている。物音には敏感な質だが、雨と、雨が傘にぶつかる音のせいで猫の鳴き声に気づくのが遅れたようだ。
猫は千景を見上げてニャアニャアと一生懸命鳴く。ずぶ濡れで、体のところどころが泥で汚れていた。疲れているようで、精一杯の鳴き声でも、力ない声だった。
だが存在に気づいたとて、どうしてやりようもない。
気の毒だと思う心が無いわけではないけれど、ここで一時的な助けを与えては、この猫が今後野生で生きていく術を奪うかもしれない。一生世話をする覚悟がないなら、無責任に手を貸すべきではない。

千景は猫から目をそらし、寮への帰途を急いだ。苦々しい思いを振り切るように、さらに足を早めて。



千景が稽古に合流してしばらく経つ頃、千景の後を追っていた黒猫は、MANKAI寮に辿り着いた。中庭の方へまわり、強い雨脚にかき消されながらも懸命に鳴き続ける。
猫の声にいち早く気づいたのは密だった。

「お前、見ない顔だね」

このあたりに住まう猫とは概ね会ったことがある密は、しゃがみこんで、初めて見る黒猫と目を合わせた。猫がナーンとひと声鳴く。

「わあ、猫さん。……なんて言ってるんでしょう?」

猫の声を聞きつけて、談話室から軒下へと椋も出てくる。猫は密にも椋にも警戒する様子がなく、ンー、ンンーと何か言いたげに鳴いた。

「わからない。三角が帰ってきたら、聞いてみよう」
「そうですね!あ、僕、タオル持ってきますっ」

猫と話ができる三角は、タイミングの悪いことにバイトへ出ている。一時間もすればお前の言葉がわかるやつが帰ってくるから、と密は猫に言ってみた。返事は期待していなかったけれども、猫はまるでハイと返事をするように、ンーと短く鳴いた。

屋根の下で、猫をバスタオルで包み抱くようにして、密が猫の冷えた体を拭いてやる。バスタオルから飛び出す足は泥まみれで、椋が小さめのタオルでそっと拭いてやった。触られるのを嫌がるかと思われたが、猫はおとなしい。

「どこかの飼い猫でしょうか?」
「そうかも」

体を抱かれても嫌がらないほど人に慣れているので、野良ではなさそうだった。首輪はしていないけれど、本来の毛並みは悪くなさそうで、痩せすぎということもない。
飼い主を探すのも、やはり三角の助けがあれば話が早い。密と椋は猫をタオルで温めながら、談話室で三角の帰りを待った。濡れた体をタオルで拭かれ温めてもらった猫は、二人の間で、赤ちゃんのようにうとうとと眠そうにしている。

しばらくして春組稽古が終わると、談話室の
人口が一気に増えた。
猫の存在をいち早く認めたのはシトロンで、密と椋が抱える黒猫に駆け寄った。その勢いに猫は驚き、身を竦ませた。子猫ではないけれど、成猫にしては小柄な体がいっそう小さくなる。

「あの猫……」

シトロンにあごの下を指先でぐりぐりと擦られ、無言で受け入れている猫。それが帰り道に自分の後をついてきた猫だと気付き、思わず呟いたのを、近くにいた綴が聞いていた。

「千景さん、どうかしたんすか?」
「いや……あの黒猫、俺が寮に帰るのを途中まで着いてきたんだ。ここまで来るとは思わなかった」
「へえ。千景さんの知り合いの猫なんですか?」
「そんなわけないだろ」

千景が猫を苦手としていることは、劇団員の多くが知っている。庭や近所で出会う猫を積極的に避けている千景が、この黒猫のことを知らないと言うのも不思議ではない。
けれど黒猫は、千景の言葉を聞いて項垂れたように耳を下げた。そして自分を包んでいたタオルから飛び出して、窓際に歩み寄る。とぼとぼ歩く後ろ姿が切ない。

「なんか、ションボリしてない?」
「そうですね……どうしたんでしょう」

至がそう言うと、椋が心配そうに頷いた。
猫は外に出たいらしく、窓をかりかりと掻いている。

「帰りたいの?」

外はまだ雨が降ってるよと密が猫に話しかけると、猫はウニャウニャ、ウニャ、と長めに鳴いた。鳴いていると言うより喋っていると言ったほうが近しい。
猫語の通訳をシトロンが試みるも、トンチンカンな内容で、絶対違うだろと綴がすかさず突っ込む。そんなやり取りも猫はじっと見ていた。猫の眼がどことなく楽しげにひかったので、椋は少しホッとした。

