星が落ちても大丈夫 6
頬を引っ叩かれたような気がした。
血を供給してくれる人間が他に見つかったので、もう苗字から飲ませてもらう必要がなくなった。千景からのメッセージを、名前は繰り返し読んだ。
最後に血を飲んでもらってから五日が過ぎる頃、そわそわとし始めた。ここ最近、相変わらずお互いに海外出張はちょこちょこと入っていたけれど、少しも会えないほどではなかった。次の約束については、いつも千景の方から連絡が来ていた。こんな風に音沙汰無いのは初めてだ。今日こそ連絡があるだろうかと待っていても、携帯電話は沈黙している。体調は大丈夫なのだろうかと思い、出社が重なった時にちらと千景を見てみる。顔色はそう悪くなかった。
十日が過ぎたところで、焦れて名前からメッセージを送ってみた。そうしたら、要するに「必要ない」という返事が届いた。
瞬きも忘れて、小さな画面を見る。全く予想していなかったことを言われ、一度読むだけでは理解出来なかった。
繰り返し読んでいると、着信があった。卯木千景、と画面に名前が出て、恐る恐る応答した。
茫然としている名前の耳に、千景の言葉がするすると送りこまれる。さっき文字で読んだことと同じもの。そして、今までありがとう、負担をかけて悪かった、と。
「よかったですね」
咄嗟に、そう言った。乾いた口からぽんっと出てきた、あっさりとした声だった。どうかすると、冷たくも聞こえる。自分がそんな声色を持っていたことに名前は驚いた。
「困ったら、また、いつでも言ってください」
声は、笑ってさえいた。
その後は二、三、どうでもいいようなことを短く話して電話を切った。
二人用のソファの右側に深く腰掛けて、携帯電話を放る。いつも左に千景が座る。名前は右。それはもう癖みたいなもので、名前は部屋に一人でいる時も、このソファの左半分を空けて座る。
飲める血が極端に少いと言うあの人が、自分以外に栄養源を見つけたのは、良い事だ。
目を閉じ、鈍感になりたがる頭を焚き付け、考える。自分が死んでしまったら、他の人間の血を飲めない千景はどうなるのか。口にしたことはないけれど、そのことを名前はずっと、うっすらと不安に思っていた。
いなくなったらいなくなったで、どうにかして次の人間を見つけられるものなのだろうか。それとも自分と会う前のように、枯れ果ててから最低限の血を飲んでは吐くような、弱った身体を引きずって歩く生き方をするのだろうか。同じだけ生きられたら、ずっと支えてあげられるのに。
良い事なのだ。それなのに、本気では喜べない自分を、名前は恥じた。
負担をかけて悪かったと言われたけれど、負担なんて、少しも感じていなかった。役に立てることは名前の心を満たしたし、触られた身体は目も当てられないくらい沸騰した。
自分を受け入れ、必要としてくれる人に、初めて出会えた。
これは依存で、恋だった。好きだと言われていなくても、血が必要なだけでも、触れてもらうことは幸せだった。
心が、ぱらぱらと端のほうから欠けていく。
それでも、困ったら言ってくれなどと頼もしい言葉を最後に返せた自分に、名前は及第点をやることにした。
けれども、動揺は仕事の方に顕著に出てしまった。一年目にしなかったようなミスを連発したのだ。社内で事が片付くような小さな失敗だけでなく、取引相手の手を煩わせるような不手際も立て続けに。
平尾は謝罪とフォローのプロフェッショナルで、過去一番と言っていいほど頼もしく輝いた。名前は平尾に頭が上がらない。浅田には思いっきり揶揄われたが、不快ではなかった。気を遣われるよりは笑い飛ばされる方が、有り難かった。
至に居酒屋に連れ出されたのは、疲労がべっとりと身体に張り付いて、仕事に行きたくないと初めて思った頃だった。千景と名前が個人的な連絡を絶ってから、一ヶ月近くが経とうとしている。
ブラヴォーのイベント終わりの日で、打ち上げをしようと至は誘い出した。名前は今回のイベントをほとんど走っていない。ログインすらしていない日もある。それは、ブラヴォーでフレンドのたるちも、よく分かっている。
今回のイベントのストーリーがどうとか、報酬の性能が中途半端だとか、そういうことを至は長々と愚痴った。返事を求めない喋り方が名前には気安い。
何度もグラスを空にし、お互いの顔が真っ赤になっているのをふにゃふにゃと笑う。
「疲れてんね、名前」
至はゆっくりと本題を切り出した。心から気にかけているような声色に、つんと名前の鼻の奥が痛くなる。
名前の仕事の失敗は、他部署の至の耳にも届いた。名前は一年目から目立っていた有望株だ。そういう人間の失敗談は、光の速さで社内に広まる。
「最近さ、先輩と話してる?」
好きな子が落ち込んでいるのを放っておく人間には思えない。目ざとい上に、自覚は無いようだが面倒見のいい人だ。しかし名前が首を横に振ったので、至は一瞬眉を寄せた。
「いいえ。卯木さんも、忙しいですし」
今日だって千景は出張中で、まともに話をしたのはずっと前だ。部署は同じでも受け持ちのエリアが違えば出張ですれ違いになるし、千景には劇団もある。基本的に忙しい身だ。ただ、会社で全く顔を合わせないというわけでもなかった。
なにやってんだ、と至は同室の先輩に呆れる。先輩も最近は元気がない。元々覇気に満ちているような人ではないが、最近特に酷いのだ。隠せているつもりだろうか。
それでも好きな子が困ってたらフォローくらいしろよ。恋愛初心者かよ、初恋の小学生かよ、と至は思い、はて、もしかして、と固まった。
もしや、そうなのか?
