星が落ちても大丈夫 1


ほとんどの劇団員が夢の中にいる時間。密は薄暗い廊下を通り抜け、真っ暗な談話室に入った。
暗闇でも、そこに誰がいるのか密の眼にはよく見える。相手もまた、やって来たのが密であると分かった。二人は人間よりも眼がいい。

「今日も飲まなかったの」
「……飲めそうな奴がいなかった」

密が問うと、千景はそう答えてコップに注いだ水を飲んだ。

この世界には人間以外の人型の種族がいる。
千景と密は吸血鬼だ。
普通の人間と姿形は全く変わらず、日光の下に出ても平気なので、人間として暮らすには問題ない。劇団員たちにも正体を明かしておらず、千景はエリート商社のサラリーマン兼役者として、密はフリーター兼役者として生きている。
幼い頃に吸血鬼だけで構成された組織に二人はそれぞれ声をかけられ、そこで匿われ、仕事をして生きていたいた。訳あって最近まで別離しており、仲違いと言うには重すぎるほどの出来事もあったのだが、和解して今に至る。

千景と出会ったばかりの頃、密は、千景の血の好みのうるささにひどく驚いたものだ。
密にしてみれば人間の血の味にそれほど大きな差はない。多少は、甘い血、苦い血、と感想を抱くことはあるけれど、どれも飲めないほどじゃない。ところが千景は血を不味いと言う。それは冗談なんかではなく、吸血したあと、千景は毎回吐いてしまうのだ。
吸血鬼の食事は血だ。人間として暮らすために人間の食事も摂るけれども、腹が膨れるだけで、吸血鬼にとっての栄養は人間の血からしか摂れない。
人間の血が舌に合わず、吐いてしまう千景は、他の吸血鬼に比べて圧倒的に吸血の頻度が低い。ほとんどいつも栄養不足の状態である。

千景がMANKAIカンパニーに入って三ヶ月が経つ。ここ最近は仕事の忙しさにかまけて血の摂取を怠り、顔色の悪さを隠せなくなってきていた。劇団の仲間達は千景を心配している。
昔、千景の体調を気にかけていたオーガストはもういない。自分が体調を管理してやるしかないと、密は口を開いた。

「血を飲まないと、オレたちは死ぬ。それだけじゃない。周りの人を傷つける」
「……言われなくてもわかってる」

密の言葉はぽつぽつと紡がれ、抑揚がほとんどない。しかしその胸の内は千景に正しく伝わっている。

吸血鬼は人間よりも頑丈な体を持ち寿命も長いが、人間の血を飲まなければ干からびて死ぬ。
ただ、吸血鬼が干からびて死ぬことはほぼあり得ない。干からびてしまうまでに、血に飢え、我を忘れて人間の血を求めるようになるからだ。自我を失い手加減もなくした吸血鬼は、人の脆い体など簡単に握り潰してしまう。
血を飲まなければ、劇団員に危険が及ぶ。そんな事態は千景とて絶対に避けたい。入団の経緯は歪だったけれど、MANKAIカンパニーは千景にとって大切な場所になった。

「飲んだことないけど、飲めるかも、みたいな人間はいないの」

密かに問われ、千景はちらと考えた。じっくり悩むまでもなく、一人の人間が思い浮かぶ。

「それは、一人いる」
「誰?」
「苗字名前」

誰と聞きながら、もしかしてあいつかと密が予想したのと同じ人物の名を、千景は告げた。以前、家に空き巣に入られ、新居を探す間の仮住まいとしてMANKAI寮に身を寄せていた男だ。彼に寮住まいを提案したのは千景だと聞いた時には密も驚いた。千景は、自分のテリトリーに他人をやすやすと招き入れたりはしない。
会社の後輩だという苗字名前は、遠慮がちな人間だった。穏やかで寛容そうな彼の纏う空気を密も気に入っている。寮を出た今も彼は時々遊びに来ていて、その時は密の膝枕として活躍していた。

嗅覚も触覚も優れた吸血鬼の中でも過度に神経質な部類の千景が、飲めるかもと思うのなら、きっと苗字名前の血は飲めるのだ。実のところ、飲みたいと思っているのかもしれない。
けれども身近な人間の血を飲まないのは、吸血鬼にとって常識でもある。

吸血鬼は人より優れた体を持つが故に人に恐れられ、迫害されている。吸血鬼を撲滅しようという団体もあるくらいだ。
そういう団体に所属する人間は、親しい人を吸血鬼に殺されたり襲われたりした経験のある者が多い。当人達にしてみれば吸血鬼は悪である。被害者は『人間を殺す吸血鬼』にたまたま遭遇してしまっただけで、多くの吸血鬼は好んで人を殺したりはしない……と、もし誰かが事実を伝えたとしても、一度根付いた価値観を変えるのは難しい。