「もうちょっとしたら、キミの言葉がわかる人が帰ってくるんだ。それまでここにいない?」

猫を温めていたタオルをぽんぽんと優しく叩いて、椋が猫を呼ぶ。猫はちょっとだけ考えるような間を置いてから、椋と密の間で細い体を丸めた。二人に順番に撫でられ、くるくると喉を鳴らし、リラックスしているようだ。
千景の後を懸命に追ってきた猫だったが、もう千景に向かって鳴きはしなかった。猫に好かれたいとは思っていない千景なので、興味を失われても別に構いはしない。

ところが、三角が帰宅すると、千景は大いに狼狽えることになる。

「あれ〜?名前だ〜!」

三角がそんな事を言うからだ。

妙な冗談を。
最初こそそう思ったけれど、名前と呼ばれた猫はやっと分かってもらえたと言いたげに嬉しそうに三角の足に擦り寄る。三角がしゃがむと、三角の顔に自分の額をぐりぐりとこすりつけた。その様を、千景は信じられない思いで見る。

「名前は猫さんに変身できるんだね〜!すごいすご〜い!」
「名前さんにそんな特技が……!素敵です!」
「言われてみれば、名前に似てるかも」

三角がはしゃぎ、椋と密は疑いもなく受け入れている。シトロンは新しいおもちゃを見つけた子どものようにはしゃぎ、至は「猫化の鉄板は猫耳としっぽが生えるだけなのに」とオタクらしい発言をしている。
そんな馬鹿なとまともな反応をしたのは、この場では千景のほかに綴だけだった。

千景は携帯電話を取り出した。シトロンに抱きしめられ頬ずりされている猫を視界におさめながら、名前に電話をかける。虚しくコール音が続く。名前の会社用のほうにも電話をかけてみた。こちらにも出ない。
この時間、名前は部屋でゲームをしているはずだ。出張中ではないし、寝るには早い。

「名前の家に行ってくる」

猫の言葉が分かるという三角に、この猫は名前だと言われても、簡単に納得できるわけがない。彼を信頼していないとかそういうことではなく、常識的に考えて、だ。
そうしてMANKAI寮を飛び出した千景は、数十分後、何とも言えない難しい顔で寮へと戻ってきた。名前に会えなかったのだ。電話も一向に繋がらない。試しに会社へも電話をしてみたが、とっくに帰宅したはず、とのことだった。

猫は今、東に撫でられながらも、帰ってきた千景をそろりと見上げている。

「……名前……なのか?」

千景が意を決して猫に問いかけると、猫はニャーウ、と答えた。「そうです、だってー」と三角が通訳をする。

劇団員の考えはいくつかに別れている。
人間が猫になるなんて、そんな素っ頓狂な事が起こるわけがないという現実主義の左京や莇、幸ら。不思議なことも時には起こるものだという、紬や丞、誉ら。非現実的だけれども意外にひと晩寝たら解決しているかもしれませんよ、と柔軟かつ楽観的に捉えている監督や至。
考えが別れていても、総じて言えるのは、劇団員がこの黒猫にすっかり絆されているということだ。莇なども「こいつが名前さんとか、ありえねえだろ」と言いながら猫の眉間を搔くように撫でている。

現象の解明は全く出来ていないものの、この猫が本当に名前かもしれないと千景がかすかに思い始めているのは、劇団員全員に等しく懐いているからだ。三角や椋はともかく、突然歌うように詩をよむ賑やかな誉、やたらと触りたがるシトロンなどは一般的に猫から好かれそうにないーーと千景は内心思っているーーのに、漏れなく全員に愛想よくしている。
それに、猫の青い目は名前の目とよく似た色をしているし……。
という風に千景が考えを巡らせている間に、猫をお風呂に入れてあげようと話が進んでいた。

「タオルで拭いただけじゃ、まだ寒そうですね」
「汚れも綺麗に落としてあげたいよね」

椋と咲也がそんなことを言いながら猫を抱き上げて風呂場へ連れて行こうとしている。そこへ千景は待ったをかけた。

「俺が洗うよ」
「えっ、千景さん、猫さん苦手なのに……あ、でも名前さんですもんね」
「名前さんも、千景さんのほうが気心が知れてて、お風呂でゆっくりできるしれませんね」