「大丈夫です」
至の頭の中を想像することなく、名前が言った。
「最近の俺は、ちょっと、仕事に身が入ってなかったです。でも、明日からは」
明日は千景が出張から帰ってくる。顔も合わせるだろう。
だから頑張るのではない。
「明日から、また、がんばります」
至が心配してくれていると知ったから、頑張りたいと思ったのだ。
声が震えた。頑張ると口にしたら、ぼろぼろと涙が零れた。
自分は、失恋したらしかった。血が要らないのなら、好意などもっと要らないだろう。失恋のせいで仕事が上手くいかなくなったなんて、情けない。多くの人に迷惑をかけて申し訳が立たない。
口を一文字に引き結ぶ。別に、永遠の別れじゃない。明日も会うのだし、血は必要とされなくても、仕事でなら役に立てることがあるかもしれない。いや、役に立ってみせる。ここから、また信頼を積み重ねてゆく。
とにかく、しゃんとしよう。
名前は至の目を見て、ちょっと笑った。自分が泣いたせいか、戸惑っているようだった。そんな人がいてくれることが嬉しくて、胸がきゅ、と詰まる。友達というのは、こういう存在のことだろうか。
「ま、ほどほどにね。大体、名前はじゅうぶん頑張ってるんだからさ」
至がポケットからハンカチを出して、名前の顔に押しつける。すると名前がまたぼろぼろと泣き出すので、至は困り果てた。寮に帰ると、至は脱いだ靴下を千景のスペースに投げ込んだ。もちろん、嫌がらせのためだ。
久しぶりにちゃんと顔を見た後輩がさっぱりとした表情で仕事をしていたので、千景は内心で胸をなでおろした。らしくないミスをしていたし、部署のオンラインでの会議で聞く声が硬かったので、気掛かりだったのだ。けれども自分から距離を置いた相手にどう接したらいいのか、正直なところ、分からなかった。
血を飲ませてくれる人間を見つけたというのは、名前と距離を置くためについた嘘だ。そんな存在はいない。
嘘をつき通すために、以前より頻繁に、人間の血を飲むようにしている。顔を見られないよう、そして殺さないよう、少量を多くの人間から。
その中の誰の血も美味しくはない。前にも増して、不味いと感じるようになった。泥。虫をすり潰した液体。わけのわからない刺激的な毒物。こんなものを一生飲み続けるなんて、悪夢だ。
でも、飲まないで過ごすよりは、吐いてでも飲んだほうが体調が良いのは確かだった。千景の気分は最悪でも、栄養はとれている。
あのまま血を貰い続けていたら、後輩が完全に体を差し出すのも時間の問題だったはずだ。あいつは自分に気を許し過ぎている。そのことが嬉しくて、嬉しくない。
これでよかったのだと、千景は自分に言い聞かせる。
仕事はいい。仕事をしている間は自分の感情を忘れさせてくれる。
劇団のほうでは渦巻く感情を放置して芝居は出来ず、咲也や監督さんに気を遣われ、真澄にはストレートに酷評され、シトロンは綴を引きずってきて面白おかしく話しかけてくる。茅ヶ崎だけは、不満そうに靴下やシャツを無言でぽいぽいとこちらに投げてくるのだった。
「何か言いたい事があるなら言え」
何度も邪魔なものを投げて寄越すので言ってみると、「その台詞、そっくりそのままお返しします」と意外に真剣に言われた。
思い当たる事は、当然ある。でも、千景は口を閉ざした。
調子を取り戻しつつある名前は、マーケティング部とのプロジェクトにメンバーとして参加し、仕事に打ち込んでいた。マーケティング部との打ち合わせは毎度有意義で、時間が足りないくらいだ。
「苗字くん、もうちょっと打ち合わせしたいんだけど、このあと空いてる?」
「はい。よろしくお願いします」
「上の階の会議室とってるから」
プロジェクトメンバーの一人、高岡が、嬉しそうに名前の肩をとんと叩く。至とゲームの約束をしているけれど、少しの打ち合わせなら大丈夫だろうと、飛鳥は高岡と二人でエレベーターに乗った。
エレベーターは屋上まで止まらなかった。