一方で、吸血鬼にとっても、吸血は生きるために必要なことだ。そこに善悪の価値観は生じない。人の血を吸うことは、吸血鬼にとって全く悪びれることではないのだ。血を貰っただけで、生かして帰したのに「襲われた」などと騒がれて、たまったものではない。
確かに同族の中には人間を食事としてしか見ていない者もいるが、人間が牛や鶏を食べるのと違わないのではないか。と、吸血鬼にも言い分がある。

それなのに何故吸血鬼の多くが人間に紛れて生活しているのかというと、吸血鬼の、生体数の少なさが原因の一つである。
一対一であればちっとも怖くはない、か弱い人間。けれど徒党を組んで襲われ捕らわれれば、吸血鬼とて殺される恐れもある。
身近な人間の血の吸うのは、正体が世間に知られてしまう非常に危険な行為だ。
そういうわけで吸血鬼は、ほとんどの場合、見ず知らずの人間を路地裏などで捕まえて、死なない程度の血をいただくことにしている。

「千景は、名前を檻に入れたくなさそう」

吸血鬼の中には、気に入った血の人間を閉じ込めて、いつでも吸血できるようにしておく者もいる。閉じ込めてしまえば「あいつは吸血鬼だ」と外で騒ぎ立てられる心配もない。
しかし千景は、密が言う通り、そんなことをする気は毛頭なかった。密の言うことに一瞥をくれただけで、返事もしない。
苗字名前は、気にかけてきた後輩だ。仕事にやりがいを持っているのも知っているし、その後輩に影響され、千景も仕事を面白いと思えるようになっている。自身の都合だけで閉じ込めるなど出来ない。
血は、飲んでみたいけれども。

「じゃあ、わけを話して、頼んでみるのはどう」
「吸血鬼なんだ、血を飲ませてくれって?……頼めばOKしそうな気はする」

捻りのない提案だったが、ふむ、と千景は考えた。
お人好しな後輩。元上司である自分にはそこそこ懐いていると思って間違いないだろう。気まぐれに休日に美術館へと誘えば、横に立つのに相応しいものをと上から下まで服を新調してくるぐらいだ。
吸血鬼だと言えば多少驚いて、怖がったとしても、結局は自分の頼みを聞いてくれそうではある。
信頼を利用するようで気が引ける、などと言っていられない状態になったら頼んでみるか。千景は独り言のように淡々と呟き、ひとまず密を納得させた。



数日後、定時間際。小さな会議室に千景と名前は向かい合って座っている。
イタリア販路の下半期計画を定めるため、去年までイタリアを主に見ていた名前からも簡単に意見をもらう目的で開かれたミーティング。主催のはずの浅田は他のミーティングとバッティングさせてしまい、千景に平謝りしてもう一方のミーティングへと走っていった。

いつもながら賑やかな浅田を見送ってから、名前は千景の顔をそっと見やった。
日頃からそれほどハツラツとした印象のある先輩ではないが、最近は、目に見えて元気がない。平気そうに振る舞っているが今日など顔は真っ青だ。
ミーティングをてきぱきと終え、パソコンを閉じながら、ちょうど他に人もいないしと千景に声をかけた。

「卯木さん、風邪ですか……?顔色がよくないです」
「ああ、ちょっと寝不足が続いててね」
「代われる仕事は代わりますし、出来ることがあればお手伝いするので……無理しないでくださいね」

遠慮がちな後輩がここまで言ってくれるとは。相当心配をかけていると分かり、それが不思議に心地よい。
栄養が足りず頭にモヤがかかったような鈍い思考のまま、千景は会社内で誰にも見せたことのない、力ない笑顔で応えた。

「ありがとう」
「いえ……卯木さんにはお世話になってるので、お返しできることはしたいです」

黒髪と眼鏡の奥の瞳に憂いが宿っている。
名前が立ち上がると、ふわっとそよ風が吹いて、それに包まれるような感覚を千景は得た。
風、それは匂いとか、フェロモンと言い換えられるかもしれない。清涼感の中に、無視できない芳醇な何かがある。
名前につられるようにして、無意識に千景も立ち上がった。それがいけなかった。
ここのところずっと栄養不足の千景だ。ぼうっとして、床を踏みしめる足に力が入らず、立ち上がるも体がぐらつき、咄嗟に机に手をついた。

「卯木さん!?」

千景の元へ駆け寄って、名前が体を支えようとする。その時かすかに指と指が触れた。千景の体にビリッと鋭く電流がはしる。痛みなどではなく、衝撃のような信号。
そして勢いのまま、千景は名前の後頭部に手を添えて首に噛みついた。

「っあ…………!」

牙を立て、思いっきり血を吸う。
喉を潤す後輩の血。今まで飲んできたどの血も比べ物にならない。美味しくて、我慢ならず二度三度と吸血する。

千景が我に返った時、後輩は腕の中で気絶していた。一気に大量の血を失い、貧血状態にあるのだ。

目を閉じてぐったりする名前を抱きかかえ、千景は、自分に失望した。やってしまった。こんな襲うような真似をするつもりはなかったのに。
もう引き返せない。
けれど、後悔と同時に、どうしようもない高揚感をも覚えてしまったのだった。その意味でも、引き返すことはもう出来ない。