咲也の言葉には、それはどうだろうかと思った千景だったが、無言で笑って猫を椋の腕の中から抱き上げた。
猫を抱っこするなんて、千景にとって初めての経験だ。上手に抱えられない。猫も居心地が悪そうに身を捩っている。
劇団の中で、千景と名前の親密な関係を知っているのはまだ一握りだけだ。咲也も椋も、千景さんは優しいなあ、千景さんは面倒見のいい先輩だなあ、とほっこりして安心して千景に猫を託した。姿が猫でも他の人間に名前の体を洗わせるわけにはいかないという千景の男心には、二人は少しも気付かない。

猫の体の洗い方をネットで調べ終わると、千景は猫を抱えて風呂場に入った。タイルの上におろされた猫は身をかがめている。この猫を名前だと思って見ると、恥ずかしがっているような、または人に体を洗われるなんて気が引ける、とでも言いたげな表情に見えた。

「……本当に名前なのか?」

ニャウ、と控えめに返事をされて、千景は常識を一旦捨てることにした。

ほとんどの猫は水に濡れるのを嫌う。それは猫になった名前も同じであるらしく、生ぬるい温度のシャワーを浴びせられながら、この世の終わりのような顔をしている。
本当は逃げたい。何故だかすごく濡れるのが怖いし、体を洗われるのも、遠慮したい。しかし自分の手足や胴体についた泥は不快で、何より、自分に触れてくれる人が汚れてしまうのは申し訳がなかった。大人しく洗われるべきだ。

千景は千景で、何とも言えない気持ちを抱えている。
名前と風呂。それは大変楽しそうな響きに聞こえるのに、どうして猫?
千景はジャージを着ている。名前は、これは裸と言っていいはずだ。
そして自分たちは恋人同士。
でも、猫だ。

シャワーには何とか耐えた名前だったが、そのあと待ち構えていたドライヤーは耐えられなかった。ゴオオオオ、という激しい風の音が恐ろしい。千景がおいでと言うのも聞かず、脱衣所の隅っこで小さくなる。
恐怖でいっぱいの目を向けられると、流石の千景も、かわいそうな事をしている気がしてドライヤーで乾かすのを諦めた。バスタオルを持って、もう一度おいでと言う。
ドライヤーを向けられないならと、名前は千景に近づいた。バスタオルでわしわしと拭かれるのは悪くない。他のみんながしていたように、耳の付け根あたりやあごの下を千景が撫でてやると、うっとりと目を閉じた。誰に撫でられるより心が安らぐ。

どうして猫の姿になったのか、名前には見当もつかない。猫に関わったことといえば、少し前、猫が車に轢かれそうなところを助けたくらいだ。

突然猫になって人間の言葉を話せなくなり、千景には見捨てられ、雨にうたれて体が冷たくなり、名前は不安に押しつぶされそうだった。密や三角がいなければどうなっていたことか。
特に三角には、感謝してもしきれない。自分が自分であることを証言してくれたのだ。人間に戻れたらたくさんお礼をしなければと思う。

その晩名前は、何人もの劇団員たちに一緒に寝ようと誘われた。名前自身、猫が好きなので、猫と添い寝ができたらどれだけいいだろうと思う。
名前がどの部屋で寝るかはじゃんけんで決まるらしく、談話室ではじゃんけん大会が行われている。
けれども、名前は今、千景の布団の中にいる。いる、というより、押し込まれたのだ。千景は、じゃんけん大会が始まる前にそっと猫を誘拐しておいた。

考えるべきことはあるけれど、疲れたせいか、名前は布団に入るとすぐに睡魔に襲われた。すぐそばの千景の体温も心地よく、ぴたりとくっついてみる。もう目を開けていられない。

自分を頼るように引っ付き、まるまって寝始めた毛玉の生き物を千景はいつくしみ、やさしく撫でた。柔らかい毛に手を触れさせているうちに、ふわふわした幸せのようなものに包まれて、千景も眠ってしまった。



ひと晩寝たら解決しているかも、と誰かが言った通り、目が覚めたら名前は名前だった。

「こういう時は全裸なのがお約束なのに」

至の言うお約束が無かったことは、名前にとって不幸中の幸いだった。